第92話 暗雲に吹ける風

 

 眩い朝日を受けて、ゆっくりと瞼を開く。

 大凡、いつもと同じ時間帯に起きられたのだが、上体を起こしてみれば普段よりも身体が重く感じてしまう。それは昨日に美奈がいた影響なのかは分からないが、覚醒し切れていない頭で朧げに周囲を見渡してみれば、彼女がいないことに気付いた。


 美奈がいなくなった喪失感からか、周囲を見渡す沙耶だが、やがてリビングから生活音が聞こえてきた。

 少しずつ頭も冴えてきて、もしや、とベッドから立つとリビングへと向かう。


 ・・・


「あっ、沙耶ちゃん! おっはよー!」


 リビングに顔を見せれば、足音で気付いたのか、自前のエプロン姿を纏った美奈がクルリと笑顔で迎えてくれた。

 彼女が立つキッチンに目をやれば、そこにはレタス、チーズ、ハムの色とりどりの食材で作られたミックスサンドが食べやすいサイズで盛り付けられていた。

 それだけではない、既に庭には昨日の洗濯物が綺麗にシワを伸ばして干してあり、心地の良い陽の光を受けている。ところどころに見られる沙耶や純一郎のものとは違う干し方からしても、美奈がやってくれたのだろう。


「……家事の殆どを?」

「えへへー、一回、やってみたかったんだよー。好きな人の家でやる家事っ」


 性格的に抜けてはいるが美奈の家事のスキルは目を見張るものがある。

 分かってはいたが、まさかこうして目の当りにするとは思っておらず、ただただ唖然としてしまう。

 そんな沙耶を知ってか知らずか、美奈は愛らしく頬を染めながら、まるで惚気るかのように笑みを見せている。

 朝、行うべき一通りの家事はもう済ましてあるらしく、所在ないような状態になってしまった沙耶は美奈に促されるまま、一先ず顔を洗いに洗面台へ向かうのであった。


(……どうすれば良いのだろうか)


 パシャリ、と冷水を浴び、タオルで拭いつつ覚醒した頭で考えるのは美奈のことだ。

 朝、起きたら最愛の人が家事をしながら、愛らしく迎えてくれる……。それだけならば同棲したてのカップルかなにかだと微笑ましいものだろう。


 しかし、それで済ませられるわけがない。

 美奈の変化は、はっきり言って異常に感じてしまう。

 それこそ、なにか取り返しがつかなくなってしまうような……。誰かに話せば、大袈裟だと言われてしまうかもしれない、だがそれで切り捨てられる事態だと思えないのだ。


(……私が変えてしまった……)


 親の問題を話してから、美奈は悩み始め、そして今に至ってしまった。

 他人のことをそのまま自分自身の事のように抱え込んでしまった結果なのだろう。

 迂闊に話すべきではなかった、今の美奈を見ていると、自分を呪いたくなる。

 少し前まで自分自身を見失って、暴走していたことは今なら分かる。そしてそれは今の美奈にまるで病のように感染してしまったかのようだ。


 まるで袋小路だ。

 きっと美奈は止まらない、ただこれが正しいと思ったことを実行するのだろう。

 それが如何なる結果を齎すのか、考えれば、考えるほど憂鬱になっていく。

 なにせ今の美奈を見ていると、決して良い結果になるとは到底、思えないのだから。

 いっそ、時間が止まってくれればとさえ願わずにはいられない。

 結局、美奈が用意してくれた朝食を食べたところで、一杯一杯の頭ではまともに味さえ感じられなかった。


「それじゃあ、今日はシャルロットだから、これでお暇するね」


 朝食を食べ終え、食器などの後始末を終えると、シャルロットへのバイト向かう美奈を玄関先で見送ろうとしていた。

 沙耶にとって、ただただ振り回されるひと時であったが、美奈にとっては充実した時間だったのだろう、「ありがとう、楽しかったよ!」と無邪気に話していた。


「……人並みのことしか言えませんが、頑張ってください」

「勿論ですっ。でも、その前に……」


 見送りの言葉にちょこんと敬礼のようなポーズで愛らしく答えると、途端に美奈は「ん……」と目を閉じて、唇を向けてきたのだ。


「……っ」


 美奈の行動の意味はすぐに分かった。

 だが分かったからといって、すぐに行動できるわけではなかった。

 意味が分かっているからこそ、気恥ずかしそうに視線を彷徨わせるのだが、美奈からは急かすように「んー!」と唇を突き出してくる。


 やがて観念して、静かに唇を重ねる。

 お互いの愛情を伝えるかのような軽いキスだ。

 ちゅっ、と柔らかな感触が唇に触れると、お互いにゆっくりと顔を離す。

 美奈とはそれこそ、軽いもの、激しいものを含めて幾度となく唇は重ねてきた。しかし、何故だか、この出先のキスは異様に照れ臭く感じる。照れ隠しで何も語らず、唇を隠すように手を添えながら、視線を逸らすが自分でも分かるほど、顔が熱くなってしまっていた。


「……えへへ、昔から憧れてたんだよね。いってらっしゃいのキス」


 当の美奈は唇に残る沙耶の感触に、愛おしそうに両手の指先を添えながら笑みを零していた。

 最も、その昔であれば寧ろ見送る側でキスをするのだろうと自然と考えていたようだが。


「それじゃあ、行ってくるねっ!」


 活力を与えられたかのように、晴々しく美奈は寺内家を後にする。

 玄関先から見えなくなるまで見送りながら、物思いに耽る。

 この出先のやり取りだけでいえば、美奈は自分が心から愛する美奈のままだ。しかし、ふとした瞬間に、自分の知らない美奈が姿を現す。


 きっとこのままではいけない。

 一瞬、迷うように眉を顰めるが、確かな足取りで行動を起こすのであった。


 ・・・


 それから数時間後、時刻は午後を回ったところだ。

 駅から程近い穏やかな音楽が流れる喫茶店の片隅に沙耶の姿があった。


 誰かを待っているのだろうか。

 注文したアイスコーヒーに手を付けることなく、しきりに腕時計で時間を確認している。


 すると、カランッと喫茶店の入り口に取り付けられたベルが来客を知らせる。

 すぐさま店員がにこやかに対応して、何名かと確認するのだが、どうやらその客は既に先客と待ち合わせをしているとのことで、話もそこそこにテーブルへ向かう。


「ごめん、待たせちゃったかな」

「……いえ、寧ろ少し早いくらいです」


 やがて沙耶に気付いたのだろう。

 出迎えるようにその場から立ち上がった沙耶に来客者は軽く手を上げながら、彼女が待つテーブルに向かう。


「……急に呼び出して申し訳ありません」


 お互いに向かい合って座ると、自身の飲み物の注文を済ませて、一息ついているところに声をかける。

 連絡をしたのは、美奈を見送ってから少し経ってからのことだ。しかし突然の連絡だというのに快く応えてくれたのだ。


「いやまあ、流石に沙耶から連絡が来た時は驚いたよ。沙耶からの連絡なんて一生にあるかないかだと思ってたしね」


 しかも今の季節は夏。

 特に親しい間柄であればまだ良いのだろうが、お互いの関係というのは、以前よりはマシになったとはいえ、まだ微妙なところがある。


 それなのにも関わらず嫌な顔一つせず、炎天下のなか、こうして足を運んでくれた上に、にこやかに話しかけてくれる。

 温かな太陽のような美奈とは違うものの、心地の良い涼風のような爽やかさは彼女によく似ている。

 確かに美奈とお似合いと噂されていただけのことはあるし、多くの女子生徒から好意を寄せられているだけのことはある。

 特に意識をしたことはないし、これからもきっとないのだろうが、それでも自分よりも魅力的な人物は間違いないだろう。


「それで話って何かな?」


 目の前にいる啓基は穏やかに笑いかける。

 一時は沙耶と美奈を巡って、歯止めが効かないような感情に支配されていたことがある人物だ。だからこそ沙耶は彼を呼び出したのであった……。

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