第91話 笑みはただ静かに

 

 全てを呑み込んでしまうような夜闇も少しずつ薄れて、光を広げていく。

 寺内家の豪壮な邸宅の一室では、窓から差し込む朝日を背に美奈は影を落としていた。

 時刻は明朝5時過ぎであり、隣にはベッドで向かい合って眠る形となっていた沙耶が美奈の存在を確かにその手に確かめるかのように服の裾を掴んで、静かな寝息を立てていた。


 その様子に微笑を見せながら、枕元に置いていたリボンを手に取ると、朝日を受け、さながら宝石のように光る自身の髪に触れ、そのまま慣れた手つきで後頭部で一つに纏めて、慣れ親しんだポニーテールを作る。


 沙耶を起こさないように自身の服の裾を掴む手をそっと解きながら、ベッドから降りると、手早く自身が着てきた服に着替えて最後に沙耶を優しく撫でる。

 彼女を見つめる美奈には心の底から溢れ出るような愛おしそうな笑みが零れていた。

 そのまま顔を近づけて、その柔らかな頬に静かに口付けをする。

 深い眠りの中にいるのか、沙耶は擽ったそうに小さな声を漏らすだけで再び寝息が聞こえてきて、美奈を探すようにその手は彷徨っていた。

 その姿に申し訳なさを感じるが、生憎、今日はシャルロットでシフトが入っている。

 その前にしなければならないことがあると、身支度を整え、沙耶を起こさぬように細心の注意を払いながら部屋を後にする。


 ・・・


 沙耶の部屋から静かに1階にまで下りて来ると、微かな物音と人の気配を感じる。

 誘われるがままリビングを覗き込んで見れば、そこには出社の準備をしている純一郎の姿があった。


「あぁ、君か」


 どうやら純一郎も美奈に気付いたようだ。

 ネクタイを締めている最中だった純一郎はこんな時間に起きてきた美奈に驚きながらも声をかけると、美奈もおはようございます、と朝に負けぬ晴れやかな笑みを浮かべながら挨拶する。


「昨日はお世話になりました」

「いや、良いんだ。沙耶も君がいて心なしか喜んでいる様子だったからな」


 ペコリと軽く頭を下げる美奈に昨晩の沙耶の様子を思い出しながら答える。

 自分の前で滅多に笑みを見せることがない沙耶が、目の前の少女の前ではいつも容易く笑顔を見せたのだ。

 それだけ沙耶にとって美奈は心を許せる存在なのだろう。


「君が良ければだが……またいつでも遊びに来て欲しい」

「はい、喜んでっ」


 ならば、これからも良き“友人”として沙耶に寄り添ってもらいたい。

 そんな想いを宿しながら話せば、目の前の少女は両手を組んで、まさににっこりという言葉を表すかのように笑う。


「そう言えばなのだが……。君は沙耶と、かなり付き合いが長いのか?」


 ふと沙耶とのどれくらい付き合いがあるのか尋ねる。

 かつて沙耶が海に遊びに行った際に聞いた美奈の名前。

 あの頃からずっと思い出そうにも思い出せない引っかかりのようなものを感じていた。

 もしかしたら、沙耶との付き合いは相当なものだからこそ、自分も記憶の中で何かが引っかかったのかもしれないと、そう考えて尋ねてみたのだ。


「そうですね。沙耶ちゃんとは幼稚園の時からの付き合いですっ」


 一方で美奈は半ば即答で笑顔をもって答える。


 今となっては鮮明に思い出せる。

 いつも寂しげな影を落としていた彼女に手を差し伸べた始まりともいえる出会いの日を、そこから長く短くも感じるこれまでの日々を。


「──ですから」


 だからか、と一人納得している純一郎の締めかけのネクタイを静かに手に取って、そのままゆっくりと締め上げる


「沙耶ちゃんのことは何でも知ってるんです。沙耶ちゃんの笑顔も、涙も、喜びも、苦しみも」


 ──貴方はどうなんだ?


 まるでそう問われたような気分だ。

 ネクタイを締められた首元は息苦しささえ感じる。

 目の前の少女は口元に笑みを携えれているものの、その目だけは決して笑うことなく、こちらを覗き込んでいる。

 まるで深淵の中から得体の知れない化け物に見つめられているかのようだ。


「わた、し、は……」


 この少女の目を見ていると、目眩に襲われる。

 自分は親として沙耶のことを目の前の少女より知っているのだろうか。

 家を空けがちだったとはいえ、それでも時間があるのなら家には帰って、食卓も囲んでいた。

 沙耶のベッドもそうだが、少なくとも全く交流をしなかったわけでもない。

 全てとはいえなくとも、最低限の親としての責任は果たせたはずだ。


 だが……。


「まあ実際、どうかは分からないんですけどね」


 半ば呆然としているなか、突然の美奈の言葉に大きく震える。

 その目を見てはいけないと、半ば本能が訴えかけているのに、吸い寄せられるかのようにその深淵のような瞳と目があってしまう。


「沙耶ちゃんの中では違うかもしれませんから」


 果たして自分は沙耶の中で父親であって、“お父さん”と呼べるような存在なのだろうか。

 交流はあったとはいえ、それすら微々たるものなのかもしれない。

 事実、再婚の話を切り出した際、沙耶は自分のことをほったらかしにしたと口にしていたのだ。


 きっと沙耶の中では自分は最低の父親なのだ。

 だが、それは当然ともいえる。

 妻が先立ったショックから、最低限の親としての責任は果たせても、きっと同じように母を失ってショックを受けている沙耶に寄り添えたとはいえないのだから。


「大丈夫ですか?」


 自分自身は今まで歩んで、積み重ねてきた全てが崩されていくような気分だ。

 今にも倒れそうなほど茫然自失となっている純一郎の頬に手が添えられる。

 傍から見ていて、面白いほどビクリと震えた純一郎が目の前の美奈を見てみれば、先程までの恐ろしさはなく、にっこりと愛らしく笑う少女がいた。


「気分が優れないのなら、今日は休んだほうがいいと思いますけど……」


 純一郎を気遣っての言葉に戸惑ってしまう。

 先程の不気味な少女と目の前の愛らしい少女が同一人物とは思えなかったからだ。


「……いや、大丈夫だ。では私は一足先に出る。先程も言ったが、君も遠慮しないで今後とも遊びに来てくれ」


 だが、そこまで考えて、その思考を振り払う。

 きっとそう感じてしまうのは、自分が満足に親としての責務を果たせず、沙耶に負い目を感じているからだ。

 目の前の少女はまだまだ年若いにも拘らず、人を気遣い、他者に寄り添える自分なんかでは足元にも及ばない素晴らしい人物なのだ。

 それを不気味に感じてしまう己の浅はかさを恥じながら、荷物を纏めると「いってらっしゃいっ」と笑顔で手を振って見送ってくれる美奈を背に家を出ていく。


「……はい。遠慮なく」


 玄関の扉はカチャリと閉じて、朝日の輝きを閉ざしてしまう。

 薄暗さの残る空間で一人残った美奈はその仮面のような張りつけたような笑みをゆっくりと失くすと、その口元に愛らしさや可憐さとは程遠いあまりに歪な笑みを浮かべるのであった。


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