第90話 私だけが知る全て
(……どういう状況なのだ、これは)
帰宅した純一郎はネクタイを緩めながら、横目で台所を見やる。
そこには美奈と沙耶が会話を交えながら夕食の準備をしていた。最初は美奈も沙耶に手伝わなくて良いと言っていたのだが、いつまでもやってもらってばかりではいられない、と半ば強引に台所で補助をしていたのだ。
とはいえ、それよりも純一郎からすれば全くこの状況に追いつけていないのだ。
美奈に挨拶をされた直後は沙耶の友人が遊びに来ている程度の認識でいたのだが……。
『夕飯の準備、出来てるんです。いかがですか?』
と夕食を持ちかけられたのだ。そもそもここは自分の家なのだが、妙な気分だ。
しかし折角、作ってくれたと言うのであれば、とその好意に甘えて今に至るわけだ。
(美奈、か……)
再びチラリとポニーテールと笑顔が印象的な少女をチラリと一瞥する。
美奈という名はこれまで沙耶から何度か聞き、自分もおぼろげ程度の記憶しかないが、まさかこうして出会うことがあるとは思わなかった。
確かにこうして見る分には、料理の出来栄えを話題に笑う姿は可憐であり、沙耶もどことなく嬉しそうに見える。
だが普段、あまり感情を露にしない沙耶にとって、そのどことなくが貴重なのだ。なにせ自分と話している時の沙耶があんな姿を見せたことなどないのだから、それだけ美奈と沙耶の距離は自分よりも断然、近いということなのだろう。
「出来ましたよーっ」
そうしている間に部屋着に着替え終わると、元気な声で呼びかけられる。
赴いてみれば、そこには煮魚を中心とした夕食が並べられていたのだ。女子高生がここまで作れるものなのかと驚いていると、そのまま美奈と沙耶は隣同士に席に着き、純一郎も向かい側に座る。
「いただきますっ」
「いただきます」
「い、いただきます」
同じ言葉でも三者三様に違うのは中々、面白いものだ。
正直に話せば、今の沙耶と食事を共にしたことがない。それ故、自分のせいだとはいえ、やはり緊張してしまうのは致し方ないだろう。
せめて汚い食事の取り方はすまいと心に固く言い聞かせながら、食事に手をつける。
(……これは中々)
食べた瞬間、驚かされた。なにせ魚に味が染み込んでいて、これが中々の味付けで美味しいのだ。しかもこれを目の前の女子高生が作ったというのだから、驚かされる。
「お口に合いましたか?」
「あ、ああ。本当に美味しいよ」
態度を見て、気付いたのだろう。
微笑を浮かべながら尋ねられ、味に集中していた分、我に返って慌てて答える。
「……あまり魚は好んでは食べないのですが、これは気にせず食べられます」
「えへへ、沙耶ちゃんにまでそう言ってもらえると嬉しいかな。一生懸命作った甲斐もあるよ」
小骨を取り除いた魚の身を口にしながら淡々と口にするが、心なしか口元が綻んでいた。
そんな沙耶の姿に無邪気な笑顔を向ける美奈に、はにかみながらも照れ臭そうに食事に集中する。
(一生懸命か……。気持ちが籠もっているのだな。こんな食事は本当に久しい)
食事をしながら時折、会話を交える二人の姿を見つめ、どこか悲哀な表情を浮かべる。
この食事は美味しい、それは心から断言できる。
ただ美味しいだけではない。この食事は温かいのだ。それはやはり食卓に温もりがあるからだろう。沙耶と食事をするのも、これほど温かさを感じる食事も久しかった。
それほど間隔が開いてしまったのは妻を失ったから、多忙だったから、などと片付けることは出来ない。
例え妻を失っても自分自身が立ち直って、自分と同じ悲しみを抱いているであろう幼い娘に向き合って、温もりを築いていくことは決して不可能なことではなかったはずなのだから。
本来ならば、こうして沙耶と食事をとることもおこがましいなのだろう。
だが沙耶は少なくとも、同じ席で食事をとることを良しとしてくれる。今まで冷たく暗かった家に温もりが宿っているのは、目の前の太陽のような少女の存在が大きいのだろう。
(……沙耶に彼女のような“友人”がいてくれて本当に良かった)
美奈との会話の中で穏やかな表情を見せる沙耶を見ながら、そう感じる。
「……今日はもう遅い。よければ泊まっていったらどうだろう」
「良いんですか? だったらお言葉に甘えさせていただこうかな」
時計を確認すれば、もう間もなく21時になる。こんな時間に帰すのは、気が引ける……と言うのは、建前だ。
太陽のような彼女にいて欲しい。そうすれば彼女を挟んで沙耶との溝も少しは埋まるかもしれない。そう考えてのことだった。
幸いなことに特に異論もないのか、美奈はすんなりと頷いて、沙耶に笑いかけた。その後もただ和やかな食事の時間が過ぎていった。
・・・
食事を終え、もう一時間近くが経った。その間に美奈は自宅に連絡をいれ、泊まりと言うこともあって、沙耶と近くのコンビニにちょっとした日用品を買ってきて後、今では台所で沙耶と洗い物を終えていた。
(……沙耶が楽しそうで良かった)
風呂上りにリビングのソファーに腰掛け、何気なくテレビを見ながら、台所か和気藹々とした声を耳にして笑みを浮かべる。沙耶は彼女に心を許しているのだろう。少しでも家にいる時間が沙耶にとってより良い時間になればと、ただただそう思う。
「──……っ……! ゃっ……」
一体、なにを話しているのだろうか、は気になるが、流石にそこまで踏み込めば沙耶との距離がまた広がってしまうかもしれない。今は和やかに過ごしているであろう彼女達の時間を邪魔しないようにテレビに意識を向けるのであった。
・・・
「──……嫌がるなんてひどいなぁ」
リビングから死角で壁を背にした沙耶に密着しながら、その耳元で嗜虐にも思える声で美奈は囁く、
「だめっ……で、す……っ! やめ……っ!」
「沙耶ちゃんだって私の家でお母さんにバレそうな時でも私にしてたよね? 私からキスしたいって言うのはダメなのかな?」
「それ、は……っ」
ただひたすら啄ばむように行われる美奈からのキスを何とか制止しようとする。
近くに純一郎がいるのだ。こんなことが発覚したら、どうなるのかも分からない。だからこそ制止しようとするのだが過去の自分の暴走を引き合いに出されては何も言えず冷や汗が流れ、鼓動が速くなる。
純一郎が帰宅してから最初はどうなるかと心配して夕食の準備を手伝っていたが、その時もその後の夕食も美奈は普段通りだった。しかし二人で食器の片付けを終えた瞬間、美奈は突如、こんな行動に出たのだ。
「……っ!?」
どうすれば美奈を止めることができるのか、焦燥感に駆られる思考のなか唇を奪われ、驚くのも束の間、そっと離れた美奈は物足りなさそうに舌先で自身の唇を軽く舐める。
「今日はずっと一緒だよ、沙耶ちゃん」
普段の澄ました顔も今では頬も紅潮して惚けてしまっている。そんな沙耶の表情を愛おしそうに見つめると、そのままスッと抱き寄せて耳元で甘く囁いた。
(私だけが沙耶ちゃんのこんな姿を知ってる。私だけが沙耶ちゃんの全てを知っている)
純一郎に気づかれないようにと必死に荒んだ呼吸を抑えようとする沙耶を抱き寄せたまま美奈の口元がどんどん歪んだ笑みを形成していく。
(アナタは沙耶ちゃんのなにを知っているのかなぁ)
チラリとリビングでテレビを見ている純一郎の視線を送る。
実の娘が近くでこんなことになっているとも知らずに呑気なものだ。きっとあの男性は沙耶について何も知らないだろう。
だからこそ、そんな男に自分達の未来の邪魔などさせるものか。
その瞳に深淵の如き闇のような感情を宿しながら、悶える沙耶に自分の存在を刻みつけるかのように強く抱きしめるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます