第8話 忌魔島奇譚 その七
「……青蘭?」
繊細な機械は壊れやすいんだ。
青蘭はもうもとには戻らないんだろうか?
不安な気持ちで、龍郎は青蘭を見つめた。
青蘭はぼんやりした目で見返していたが、急に龍郎の姿を認識したように、妖艶な、だがドロッとした笑みをむけてきた。
「……ねえ、あなたも来てよ。天国にいかせてあげる」
人魚たちの体液で汚れた両足をひらいて、誘ってくる。
龍郎は目をそらしてコートをぬいだ。
歩みよって着せかけようとすると、青蘭は両腕を伸ばして、するすると龍郎の首をかきいだく。甘い吐息が耳元にかかると、龍郎はクラクラした。もうこのまま、どうなってもいい気がしたが、正気でない相手にそれをすることは、龍郎の良識が許さない。
「ダメだよ。青蘭。しっかりしてくれ」
すると、青蘭は変なことを言った。
「わたしはセーラじゃないわ」
なんで女言葉なんだと思いつつ、即座に返答する。
「じゃあ、誰なんだ?」
青蘭は妖しく笑って、甘い息を龍郎の耳にふきこんでくる。
「アスモデウス、よ」
「アスモデウス?」
それは以前、青蘭の口から聞いたことがある。たしか、龍郎の部屋に泊まったとき、夜中に火事の夢にうなされた青蘭が、そんなことを口走っていた。あのときは、去れ——と言っていたように記憶しているが?
(アスモデウス。西洋人の名前みたいだな。あとで調べてみよう)
とにかく今は逃げることがさきだと、龍郎は考えた。
「誰でもいいから逃げよう」
「抱かないの? つまんない。グズ。愚民。わたしの可愛いお魚ちゃんたちを役立たずにしてくれたくせに。楽しい夜だったわ。セーラはきっとまた、あとでヒステリー起こすんでしょうね」
グズ、愚民と言われて、一瞬へこみかけたものの、その後のセリフが気になりすぎる。
「あんたはセーラじゃないんだな?」
「そう言ったじゃない。同じことを二度言わせないで」
「あんたとセーラは別人?」
「知らないの? この体はもう、わたしのものなのよ」
「どうして?」
「わたしの恋人が、セーラと契約したのよね」
「あんたの恋人って誰なんだ?」
龍郎が早口で問いつめると、青蘭の顔をした青蘭でない誰かは高らかに笑った。
「何? やっぱり妬いてるの? ほんとは欲しいんでしょ?」
なんだか、むしょうに腹が立った。
「違う! おれが好きなのは青蘭だ。青蘭を返してくれ」
言うと、青蘭は軽蔑的な目になって、
「愚民」
ひとこと言いはなって失神した。
龍郎の腕のなかにくずれおちてくる。
このまま、ここにいることはできない。一刻も早く逃げださないと、別の人魚が集まってくるかもしれない。
龍郎は青蘭を抱きかかえ、牢屋をかけだした。
森のなかを走っていると、青蘭が目をひらいた。
龍郎は立ちどまり、茂みのかげに青蘭をおろした。
「青蘭……」
なんと説明すればいいのか?
青蘭は自分の状況がわかっていないに違いない。
青蘭は病気だ。きっと、あの火事の後遺症で。
解離性同一性障害——
つまり、俗に言う多重人格だ。
(あのとき、青蘭の心は壊れた。自分を別の人格のように思うことで苦痛を軽減しようとした。今もずっと、そのときのまま……)
龍郎が手をさしのべようとすると、青蘭はその手をパチンと叩いてふりはらう。
「青蘭……」
「わかってる。アスモデウスが出たんだろ? また僕の体を勝手に汚して。あいつは淫魔だからな」
「君は病気だ」
「…………」
とつぜん、青蘭はだまりこんだ。
龍郎の目の前で、両のこぶしをゆるゆると握りしめる。その手が、しだいにブルブルふるえてきた。
「青蘭?」
「みじめだろ? 君を愚民あつかいした僕の実態がこのざまだ。笑いたければ笑えよ」
「笑わない。笑うわけないだろ」
「医者は言ったよ。僕のなかにはアスモデウスとアンドロマリウスと子どもの僕がいる。ほかにも別の誰かがいるかもしれない。僕は病気なんだと。でも、違う。ヤツらは病気の産物なんかじゃない。ほんとに、いるんだ。僕のここに。僕はアイツと契約した。だから——だから、あれは悪魔だ。ほんとの僕じゃない!」
ふいに青蘭の瞳から大粒の涙が盛りあがり、こぼれおちた。
龍郎はたまらなくなって、青蘭を抱きよせた。
「もういい。もういいよ。信じるから。おまえの言葉を信じる。たとえ世界中の人がおまえを信じなくても、おれは信じるよ」
泣きじゃくる青蘭の肩を抱きしめる。
ぎゅっと。
壊れそうなほど強く抱きしめると、ようやく、とりもどしたことを実感する。
汚れていてもいい。
病気だろうと、悪魔憑きだろうと、なんでもいい。
青蘭が好きだ。失いたくない。
これは恋だと、このとき龍郎は痛いほど自覚した。
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