第69話 止まり続ける時間

 

 時計の針は決して止まる事なく進み続ける。寺内宅のリビングに置かれているどっしりと重厚な趣のあるアンティークの柱時計は揺れる振り子と共に一秒一秒をコツコツと乾いた音を立てながら時を刻んでいく。


「……どこに行っていたんだ」

「美奈ちゃん達と海に行っていました」


 その無機質な乾いた音はまるで今のこの二人の関係を表しているようにも思えた。

 テレビも何もつける事はなく時計の秒針の音だけが響くなか、ソファーに腰掛けた純一郎は自身のスマートフォンの画面を何か確認するように見やると、パタリと革素材の手帳型になっているスマートフォンケースを閉じておもむろに遅くに帰宅した沙耶に理由を尋ねると、キッチンで水出しのコーヒーをグラスに注ぎながら簡潔に答える。


「……美奈……? 誰だったか……」


 しかし美奈の名を聞いた純一郎は顎先を軽く撫でながら聞き覚えがあるといったような反応する。その反応に沙耶はピクリと体を震わすが、一々、娘の知り合いを覚えているわけはないと自身を落ち着かせるように目を閉じて唇を噛む。


 またリビングには淡泊で無機質な時計の音だけ響く。

 まるで世界から隔離されてしまったかのように。


「学園の方はどうだ?」

「問題ありません。成績に関してもご満足いただけるかと」


 父親と娘の会話にしては、あまりにも寂しく薄ら寒さを感じてしまうかのようだ。

 沙耶はただ純一郎の問いかけに関して、彼女の今の表情を表すような固く、冷たくまるで事務的に淡々と答えるのみでこれだけ見れば到底、この二人が血の繋がった実の親子の会話とはとても思えない。


「……あの学園はお前が珍しく強く進学を希望したところだ。お前ならばいくらでも選択肢はあったろうに……」


 あまりにも何の感情も籠っていない沙耶の事務的な返答に純一郎は何か思うところでもあるのか、視線を伏せるも、またすぐにどこか惜しむ様子で口を開く。


 純一郎の言葉通り、白花学園に進学を決めたのは何より沙耶の強い希望があったからだ。開校されたばかりの白花学園ではあるが、純一郎からしてみれば白花学園よりも更に偏差値の高い所謂、名門と称されるような学校の数々に入学することは難しくはなかった筈だ。


 これに関しては中学時代の進路の時も教職員に指摘されている。

 だが沙耶はそんな名門校の数々を蹴ってでも、強い意志で白花学園を選んだのだ。


「その、いくらでもある選択肢の中で決めた事です」

「……順調ならばそれで良い」


 それはやはり何よりも美奈が白花学園に入学していたからだろう。

 当時の沙耶は美奈に己の想いを明かしてはいなくとも、せめてずっと傍に居たいとそう願って、白花学園を希望したのだ。


 それを今更、とやかく言われるつもりはない。

 スパッとした物言いに純一郎は何とも言えないような表情を浮かべて、これ以上この話題を避けるように話を切り上げる。


(……私のことなんて対して興味もないくせに)


 純一郎は再びスマートフォンケースを開いて、スマートフォンの画面を見つめている。

 その姿を横目で沙耶は冷ややかな視線を送っていた。


 元々、母親が亡くなった時からこの家庭に歪みは生まれた。

 純一郎はこの家を空けがちになり、幼かった沙耶は背を向けるその姿をいつも見つめていた。そこから親子らしい会話と言うものは少なくなっていき、祖母が亡くなって以降、より猶々になってしまい、今ではこんな温かさもないような会話になってしまっている。


 だからこんな会話をしたところできっと純一郎はすぐに頭の隅に追いやる。


 いや忘れるだろう。

 だったら最初から会話なんてしなくていい。今更、自分達のこの冷たい関係が変わるとは思えないのだから。喋った事で僅かに乾いた口内とふつふつと湧き上がっていく苛立ちを飲み込むように沙耶はグラスに入れた水出しコーヒーを口にする。長時間かけてゆっくりと抽出したコーヒーは、ほろ苦くも雑味がなくてスッキリした味わいで胸の内の苛立ちも少しは和らぐ。


 もうこれ以上、純一郎と話すことはない。

 もっと言ってしまえば端から喋るつもりもなかった。自分はあくまで純一郎から投げかけられた言葉に答えているだけだ。リビングに長居をする理由もないし、用はなくとも純一郎と一緒に居たいとも思わない。沙耶は水滴が出てきたグラスを持って、自室へ向かおうとリビングを後にしようとした時だった。


「待つんだ、沙耶」


 リビングから立ち去って行こうとする沙耶を呼び止められる。

 沙耶は足だけを止め、顔も向けることなく何の用件か待つ。


「……大事な話がある。座りなさい」


 今までとは違い、より真剣味が増した声色で言われた沙耶は一度肩越しに純一郎を見やると返事はせず、踵を返して純一郎の向かい側のソファーに静かに腰掛ける。


 向かい合う沙耶と純一郎。

 しかし純一郎はどこか躊躇しているような素振りで視線を彷徨わせる。


「……父さんは再婚しようと考えている」


 それが数十秒経った時であった。

 さっさとしろと言わんばかりに純一郎を一点に見据えていると、やがて純一郎は大きく息を飲むと沙耶に彼女を呼び止めた理由を明かす。


「相手は部下の女性だ。早ければ年内には婚姻届を提出しようと考えている」


 相手ももういるのだろう。

 再婚相手のことを軽く説明しながらも、再婚の予定について話す。


「……沙耶はどう思う?」


 純一郎にとってに問題は沙耶であった。

 沙耶は一応は年ごろの少女だ。もしかしたら再婚その物に反対なのかもしれないと考えたから、意見を伺おうと話したのだ。


「別にどうも思いませんが」


 しかし沙耶から放たれたのはあまりにも冷淡な言葉であった。


「今日はやたらと饒舌だと思っていたら、そう言う事でしたか」


 すると沙耶はグラスを持って立ち上がる。

 もう彼女にとって、これ以上の用はなかったからだ。


「好きにしてください。必要であれば相手方にもお会いします」


 もう純一郎は四十代を半ばにしたところだ。

 別に再婚するならば勝手にすればいい。自分はその事についてとやかく言うつもりもない。自分に関係ある筈なのに、他人事のように感じられてしまうのはそれだけ距離があるせいだろう。とはいえ再婚するのなら、やはり再婚相手には会わなくてはならないのだろう。

 少なくとも、その辺りは都合は合わせるつもりだ。


「……良いのか?」

「何を今更。今まで私をほったらかしに好きにやって来たではありませんか」


 正直、ここまで他人事のような反応をするとは思っていなかったのだろう。

 念押しするように尋ねる純一郎を立ち上がった沙耶は冷笑を浮かべ、彼を見下ろして嘲ながら答える。

 純一郎を見下ろすその瞳はあまりにも冷たく、あまりにも刺々しかった。


 沙耶の態度とその言葉に純一郎は言葉を失い、視線を下げる。

 そんな純一郎を沙耶は興味を失くしたようにそのまま再婚を祝う言葉も何もなく立ち去っていく。リビングには純一郎だけが残り、時計の秒針が刻む音だけが寂しく響き渡るのであった。

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