第70話 太陽を失った世界

 

『沙耶ちゃん』


 暖かな日差しに照らされながら、幼い少女を膝に乗せた女性は少女の名前を口にする。まるでそよ風のように、優しくスッと胸に入ってくるような柔らかで優しい声だ。名前を呼ばれた少女は途端に表情を輝かせながら、無垢な瞳で母親である女性を見上げる。


『沙耶ちゃんは将来、どんな人になりたい?』

『んぅ……? えっと……その……まだわからない……』


 女性は少女について将来の自身の人物像について尋ねる。

 しかしまだ3歳か4歳かそこらの幼い子供だ。具体的にどうなりたい、こうしたいなど見えてこないようで首を何度も傾げて必死に頭を悩ませるも、やがて落ち込んだ様子でまだ舌足らずな喋り方で頭を垂れながら答える。


『でも、おかーさんになりたい!』


 だがすぐに何か考え付いたように、表情を明るくさせながら自身がもたれかかっている女性の顔を見上げて話す。


『お母さんって……私のこと?』


 少女が自分のような人間になりたいなんて言うとは思ってはおらず、少女の言葉に驚いている女性は母親という存在ではなく、あくまで自分になりたいと言っているのかと確認すると少女はうん!と大きく頷く。


『それはどうして?』

『おかーさんってお日様みたい暖かい人だから。おかーさんになりたいの』


 その理由を尋ねると、少女は心底幸せそうに女性に向き直り、母親である女性の胸に抱き着き頬を寄せる。


『そっか、嬉しいな。でも、沙耶ちゃんは私にはなれないかな』


 無邪気に自分になりたいと言って身を寄せてくれる幼い娘の姿に何だか照れ臭そうにはにかむ女性だが、少し困ったような表情で少女にその願望は叶わないと教える。


『えっ……なんで……?』


 しかし少女からしてみれば、自分の夢を否定されたようで受け入れ難いのだろうしかもそれが何より自分がなりたいと言った母に否定されたと言うのもあって、その表情はみるみるうちに悲しそうな面持ちになっていく。


『アナタが寺内沙耶だから』


 心の中がどんどん寒くなっていくように表情に悲しみを宿していく少女。そんな少女の凍てつき始めた心を温かな光が温もりを与えて行くように女性は少女の両頬に両手を添え、その無垢な瞳をまっすぐ見えながら答える。


『アナタは生きているから。まったく同(おんな)じ人はこの世にはいないの。沙耶ちゃんは私にはなれないし、私も沙耶ちゃんにはなれない。だからアナタは誰にも真似できないアナタと言う存在でいられる』


 諭すかのような物言いに少女も大人しく女性の言葉に耳を傾ける。コピーしたような全く同じ存在などこの世にはいない。だからこそどんな存在にもなれるし、それだけの可能性がある。


『……よくわかんない』

『あはは……まだ沙耶ちゃんには少し難しかったかな』


 とはいえ、この話はまだ幼い少女が完全に理解することは難しいのか顔を顰めて首を傾げてしまっている。自分でも幼子にはまだ無理のある話をしてしまったと言う自覚があるのか、反省するように苦笑いを浮かべて膝の上で向き合って座っている少女の頭を優しくふわりと撫でる。


『でもアナタがこれから歩く道はどんなにふらついても迷わっても一本の道になっていくの。それはアナタがどんな道を作っても、その道筋は無駄にはならない。だからこの先、何が待っていてもアナタはアナタでいて。そしてもしも辛い事が待っていても、忘れないで』


 小難しい話をしてしまったついでにもう少し付き合ってもらおうと女性はまた再び少女に母親として、そして人生の先輩として真面目な表情で助言を伝え、少女の小さな手を握る。


『どんなことがあっても私はアナタの味方だよ。どこに行っても私はアナタを見守って支えているから』


 女性の柔らかで包むような笑顔とその言葉は温かな光となっていき、世界を照らす。

 やがてその光は広がっていき、少女の視界は完全に遮られてしまった。


 ・・・


 窓から差し込んだ強い日差しで沙耶は目を覚ました。

 目を覚ましたばかりでまだ頭は回らないが、それでも早朝の蝉のけたましい鳴き声は嫌でも耳に届く。ベッドから上体を起こし、目頭の辺りを軽く揉む。


 時刻は8時を過ぎたところだ。

 いつもは7時に起きているので、やはり海に遊びに行った疲れが多少なり残っていたのだろう。


(……最近、ずっとお母さんのことばかり……)


 酷く懐かしい夢を見た。

 それは自分が物心ついた時の断片的な記憶だった。


 それは自分とそして実の母との短くも優しい思い出。

 だが夢にまで見ると言う事はここ最近では全くと言って良い程なかった。

 やはり昨日の美奈とのやり取りで母を思い出してしまったのが、原因なのだろうか。


 とはいえいつまでもそんな事を考えてはいられない。

 早速、顔を洗おうとベッドから降りると洗面所に向かう為、扉のドアノブに手をかけ開いた時であった。


「むっ……」

「……」


 何と扉の先には純一郎の姿があった。

 扉の前に立っていた事を考えると沙耶に用でもあったのだろうか。


 まさか鉢合わせになってしまうとは思っていなかったのか、うっすらと気まずそうな表情を浮かべている純一郎に対して、沙耶はまさか朝のしかも目覚めてこんなにすぐに見たくもない顔を合わせるとは思わず、眉を寄せ、目を細めて不機嫌そうな形相だ。


「……あぁうむ。朝食を一緒にと思ったのだが、生憎時間がなくてな」


 出くわしてしまったものは仕方ないと軽く咳払いをして気を取り直す純一郎は部屋の前にいた理由を話し始めるも、沙耶からしてみればさっさと部屋の前からいなくなって欲しいと言わんばかりに純一郎から目を背けてしまっている。


「……朝食を用意した。もし気が進めば食べてくれ」


 沙耶の態度に自分が招いた結果だと自覚している為、彼女も長話は望まないだろうと早々に話を切り上げると、それでは私は仕事に行く、と沙耶の部屋の前から立ち去っていき、しばらくすると玄関の開閉音が聞こえ人の気配がなくなる。


 純一郎が仕事に向かい、沙耶一人だけとなった寺内宅で沙耶は軽く顔を洗い、リビングに向かうとテーブルには純一郎が言っていた朝食が皿の上にラップがかけられた状態で待っていた。


 内容はバタートースト一枚、別皿には数本のウインナーと目玉焼き、ミニサラダが乗っており、至ってシンプルだった。最もまともなのはトーストとサラダだけで、ウインナーも目玉焼きも外側などに焦げが目立っている。


(……再婚するからって今更すり寄って……)


 正直に言えば、純一郎が用意したものなど口にしたくもないが、それ以前に食べ物を粗末には出来ない。顔を顰めて嘆息すると渋々、席について早速食べ始める。しかしやはりと言うべきはウインナーも目玉焼きも焦げの味はするし、一件、まともに焼けたと思えるトーストも冷めた上に固くて食べる度に眉を潜めてしまい、これではまともに食べられるのは精々、サラダくらいだろう。


 沙耶からしてみれば、今までの朝食で最悪ともいえる食事を終え、手早く片付ける。洗い物を後回しにするのは嫌いな性分なのか、その場ですぐに洗い、服の洗濯など朝やるべき家事を手早く行う


 全てが終わって、落ち着いたのは9時半を過ぎたところであった。昨晩からイレギュラーはあったものの、ようやく自分が良く知る静寂だけが包む自宅になったとソファーに深く腰掛けながら軽くため息をつく。


『どんなことがあっても私はアナタの味方だよ。どこに行っても私はアナタを見守って支えているから』


 落ち着いたからか、頭の中に夢に出てきた母親との記憶の断片が甦る。

 今でもはっきりと覚えているのか、幼い時に撫でられた頭を沙耶は無意識に手を伸ばして、触れる。


「……うそつき」


 自身の頭に触れた手はそのままゆっくりと垂れる。


 もう母親はいない。

 この静寂と冷たさが支配する家を温めてくれる太陽のような存在はもういないのだ。そう思うと、夏だと言うのに寒さを感じて沙耶は己の身体を両手で抱きしめ、僅かに蹲る。


 心がとても寒かった。

 こんな気持ちになったのはとても久々だった。


 すると沙耶はおもむろに自身のスマートフォンを取り出す。

 画面を表示させ、連絡先にあった美奈ちゃんと登録された名前を見やる。

 沙耶は僅かに迷うような素振りを見せるも、耐え切れなくなったとばかりに美奈へ連絡するのであった。

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