第89話 深まるアイのカタチ

 

 夏祭りの翌朝、ベッドの上で目を覚ました沙耶はゆっくり上半身を起こす。窓から見える空は曇天で、太陽は雲に隠れて見えなくなってしまっている。


 ──まるで今の美奈ちゃんのようだ。


 ふと今の空模様を見て、そんなことを思ってしまう。と言うのも、やはり昨晩、美奈から感じた強烈な違和感だろう。確かにそこにいるのは美奈の筈なのに全くの別人に感じてしまうのだ。


 どんよりと澱んだ重い心のままベッドから立つ。家事をすることで少しでも意識をし逸らしたかったのかもしれない。部屋から出て、物音を立てぬ静かな足取りで一階に降り立つ。


 何やら庭先で物音が聞こえてきた。音に誘われるまま確認してみれば、そこには純一郎が洗濯物を干していたのだ。洗濯物の量を見る限り、まだ干し始めたばかりだろう。とはいえ家事なんてまともにやったことのない人間だ。どうしてもその手つきは傍から見てもぎこちなかった。


「……なにやってるんですか」

「っ!? お、おはよう……」


 そのまま窓辺に寄りかかって声をかければ、物音を立てなかったせいか、自分がいるとは思わなかったのだろう、面白いほどビクリと身体を震わせて反応していた。


「それではシワになります」


 なにを話せば良いか分からず、言葉を選んでいる純一郎の横を通って、既に干してある衣類の端と端を引っ張って、生地をピンと伸ばす。その後も慣れた手つきで衣類に応じたシワの伸ばし方であっという間に洗濯物を全て干し終える。

 元々の数が少なかったとはいえ、自分がやっていればこうも手早く終わらなかっただろう。まさにテキパキという言葉が相応しい。純一郎はただただ沙耶の手際の良さに感嘆していた。


「……と、すまない。仕事に向かわねばならん。朝食は用意しておいたから、食べて欲しい」


 リビングの時計が目に入って我に返る。朝の一分一秒は貴重だ。足早にリビングに戻った純一郎はジャケットを羽織ると、簡単に身嗜みを整えて半ば返答を待たずに声を掛けて、仕事に出かけてしまう。

 すっかり慣れてしまった静寂の中に残された沙耶はリビングに戻っていく。言葉通り、沙耶の為にと用意されたベーコンエッグとトーストが待っていた。純一郎が作った、と思うとあまり気が進まないが、食べ物に罪はない。

 そのまま席に着くと、食事を取る。相変わらず焦げ目もあり、お世辞にも上手く作れたとも言えないが、それでも以前よりも上達はしている。手早く食事を済ませて、ささっと洗い物を済ませる。


 それから数時間後、穏やかな時間が流れるお昼前。やることを済ませた沙耶はリビングで何気ない時間を送っていた。

 ふとインターフォンの音が響き渡る。一体、誰かと思い、モニターを確認して息を呑んだ。


「……美奈ちゃん」


 そこには美奈が映っていたからだ。


 ・・・


「……いきなりどうしたんですか」


 美奈を招きいれた沙耶は用件を伺う。今日、美奈が家に訪れるなんて連絡は受けていない。予想外も良い所だった。


「沙耶ちゃんと一緒にいたかったから」


 一点の曇りもない笑顔で言われた。思わず撫でたくなるほど愛らしいのだが、昨晩のことを考えると何とも言えなくなってしまう。


「もうすぐお昼だよね。台所を借りても良いかな?」


 美奈の手元には近くのスーパーで購入したと思われる食材の数々が。材料で判断するに二人分と言ったところだろうか。わざわざ……とも思うが、折角、用意して家にまで来てくれたのだ。その好意を受け入れて、台所へ案内する。

 何か手伝おうかとも言ったが当然の如く却下されてしまった。美奈を自分の立場で考えれば、煩わせない為に自分も同じようにしただろうと考え、美奈に促されるままリビングで待つ。


 ・・・


「お待たせーっ!」


 待つこと数十分。溌剌とした美奈の声がキッチンから聞こえてくる。顔を向けると同時に両手に湯気が立つ出来立ての料理が盛り付けられた皿を持ったエプロン姿の美奈が満面の笑みを浮かべてやって来ていた。

 テーブルに置かれた皿を見てみれば、どうやらオムライスだったようだ。しかもただのオムライスではなく、キラキラとした卵のドレスを纏ったかのようなドレスドオムライスだったのだ。あまり流行りに疎い沙耶でも少し前にテレビで見たことがある。

 優雅で品のあるオムライスを前に沙耶もただただ感心してしまう。正直に言ってしまえば、栄養さえ取れれば良いと手の凝った料理を作らない沙耶からすればよくもここまで作れたものだと唸ってしまう。


「ささっ、食べよっ!」

「はい、それでは」


 いただきます、と声を重ねる。あまりの美しさに食べることも躊躇われるが、いざ口に運べば、半熟でふわとろに包まれたチキンライスは理屈抜きに味覚が美味しいと訴えかけて、食欲に駆られた脳が早く続きをと求めてくる。気付けば談笑を交えながらも早く食べ終わってしまった。


「ご馳走様でした」

「お粗末さまでしたー」


 多幸感に満たされていると、いつの間に美奈が片付けを始めていた。至れり尽くせりではあるが、何もかもやってもらうのは申し訳ない。しかし半ば押し切られる形で美奈はそのまま鼻唄交じりに洗い物まで済ませていた。


「じゃあ、ちょっとお風呂掃除してくるね」

「……は?」


 さも当然の如く、沙耶に一声掛けて浴室へ向かおうとする美奈に唖然として言葉を失ってしまう。しかし美奈はその間に浴室へ向かおうとする。


「待ってください。意味が分かりません。なにをしようとしてるんですか」

「いやだからお風呂掃除を……」

「それが意味が分からないと言ってるんです。って言うか、もう済ませてあります」


 我に返って慌てて引き止めるが、美奈は自分がおかしな行動をしているという自覚はないようだ。そもそも沙耶は家事に関しては、大概、朝起きてそのままの流れで全てを済ませている。なので別に美奈に風呂掃除をしてもらう理由もない。


「なっ……!? じゃ、じゃあ、他の水回りを……」

「済ませました」

「沙耶ちゃんの部屋っ!」

「不必要です」

「……ベッドの下」

「なにがあると?」

「私のアルバムとか」

「……よく分かりましたね」


 えっへん、と自慢げに胸を張っている可愛い……ではなく、今日の美奈はなにかおかしい。具体的に言えば、妙に人の世話を焼こうとしている。いや元々、世話を焼こうとする方ではあるが、今日に関してはそれが顕著だ。


「じゃあ、そうだなぁ……」


 掴みどころのない美奈に振り回されて困惑していると、美奈はそのままソファーに腰掛ける。


「はいっ!」


 そう言って沙耶に向かって自身の両膝を叩くと、バッと両腕を広げたのだ。


「いやだから……」

「はやくっ!」

「……どうしろと?」

「イシンデンシーン」

「えぇっ……」


 訳が分からない。ペースを握られているとかそういうことではなく、本当に訳が分からない。美奈はどういう意図でこんなことをしているのか? しかし依然としてこちらに眩い笑顔で待っている美奈についに折れて、誘われるまま膝の上に頭を乗せて横になる。……心地良く感じたのが悔しい


「沙耶ちゃんは可愛いなぁ」

「あのっ……本当にどうしたんですか?」


 頬をほんのりと染め、気恥ずかしさと心地良さが入り混じった照れ臭そうな沙耶を見下ろしながら、キュンキュンと感じて、美奈自身でも分かるほど、だらしのない表情を浮かべながら優しい手つきで頭を撫でていると、ふと尋ねられた。その声色から戸惑っているのが分かる。


「沙耶ちゃんには私だけを見て欲しい……それだけだよ」

「私は目移りした覚えなど……」


 あまりにおかしなことを言われて戸惑ってしまう。沙耶が美奈一筋なのは、それこそ玲菜や未希でさえ分かっていることだ。なのに美奈はまるで沙耶が美奈以外を見ているかのように言う。


「してるよ」


 しかし美奈は沙耶の反論をキッパリと否定する。そのこれ以上の反論を許さぬほどの物言いに何も言えなくなってしまう。


「沙耶ちゃんはお父さんが帰ってきてから、ずっと家族のことで苦しんでるよね。苦しむ沙耶ちゃんはもう見たくないんだ」

「……それは私が軽率でした。ですから、このことは他人事として「違うよ」……ッ」


 忘れて欲しい、そう口にする前に被せるように遮られてしまった。頭を撫でている腕のせいで美奈の表情が分からない。一体、彼女はなにを考えているのだろうか。


「他人事なんかじゃない。私はこれからも沙耶ちゃんと一緒にいる。これからもずっとずーっと沙耶ちゃんと一緒にいるんだから他人事だなんて片付けられる筈がないよ。私はね、沙耶ちゃんと幸せになれればそれで良いんだ。別に多くを望むつもりもないしね。でもだからこそその望みは叶えたい。ねえ、今の沙耶ちゃんは幸せ? 違う、違うよね? だって苦しんでるんだもん。だったらその苦しみを取ってあげたい。それはきっと私じゃなきゃ出来ないことだから。だから沙耶ちゃんもね、もう苦しまなくて良いんだよ。なにかをする必要もないの、ただ私のことを……私と幸せになれる未来を考えていてくれれば……。沙耶ちゃんは私が苦しんでる時に傍にいてくれたよね。なら今度は私が沙耶ちゃんの傍にいる。ううん、幸せにする。だから沙耶ちゃんは安心して私に身を委ねてくれれば嬉しいな」


 いっそ彼女の言葉が理解できないものであれば、どれほど良かったか。病的なまでに美奈を愛する沙耶には分かってしまうのだ。きっと自分が美奈の立場なら同じようなことを考えただろうから。

 そして同時に沙耶は理解してしまう。今の美奈を止める術は現時点の自分には持ち合わせてはいないということを。狂信的な想いは時として凶行に走ってしまう場合がある。かつて啓基に告白された美奈の唇を奪ったのが、その最たる例なのだから。


 ・・・


 もうすっかりと日が沈んでしまった。身体にどんよりと伸し掛かるような疲労感に見舞われながら、純一郎は家への帰路へついていた。やはり、幾ら取り繕うが彼ももういい歳だ。若かりし頃のように溌剌としてはいられない。


(……いつからこんな風になってしまったのか)


 ……そう、もう若い頃のようにはいられない。果たして、妻が先立ってからどれだけの時間が過ぎただろうか。立ち直った頃には全てが遅かった。

 沙耶に関しては、半ば育児放棄に近いことをしてしまった。勿論、ちょくちょく家に帰ったり、沙耶のベッドを新調するために一緒に出かけたりもしたが、到底、育て上げたなどとは言えないだろう。

 沙耶だってこんな父親は許してはいないだろう。今更になって、この溝を埋めようとしたところで、かけた年月ほど深まった溝は簡単には埋められやしない。


「……む」


 陰鬱となる気持ちのまま、自宅まで帰ってきたら、リビングに明かりが灯っているではないか。沙耶は基本的に自分を避ける行動をしている。この時間は大抵、自分の部屋に籠もっているか、そもそも家にいないかのどちらかだ。


「……ただいま帰った」


 珍しいな、とそう漠然に考えながら帰宅する……が、ここで違和感に気付いた。

 何と玄関には沙耶の靴以外に見慣れぬ靴があったのだ。カジュアルで今流行りっていそうな可愛らしい靴だ。しかし自分も沙耶も流行には疎い身。更に言えば、シックなものを好む沙耶のセンスを考えても並んだ靴は対照的だ。到底、これが沙耶のものだとは考えられない。

 不思議に思いながらも明かりが見えるリビングに顔を出す。


「おかえりなさい! お邪魔していますっ」


 そこには沙耶、そしてもう一人、ポニーテールの少女がいたのだ。

 帰宅した純一郎を向日葵のような笑顔で出迎えてくれる。


「君は……?」

「あぁ、会ったのって昔のことですもんね。じゃあ、この場を借りてご挨拶させて頂きますねっ」


 可憐な笑顔が印象的だが、見覚えもなく果たして誰なのだろうか?

 そんな純一郎の疑問に腰掛けていたソファーから立ち上がりながら、純一郎に向き直る。


「小山美奈と申します。是非、憶えておいてください」


 少女は、美奈はただ笑みを浮かべながら、簡単な自己紹介をする。

 一見して、ただただ愛らしい笑顔だが、その裏にあるものが何なのか、それは沙耶でさえその全てを把握することは出来なかった。

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