第71話 Can't Get Enough

「沙耶ちゃんがいきなり会いたいって言うなんて珍しいね」


 昼過ぎとなった午後は日差しもより一層強くなり、冷房なしではなかなか厳しい。冷房によって冷気が満たされた部屋で美奈はベッドで隣に座っている沙耶に話しかける。


「しかも私の部屋が良いなんて」


 ここは美奈の私室。

 今日の朝、沙耶からの着信によって目が覚めた美奈は電話に出てみれば、美奈に、それも美奈の部屋で会いたいと沙耶から言われたのだ。目覚めたばかりでまだその時は頭が回らなかったが、それでも沙耶が自分に会いたいと言ったのだから、その要望を受けて昼過ぎとなったこの時間に沙耶を自宅に招いたところだった。


「……ここはより美奈ちゃんを感じられるところですから」


 沙耶はすっと美奈に肩にもたれながら静かに答える。

 ここは美奈がこれまでの人生でもっとも長く時間を過ごしている場所。必要最低限のものしか置かない沙耶の質素な部屋とは違い、一度ひとたび、部屋に足を踏み入れれば美奈の甘い香りが鼻をくすぐり、室内も美奈が好みのインテリアで飾られて可愛らしいガーリーな内装となっている。この部屋は小山美奈と言う存在を世界で一番、より濃く感じられる場所に違いない筈だ。


「……やはり落ち着きます。なにかも忘れてしまいそうなくらい……」


 囁くようなか細い声で話している姿は一見すれば、いつもの通りだろう。

 だが、美奈は今の沙耶が何かを話せば話すほど、どこか困惑したように戸惑いの表情を浮かべる。


 今の沙耶から何か強烈な違和感を感じるのだ。

 それはまるで暗がりの中、妖しく蠢く何か恐ろしい感情のような……。


 既視感があった。


 それは初めて沙耶に唇を奪われた時、彼女が纏っていた雰囲気に非常によく似ている。今の沙耶と一緒に居れば居るほど、何か得体の知らない何かに身体が少しずつゆっくりと絡めとられていくようなそんな気分になっていくのだ。


「沙耶ちゃん──」


 どうしたの? そう尋ねようとした時だった。

 沙耶に顔を向けた瞬間、自分は沙耶に飛びつかれるように抱きしめられたのだ。

 驚くのも束の間、勢いに押された美奈はそのまま沙耶によってベッドの上に押し倒されてしまう。


「……でも……まだ足りないんです」


 ゆっくりと沙耶が顔を離し、ベッドに押し倒され、目を丸くさせ驚いている美奈を見下ろしながら呟く。妖しく揺らめく瞳は美奈だけを捉えており、今の彼女が映す世界には美奈しかいなかった。


「もっともっと……今までよりもっと近くに」


 美奈の柔らかな頬に触れ、彼女がピクリと反応するなか沙耶は口元に歪な笑みを浮かべていく。その瞳にはある種の狂気のようなものが映っており、それが美奈をたじろかせる。

 今はただただ自分に起きている状況に、そして沙耶に困惑していたのだ。

 明らかにこれは恋人同士の甘いスキンシップのような甘い空気ではないからだ。


「──美奈ー? お茶菓子用意したけどいるー?」


 あまりに緊迫した状況に脳の処理が追いつかず、困惑するなか不意に一階のリビングから母の声が聞こえて美奈は目を見開く。冷や水を浴びせられたように心は冷たくなっていき、表情も蒼白になっていった。


 沙耶も美奈の母の声が聞こえたのだろう。

 瞳を扉の方向へ動かしている姿が目に映る。

 以前、似たような状況で行為は収まった。

 沙耶だって下手に知られる事にはしないだろう、と彼女が落ち着くまで待とうとするがなにを思ったのか、沙耶は美奈の唇を奪ったのだ。


「んんぅっ……!?」


 如何にキスといえど同意もなく一方的な行為は恐怖でしかなくキスの合間から悲鳴のような声が漏れるなか、沙耶はお構いなしに勢いを強めてくる。

 美奈は驚愕して塞がった口から悲鳴のような声を上げるが何か返事をしなくては母に聞こえていないのかと不審がられてしまうし最悪は部屋まで来る可能性だってある。それだけは今は避けなくてはいけない。


「美奈、聞こえてないのー?」


 思った通り、再びリビングから母の声が聞こえてくる。

 ここで返事をしなくてはどうなるかが分からない。美奈の鼓動が強くなっていくなか、沙耶の胸を叩いて抵抗を強める。


 美奈の目尻にうっすらと涙さえ浮かんでいる。

 それを見た沙耶は一度、頭を落ち着かせるように目を閉じると、覆い被さるようになっていた姿勢から上体を上げて美奈から離れて行く。


「──……い、いるっ! 今、取りに行くねっ!?」

「そう? 分かったわ」


 沙耶が離れたと同時にバッと肘で体を上げ、髪をかき上げながら少しでも異変を悟られないようにとなるべく平静を保つことを心掛けながら叫ぶ。少なくとも不審には思われていなかったようで母のリビングの扉を閉める音が遠巻きに聞こえてくる。


「沙耶ちゃん……どうして……!?」


 なんとか事なきを得たことで安堵するようにため息をついた美奈は馬乗りの姿勢になっている沙耶を見やる。その語気は僅かに強まっており、少なからず美奈が怒っているのだと言う事は分かる。


「……っ」


 少なからず沙耶へ怒りを見せる美奈だが沙耶の表情を見て固まった。

 沙耶の頬には涙が流れており、頬を伝って涙の雫は美奈の頬に伝い落ちる。

 とめどなく涙を流す沙耶に美奈は困惑する以外には出来なかった。






「ごめん、なさい……っ」






 すると沙耶は震えながら唇を動かし、謝罪の言葉を口にする。






「だから……離れないで……っ……」







 だがその言葉は今までに聞いた事がない程、震えていた。






「一人にしないで……」






 沙耶はそのまま美奈の体に倒れ込み、抱き着く。






「美奈ちゃんだけは……ずっと……傍にいて……っ」






 胸に顔を埋める沙耶は嗚咽交じりに声を漏らす。

 それはまるで幼い子供のようで、今までの物静かで理知的な印章を受ける沙耶からは到底、考えられなかった。


「……大丈夫だよ」


 沙耶のその姿を見て、怒りを感じていた美奈の頭は落ち着きを取り戻す。

 するとそのまま沙耶の頭を抱いて、包み込むように彼女を抱きしめる。


「……私はずっと傍にいるよ。絶対に沙耶ちゃんを一人にしないから」


 沙耶に何があったのかは分からない。

 だが少なくとも今の彼女の心が崩れるほど酷く脆くなっているのは事実だろう。先程の行為への戸惑いだってまだあるが、今はそれ以上に沙耶を癒すことが先決だ。


「だから今は思う存分……泣いていいよ」


 沙耶と一緒にいて良い人間でありたい、とかつて啓基に語った。

 それは沙耶の悲しみも何も全て受け止める、自分の支えになってくれた沙耶を自分だって支えたいと思ったからだ。


 愛しむような笑みを浮かべながら、沙耶の頭をとんとんと撫でる。

 美奈から伝わる包み込むようなその温かさに美奈の胸に顔を埋めて、静かな泣き声を漏らすのであった。

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