5章 [ Ⅸ隠者]
ここに一冊の本がある。本といっても中身は全て手書きで、綴じ方もあまり綺麗とはいえない。表紙を開くと、細長い斜め文字(しかし、何処か気品のただよう文字)で“truth”と書かれていた。
今回はハルキ達の旅の話の前に、この本の前書きを抜粋したいと思う。
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~探究者諸君へ
先ずはこの本を開いてくれてありがとう。私は亡者である。断っておくがこれは死者の方の亡者ではない。何かに対する執着、つまり私は探究の亡者なのだ。
私は高い山の上でただひたすらに、世の事を探究している。勿論そんな山の上にいて、今何か新しい事を得られる訳ではない。世の事は既にこの山に来る前に調べてある。私は若い頃、旅人だったのだ。
しかし、諸君らは疑問に思うだろう。知恵の亡者と自負する私が果たしてそれで満足出来るのだろうかと…
誰よりも古今東西の知識に貪欲な私が、高い山の上で俗世間から離れて過ごし、その知識欲を満足させられるのだろうかと。答えは否だ。ここに来たばかりの頃の私は、再び探究の旅に出たくて気が狂わんばかりだった。
世間と隔離された孤独、自らに新たな知恵が享受されない苦痛。陽光に最も近い山上は、私にとってはカンテラが必要な程の暗闇だった。
しかし、それでも尚私がこの山上にカンテラ片手に留まっていることには訳がある。それは私がなによりも愛する知識と関係があるのだ。私はその前半生を費やした旅で、私自身の一生をかけてもまとめ切れない程の知恵を手に入れた。しかし、あるときその知恵の全てが私の死と共にこの世を去ることに気づいたのだ。更に重要な事に、私はそれらの知恵や知識を何一つとして真理と呼べるまで探究していない事に気づいたのだった。
私は焦った。私がその過ちに気づいた時、既に私は老人になりつつあったのだ。
私は今まで手にした全ての知恵と経験を総動員して、私が犯したこの大失態を補う方法を考えた。そうして行き着いたのが“サーチー山脈”への山篭もりだった。
この山は“トーラ地方”東部に南西から北東に向かって高度を上げてそびえる山脈である。私はその時、自らの欲を抑え、ただひたすらに知識の反復をすることが果たして自分に出来るのかと疑問を持った。ふらりと町へ出て、そのまま戻らぬのではないかと心配したのだ。私は自分が再びそのような愚者にならぬよう、簡単には行き来できない僻地に住むことにした。それには“サーチー山脈”、その最奥は最適であった。
私が山篭もりを始め、順調に知識をまとめ、研究に励みだしてからしばらくたったある日、山上に男が尋ねて来た。彼は私の前に来ると私を賢者と仰ぎ、私にその知恵を与えてくれとせがんだ。今、この時だから私は白状しよう。私はその男に嫌悪した。
私は自らの知識欲に打ち勝つためにこのような山の上まで来て一人研究をしているのだ。私には彼が、そんな私を邪魔する者に思えてならなかった。更に、その頃の私の著作はいまだ未熟で人に見せられるような代物ではなかった。私は男を追い返した。しかし、彼の後にも人は次から次へとやってきた。彼ないし彼女の話には、私が力になれそうなものも二、三あった。しかし、私は分別なく彼らを追い返した。
しかし、外の世界の話の一切を遮断した私には、彼らの話は魅力的に聞こえた。その内に、私は彼らを助けるようになった。勿論山の上から、私の研究に支障が出ない程度に…
おそらく私は、この頃から気づいていたのだろう。彼らに知恵を享受することも、私の知識を後世に伝えることとなり、同時に私自身が真理に近づく手助けになるという事を。
私はその時から、真っ暗な山上にカンテラを掲げた。彼らの救済者として、知恵の道を行く先駆者として…
こうして私は隠者となった。
さて、探究者諸君。次のページから始まる真理の本は決して君達にとって面白い物ではないだろう。しかし、一つ私から言えるのは、これは君達にとって有益なものであるということだ。
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ハルキはイブの故郷“ホーリネス”から“サーチー山脈”の頂きを目指していた。イブを失い、同時に“ペンタクル”を無くした彼にとっては、もはや歩いてその山を登る事でしか、山頂に立つ方法は残されていなかった。しかし、それはどうでもいいことだった。イブをなくしたときから、いやそのもう少し前からかもしれない。ハルキの心にはぽっかりと穴が空いてしまった。その穴は、偶然たどり着いた(何故辿り着けたのかハルキにも分からない)“ホーリネス”で司祭のシンパティーと話しても、彼に“サーチー山脈”を登るよう諭されても、埋まる事はなかった。ただ、ハルキにとってはじっと“ホーリネス”に留まっているより、こうして足を動かしている方が、なんとなく楽な気がしたのだ。彼は正直、“サーチー山脈”の山頂に司祭が言う真理なるものがあるのかどうかなどどうでもよかった。そこにいるという老人がハルキを悩みから解放してくれるなどとは、微塵も期待していなかった。むしろ、そんな真理や賢者の存在さえハルキは信用していないのだ。
彼にとってこれはただの気晴らし…
何故こうなってしまったのか分からないハルキには、その解決方法も分からない。霧の中を進む彼は、あたかも彼自身の悩みの中を行くように、山を登っていった。勿論、その先に答えがあるのかはわからず、ハルキにとってこの登山が大した意味を持たないかもしれないこともまた然りであった。
山に入って何日目だろうか、ハルキはただカラクリ人形のようにひたすら山を登っていた。持ち物はイブといた時とは違って、片掛けの鞄一つと腰に挿した細身の剣だけ。表情はなく、眼の前にある“山を登る”という作業を黙々と続けていく。“サーチー山脈”は霧に包まれ昼夜の別も分からない。それは昼だっただろうか?それとも、夜だっただろうか?
ハルキの目に一つの明かりが見えた。太陽や月のように暖かく眩しいものではない。もっと冷たく、主張しない明かりだった。しかし、それにはハルキを引き寄せる何かがあった。ピタリと心の穴を埋めてくれそうな丁度いい明かり…
ハルキはまるで、催眠術にでもかかったようにその明かりに向かって歩んでいった。その明かりに向かって、どのぐらいまで歩けたのかは分からない。ハルキは霧の中で倒れていた。無理もないだろう、彼は山に入ってもう何日も食事を取っていなかったのだ。
「…あ、あ」
ハルキは無念そうに、かすれた声でそう呟いた。自棄になっていた彼の最期の望みは、あの明かりの元へ行きたいというものだった。何故そう思うのかはハルキ自身にも分からなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ハルキの口にスープが流し込まれた。若干冷めている。
「恋患いかね…?」
ハルキはカバッと跳ね起きて自分のすぐ横に立っている人を見た。長身の白髪の老人。ボロを着て、そのフードを被っている。そして、その手には…
「明かり!」
ハルキが求めていた明かりはカンテラの明かりだった。
「不思議なことにこのカンテラに惹かれる者は非常に多い。しかし、残念なことにカンテラが惹かれる者は非情に少ない。しかし、これももう必要なかろう。」
老人はそれだけいうとカンテラの火を吹き消してしまった。
「ああ…」
ハルキは物欲しそうに明かりの落ちたカンテラを見つめる。
「失った物はもう戻らん。先日私は一冊の本を書き上げた。期は熟した。次にカンテラ惹かれる者が現れた時私はその者と旅立とうと決めていたのだよ。」
それが君だと、老人は言って、カンテラを投げ捨てハルキに握手を求める。ハルキは恐れながらもゆっくりと手を差し出し手を握った。
「貴方は…貴方がシンパティー司祭の言っていた賢者なのですか?」
「君に取ってそうなるかは分からない。ただ私は隠者だ。名をオータムという。私を呼ぶときは名で呼びなさい。」
「…オータムさん……?」
ハルキが恐る恐る老人の名を呼ぶとわずかにオータムは、その皺だらけの頬を緩めた。
「いい得物を持っているね。大分旅が楽になりそうだ。君の名前は?」
「ハ、ハルキ…です。」
「ふむ、ハルキか…ではハルキ!その得物を抜いてみなさい。」
「え?」
「いいから。」
オータムに促されハルキは困惑しながら剣を抜く。
THE HERMIT
抜かれた剣はまばゆく光り、まるでカンテラのようにあたりを照らす。
「やはり…ハルキ。先ずはその剣を思うように振ってご覧。」
「え?」
自分よりも剣に詳しそうな人間の出現と、何故か瞬く剣に度肝を抜かれながらハルキは聞き返す。
「振ってごらん。」
先程より強く言うオータム。もともと行き当たりばったりの旅。一度は自棄になった自分ハルキは剣を横なぎに振るった。途端風が吹き、ハルキは風となって吹き飛ばされた。手を繋いでいた、オータムも一緒に。
Ⅸ隠者 ~明かり~...fin
next to TEMPERANCE
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Tora's Data -6-
サーチー山脈-The Surchee Mountains
“トーラ地方”中東部に位置する山脈。その裾野は広く、南に広がる“フール高地”はこの山脈の一部である。“サーチー山脈”はその立地から“トーラの分岐線”と呼ばれ、実際この山脈の西に位置する“ペンタゴン”、“コマース”などでは貨幣経済や大量生産が普及し、東の“ホーリネス”では宗教や信仰が発展した。俗に「西の実に東の信」といわれ、この山の存在で文化や生活に大きな隔たりがある。
また“トーラ地方”では、神ではなく万物、自然、森羅万象の全てをそのよりどころとする無神教が盛んであり、“サーチー山脈”はその対象として絵画や言い伝えに多く登場している。
有名な物としては、ホーリネスの教会に描かれた壁画「サンライズ」や、“サーチー山脈”への雲のかかり方により吉凶を占う“コマース”の「サーチー占祭」、“サーチー山脈”での山籠もりを通して旅人が仙人となる童話「物知り仙人」などがある。
“サーチー山脈”は地理的には東西を隔てる障害となり、心情的には“トーラ地方”の人々の心の支えとなったのである。
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