第41話 貴方を好きになった理由

「啓基君は小学校の頃、塾に通っていませんでしたか?」


 綾乃が啓基に好意を抱き、告白してきた理由。

 それが何であるのかを尋ねた啓基に綾乃は微笑みを浮かべながら確認するように逆に問いかける。啓基は小学校時代までは綾乃の言うように学習塾に通っていた。まさか綾乃からその事を言われるとは思わず、僅かに驚くものの事実であるためコクリと頷く。


「私もあの塾に通ってたんです。啓基君を知ったのはそれが初めてです」


 綾乃が何故、啓基が学習塾に通っていた事を知っていたのか。

 その答えはすぐに綾乃の口から啓基と初めて出会った時の事も含めて話される。


 啓基が通っていた学習塾には綾乃も通っていたのだ。しかし綾乃はその事を知っていても、啓基は知らなかったのだろう。綾乃が同じ学習塾に通っていた事を初めて知り、驚いていた。


「覚えていないですよね。だって高校まで通っていた学校も違いましたし、接点もあまりありませんでしたから」


 視線を伏せながら学習塾時代の記憶を思い返して過去の綾乃を探す啓基。

 その反応に予想はしていたとはいえ綾乃はどこか寂しそうな表情を浮かべる。啓基は綾乃が学生塾にいたのか記憶を頼りに思い出そうとしているのに対して綾乃は鮮明に覚えているのだろう。ふと懐かしむように目を細めて微笑む。


「私は今も昔も地味で目立たない存在でした。でも啓基君は違った。誰にでも優しくて素敵で……皆の憧れでした」


 幼い頃から綾乃は引っ込み思案の気弱な少女であった。

 親に入れられた学生塾では友達らしい友達もいなかった。だがそんな中で誰にでも平等に気さくに接していた啓基。啓基自身は憶えていないが、綾乃もまたその中の一人であった。自分もあのような存在になれたらな、そう思えるほどの魅力が啓基にあった。こちらに柔和な笑顔を向け話してくれる啓基が眩しく見え、それと同時に胸の高鳴りさえ感じた。


「……もっと話したい。そう思ったところで私からは出来ず結局、小学生までの塾でしたしお互いに別の中学に入ったので私と啓基君はそこでお終いなんだな……っ思ってました」


 もっと仲良くなりたい。

 学校が違うならば、せめてこの場でしか啓基と話せる機会はない。

 だからこそ何とか話したかった、仲良くなりたかった。

 たまたま一緒に勉強していた人ではなく、通っていた塾で親密になった少女と啓基の記憶に自分の存在を刻み付けたかった。


 しかし悲しいかな。

 綾乃の性格ではあと一歩が踏み出せなかった。

 授業中の間も啓基を視線で追う事しか出来ず、それ以外の時間も数m先で友人と楽しそうに話している彼に声をかけようとしても、その言葉を呑み込むだけの日々を送っていた。


 結局、そんな日々を繰り返しているうちに遂に小学校を卒業し、それを機に学習塾には行けなくなってしまった。遂に学習塾に行けなくなった時、綾乃は自分自身を性分を呪う以外の事が出来なかった。何故、自分は一歩踏み出せなかったのか、と……。


「でも今の白花学園でまた会えたんです! 嬉しくて……。次こそ何とかって……!」


 いまだに当時の自分が不甲斐なく思っているのだろう。

 膝の上に置いた二つのか細い小さな手が赤くなるほど強く握られ歯を食いしばり表情を険しくさせている綾乃。


 だが今の高校時代の話になるとバッと顔を上げる。

 本当に嬉しかったのだろう、はにかんで頬を染める綾乃は見てる者さえ魅了するほど可憐だ。


 高校時代で啓基を知ったのはたまたま目に入ったからであった。

 だがその偶然でさえ綾乃は啓基を見逃すことはなかった。視界に捉えた身長180cmと高身長なテレビや雑誌などに出てきそうな程、精悍で美しい顔立ちをした青年が過去に同じ学習塾で学んでいた葉山啓基だと認識した瞬間、身の毛がよだつのを感じた。


 だがそれは決して悪い意味ではない。

 予期せぬ再会だった。

 啓基の事も忘れかけていた時の事でだった。

 だが再び出会う事が出来たのだ。

 しかも今度は同じ学舎の中で。


 かつて啓基と接した時と同じ胸の高鳴りを再び感じた。

 この再会に運命を感じてしまった。

 仕方がないではないか、心のどこかで引き摺っていたのにも関わらず、不意に再会する事が出来たのだから。


「そこから少しずつです。学校行事で話せるようになって……。でも二年生になる頃には嫌でも啓基君と小山さんの関係は分かってきます……。啓基君が……小山さんの事が好きだって言う事を」


 ここからの記憶ならば啓基も覚えている。

 印象に残ると言うほどではないが、それでも何回か学校行事に関わる事や他愛のない話をした記憶がある。


 綾乃にとってはそれだけでも充分であった。

 最初は少しずつ……そうしていけば啓基との接点も出来ていく筈。それが気の小さな自分に出来る最大のアプローチだった。だが啓基を目を追えば追うほど、彼が近くに居ようとする小山美奈の存在が嫌でも目に入る。美奈に接する啓基の態度に酷い既視感を感じた。何故なら、それは全く自分と同じように見えたからだ。


 啓基が異性から度々告白されていた事は知っていた。

 それだけ魅力だと思うし、それが何ら不思議には思わなかった。

 だが決まって啓基は告白を断っていた。

 それは何故か? 啓基自身は美奈に好意を抱いていたから。

 そんな噂は聞きたくなくとも綾乃の耳に届いていた。


 小山美奈という存在がとても妬ましく羨ましく思えた。

 美奈ならば自分が望んだ場所に立てるはず。

 しかし美奈は絶対にそうすることはしなかった。

 何故なら美奈にとっては啓基はただの幼馴染み。

 啓基が綾乃を特に意識しなかったように、美奈も啓基を意識しなかった。

 少なくともそれが安心なのか、それでも妬ましいのか当時の綾乃には判別がつかなかった。


「だから駄目元で告白したんです。今度は後悔しないように自分の想いを伝えよう、って……。まさか成功するとは思っていませんでしたけど」


 だが人の心とはいつ揺れ動くか分からないものだ。

 故に綾乃は焦がされるように啓基に告白した。


 言葉通り、駄目元であった。

 だが学生塾時代の自分とは決別したかった。

 それ故の告白。

 もう後悔などしたくはなかったから。

 だが結果として啓基は綾乃を受け入れた。


「啓基君が私に小山さんの代わりを求めてるって言うのは分かってます」


 静かに喜怒哀楽の判別がつかないような声色で放たれた言葉はまるで殴られたような鈍くジワリとくるような衝撃となって啓基に強く認識させる。


 昌弘の言う通りであった。

 綾乃はやはり啓基が美奈の代わりを求めていた事を分かっていたのだ。途端に啓基の額に冷や汗が浮かび上がり、テーブルの上に置かれている手が震える。今の綾乃を直視できず、俯いて視線を彷徨わせてしまう。


「でも良いんです」


 なんと言えば良いのか分からず、ただ狼狽えるという醜態を晒してしまう啓基。

 ただ無慈悲に刻々と時間だけが過ぎていく。しかしそんな啓基を安心させるように今度は優し気な声と共に啓基の震える手の上から綾乃の手が包まれる。それは体温でほんのり温かく、見上げてみればかつて見た美奈の代わりを求めた笑顔ではなく彼女自身の儚さを感じる柔和な微笑みを浮かべる綾乃であった。


「私は二番目でも良いんです。例えどんな都合の良い存在でも貴方の傍にいれれば……」


 啓基は綾乃を直視することは出来なかった。

 二番目でも良い、曲がりなりにも交際した人物にこんな事を言わせてしまう自分がどれだけ馬鹿げていたのかと。それどころか悲しそうな顔もせず、相も変わらず笑顔を浮かべている綾乃はまるで自分自身の罪を見せつけられているかのようで再び俯いて沈痛な表情を浮かべる。


「綾乃は……俺なんかよりも……もっと素敵な人と幸せになった方が良いと思うよ……。俺なんかとは……」

「別れませんよ」


 こんな自分にこれ以上、綾乃を付き合わせる事などもう出来ない。

 彼女は自分なんかよりも素晴らしい男性と結ばれ幸せになるべきだ。

 今にも泣き出しそうな程、震えながら何とか言葉を紡ぎだす啓基。

 しかし綾乃は馬鹿なことを言わないでほしいと言わんばかりに鋭い声で啓基の言葉を一蹴する。


「私に別れる理由なんてありませんし啓基君が大好きです。


 啓基君が望むことはなんだってしますよ。


 啓基君が望むのなどんな行為も出来ます。


 だって……好きなんです、愛しているんです。


 昔よりもずっと、この一分一秒でさえ今よりもずっと……。


 だからこれからも傍に居させてください……」


 もう綾乃を美奈の代わりなどと見る事は出来ないだろう。

 それ程までに綾乃の存在は強烈に自分の中に刻みつかれてしまった。


 綾乃をこうしてしまったのは自分だ。


 綾乃の浮かべる笑顔を見れば見るほど、どんどんその笑顔が歪に見えてくる。


 頭を抱えたくなる。

 身を投げたくもなる。


 綾乃から目を逸らしたい気持ちで一杯のはずなのに、まるで身体が絡めとられて身動きが取れなくなったように目を逸らせず啓基は綾乃を自分自身の弱さが作り出した罪と対面するかのように悲痛さに歪んだ表情で見つめ続けるのであった……。

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