第49話 ボクより小さな手

 

「ここが啓基君のお兄さんの……」


 放課後となり現在の時刻は午後六時半過ぎとなった。

 自分達もそうではあるがこの時間ともなれば道行く学生や仕事帰りのサラリーマンもちらほら見受けられる。今、啓基と綾乃の二人は道路沿いにて営業中の小さな洋食店の前に立っている。


 店の入り口の前では立て看板が飾られており、料理名やその値段などが白を基調に色ペンで書かれていた。見上げて看板を見やればPetunia(ペチュニア)の文字が刻まれており、それがこの店の名前なのだろう。いつまでも店の前に立っているわけにもいかない為に啓基は綾乃を連れて店内に入る。


 店内に足を踏み入れば、すぐ傍にレジと近くには雑誌のコーナーが置かれている。さほど広くはないが奥行きはかなりあり、カウンター席とテーブル席で分かれていた。明る過ぎず暗すぎずの絶妙な照明の明かりやシックなフローリングに優美な店内BGMはゆったりとした雰囲気を感じさせる。


「いらっしゃいませ」


 誰が啓基の兄なのか店内をキョロキョロ見渡している綾乃であったが、ウェイトレスに出迎えられる。愛想のある笑顔で応対される中、啓基が人数を簡潔に述べカウンター席を指定すると二人は案内される。


「まさか店に来るたぁな」


 カウンター席に綾乃を座らせる啓基に昌弘が来店してくるとは思っていなかったのだろう。

 そのままカウンターを挟み厨房にいた昌弘は苦笑した様子で声をかけられる。赤いスカーフを巻き、七分袖の白いコックコートやコック帽を身につけている姿はまさに絵に描いたようなコックだ。


「一番に兄さんに紹介したくてさ。彼女が俺の彼女の文山綾乃さんだよ」

「ふ、文山綾乃ですっ! 不束者ですがよろしくお願いします!!」


 ウェイトレスが水とおしぼりを二人の前に置いて去る中、啓基が手で指しながら隣に座る綾乃を紹介する。目の前の人物が啓基の兄であると認識した綾乃は慌てて立ち上がり頭を下げながら自己紹介をする。声色も上ずり、緊張しているのが手に取るように分かる。


「啓基の兄の葉山昌弘です。未熟な弟共々よろしくお願いします」


 自分でも緊張しているのが分かっているのだろう。

 落ち着かない様子でそわそわしている綾乃に丁寧に真摯な様子で綾乃を目を見ながら頭を軽く下げる。頭を上げた昌弘の快活な笑みにそれだけでも綾乃は昌弘に親しみやすそうな人物だと言う印象を持たせる。


「兄さんのオススメをお願いしたいんだけど良いかな?」

「分かった。どれも美味いけど特にってのを出すよ」


 特にメニューを見る様子のない啓基はそのまま昌弘に注文する。

 綾乃も初めてきた店でもあるし、折角、啓基の兄が振る舞ってくれるのだから二人に任せる事にする。啓基からの注文を受け、よし来たとばかり笑う昌弘は手慣れた様子で準備を始め、啓基と綾乃はその大きな背中を見て互いに顔を見合ってクスリと笑いあう。


「今日はキーマカレーがオススメだ。好みでタマゴフレークをかけて食べてくれ」


 程なくして昌弘自身の手で後ろから二人の前に料理が運ばれる。

 昌弘の言葉通り二人の前に置かれたのはひき肉たっぷりのキーマカレーと別で小皿にエッグカッターで小さくブロック状にカットされたゆで卵のフレークも置かれる。


 湯気がたち、カレーの香ばしさが食欲をそそる中、二人の肩を軽く触れて厨房に戻っていく昌弘。それと同時に啓基と綾乃は「いただきます」と口々にスプーンを手に取って黄土色に輝くキーマカレーを食べ始める。


「お、美味しい……っ!!」


 一度、口にすればキーマカレーのピリッとした辛みが広がり口内を刺激する。だが顔を顰めるような辛さではなく絶妙な辛味と煮込みに煮込んで溶けた野菜の味は手を止めさせない。思わず目を見開き、口元を抑えながら感嘆とした様子の綾乃に啓基と昌弘は微笑ましそうに見ている。

 

 お世辞抜きにして、今食べたこのキーマカレーは綾乃がこれまで食べてきたそれこそカレー全般の中でも頂点に立つほどの美味しさだ。


 思わずそのまま小皿のタマゴフレークも適量で振りかけて食べてみる。

 キーマカレーの辛さもタマゴによって中和されてまた違った味となって新鮮さを覚える。所謂、二度美味しいという奴だ。


「あっ、ごめんなさい……。私、食べるのに夢中で……」

「いや寧ろそれが嬉しいから気にしなくていいよ。CMで聞くだろ、いっぱい食べる君が好きって」


 今まで眉尻を下げて、キーマカレーの味を堪能していた綾乃だが、こちらを優し気な笑みを浮かべて見ている昌弘に気づき、途端にみっともない姿を晒したと思って恥ずかしさから赤面してしまう。だが寧ろ昌弘からしてみれば、その反応こそ喜ばしいものだ。


 よく食レポなどでそれが仕事とはいえ詳しく味の説明をするタレントもいるが、昌弘にとってはニコニコしながら食べてくれたり、綾乃のような夢中になってくれるような反応の方が手間暇かけた甲斐もある。帰り道にでもまた話題になってまた行きたいねなんて話してもらえたら料理人冥利に尽きるというものだ。


 その後も昌弘の仕事の合間に他愛のない談笑をする。

 最初こそ緊張していた綾乃も解れてきたのだろう。

 手が空いたのを見れば進んで昌弘に話しかけ、打ち解けている様子を見て啓基も安堵している。


「それじゃあ兄さん、俺達もう帰るよ」

「ご馳走様でしたっ。また来させてください!」


 午後六時半に来たわけだが、もう時計の針も午後八時の位置を刻もうとしていた。

 スマートフォンで時間を見やった啓基は昌弘に声をかけながら立ち上がり制服のブレザーを羽織ると、同じく着終えた綾乃がぺこりと軽く頭を下げている。


「綾乃ちゃん、これからも弟が迷惑をかけちまうと思うけど、どうかよろしく頼む」


 会計を済ませた啓基と綾乃は店から出て帰ろうとするが、厨房から出てきた昌弘が綾乃を呼び止める。

 

 綾乃には啓基の事で本当に迷惑をかけたとは思っている。

 啓基を見捨てないでくれなんて言えるわけがないが、それでもこの二人の恋路がこれからも長く、それこそ永遠であってほしいと願ってしまうのだ。


「あ、頭を上げてください! それに啓基君と結ばれて、素敵なお兄さんにも出会えて本当に今日は良かったです……。私こそこれからよろしくお願いしますっ」


 しかし頭を下げてまで啓基の事を頼む昌弘に綾乃は慌ててしまう。

 まさか彼氏の兄に頭を下げられるとは思っていなかったからだろう。眉を上げ、両手を前にして振りながら昌弘に頭を上げるように頼むと、寧ろ頭を下げるのは此方の方だとばかりにペコリと頭を下げる。


 頭を下げ合った昌弘と綾乃は何だか変な感じだなと可笑しそうに笑い合い、今度こそ啓基と綾乃は昌弘に見送られて店から出て行く。


「弟の前じゃ、随分と良いお兄ちゃんだなぁ?」


 厨房に戻った昌弘にカウンターの隅で頬杖をついていた女性がおもむろに声をかける。

 この席は女性にとっては厨房の様子も見えたりと中々気に入っている。

 無造作にアップにした特徴的な髪や何とも気怠そうに座っているのは美奈や玲奈のバイト先の社員である嘉穂だ。


 今日は休日なのだろう、私服であろうブラックのMA‐1を中心に纏めた服装でカウンターの隅に座っている。嘉穂が来店したのは、午後7半頃。兄弟と彼女の仲睦まじい様子を見て空気を読んで漸く今、声をかけたのだ。


「弟とその彼女の前で気取ってどうすんだよ」

「そりゃそうだ」


 今までの様子は嘉穂にはずっと見られていた。

 からかわれるのが嫌なのだろう、気恥ずかしそうに嘉穂に目を向ける事なく仕込みの作業の集中する昌弘の姿を可笑しそうにククッと喉を鳴らし笑っている。


「でも何か理由でもあるのか? 随分と弟達を気にかけているじゃないか」

「またそれかよ。深い理由なんかねぇよ」


 弟の為に頭まで下げた昌弘をからかう反面、あそこまでの姿を見せた事に驚いている嘉穂。嘉穂は知る由もないが、その質問は過去に啓基にも尋ねられた事がある。どこか苦笑気味の昌弘は仕込み作業をする手を止め、嘉穂を見ながらあの時と全く似たような答えをする。


「まぁでも……手かな……」

「手ぇ?」


 手を止めた昌弘はふと顔の前に手を広げると、理由に手と言われて今一、要領の得ない嘉穂は怪訝そうに顔を顰めている。どんな理由があるんだと座り直して机に身を乗せながら続きを促すように昌弘を見る。


「俺さ。長男で10になるまで一人だったんだ。父さんも母さんも俺より手がデカくてよ……。そんな時、初めて弟が生まれたんだ。俺よりも小さい手でさ……。この手が俺より大きくなるまでは兄ちゃんとして守んなきゃって思ったんだ」


 今でも鮮明に覚えている。

 小学校にまだ通っていた時、初めて出来た自分の弟、そして妹。


 啓基と和葉はさほど年齢は離れていないが、昌弘と啓基達とでは10歳近くの開きがある。今まで弟や妹などの下の存在に縁がなかった昌弘は生まれたばかりの赤ん坊であろう弟や妹の手と自分の幼い手を重ね、この手が大きくなるまでは彼らにとって良い兄でありたいと漠然と思ったものだ。


 丁度先日、啓基と自分の手の大きさを測った事があるが、ずっと小さく感じていた弟の手も今では自分と左程変わらなくなってしまった。そこに寂しさも覚えるが、そこまで成長してきてくれた事を思えば感慨深いものもある。


 もうそろそろ自分が兄としての役割も終える時が来るだろう。

 だがいつだって啓基や和葉が求めるならば、自分は彼らの兄として彼らを支えるつもりなのだ。そうでなければあの時の小学生の自分に怒られてしまうだろう。


「なぁおい」


 優しい笑みを浮かべ、しみじみと過去の事を思い返している昌弘に嘉穂もその話を聞き入るように目を瞑って口元に笑みを浮かべていたが、ふと自分の細い小さな手を見やる。暫く自分の手を見つめていた嘉穂は昌弘に声をかけた。


「私の手もお前より小さいと思うぞ。どうだ?」

「お、おう……?」


 声をかけられた昌弘が何気なく嘉穂に顔を向ければ、頬を染め真剣な面持ちで手をこちらに差し向けてくる嘉穂の姿が。しかし、どうだと言われてもどうしろと言うのだと言わんばかりの昌弘は引き攣った笑みを浮かべるのみ。


 嘉穂は望んだ反応が得られなかった為、顔を顰めて昌弘を恨めしそうに見ると、自棄酒でもするかのように彼から目を逸らしタンブラーに入った水をチビチビと不機嫌な様子で飲みはじめ、昌弘は機嫌を直そうと苦笑しながら何か話を振るのであった……。

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