第34話 その瞳は誰を見て
「「お疲れ様でーすっ」」
定時となり、嘉穂に促されてタイムカードを押す美奈と玲奈。嘉穂や残った従業員達から挨拶を返されながら、二人は更衣室で手早く着替える。
「それで葉山君の妹ちゃんとこの後、話するんだ」
「うん、でも何があったんだろ……」
制服を脱ぎ、豊かに育った乳房とそれを包むフリルのブラジャーを露わにしながら美奈から聞いた今後の予定を口にすると、その隣で美奈もニットの上着を着て、すっぽりと顔を出しながら答える。
「美奈も誰かの相談を受けられる子になったんだねぇ……」
いやぁ……としみじみと目を閉じ、噛み締めるように呟く玲奈。確かにここ最近の美奈はどちらかと言えば、相談を受けてもらっていた側だ。とはいえ、それとこれとは話が別なのか、ちょっとぉ! と苦笑交じりに美奈は抗議するかのように声を上げるのであった。
・・・
「えぇーっと……それでどうしたのかな?」
その後、玲奈と別れ客席に座る和葉と合流した美奈は向かい合って座っていた。相談事を受ける立場に慣れていないせいか、どこかぎこちない様子で言葉を探しながら何があったのかを尋ねる。
「その、みぃ姉はけぃ兄を振ったの……?」
ぎゅっと可愛らしく膝の上で握り拳を作って俯いていた和葉。やがておずおずと伏し目がちに逆に問い返す。どうやら話とは啓基のことのようだ。
「……うん、お断りさせてもらったよ。その、ケーキよりも好きな人がいるから」
「そっ……か……。あぁうん、そういう事なら良いの!」
何と答えるか一瞬、視線を彷徨わせるが下手に取り繕った事は言わない方が良いだろう。ありのまま、啓基を振った理由をまっすぐ和葉の目を見ながら答える。それだけで美奈が本心でそう思って兄を振ったのだと理解した。
かつて啓基にもっとアピールしなければ美奈はどこか違う人に行くかもしれないと言ったが現実そうなってしまったようだ。兄と美奈はお似合いだと考えていた為、どこかショックを受けているかのように言葉を詰まらせるが、そこは美奈が自分で選んだのだから、とその考えを尊重する。
「その、ね……。けぃ兄が最近ね、彼女が出来たんだ」
次に知らされたのは、啓基が交際しているという話であった。
それはそれで驚きはあるのだが、どうにも和葉の歯切れが悪い。
「でもなんか……ずっとけぃ兄の様子がおかしくて……。本当にその人が好きなのかも分からないし……。けぃ兄はずっとみぃ姉の事が好きだったから、こんなに気持ちを早く切り替えられるのも、何かおかしいなって……」
ここ最近、強く感じる啓基への違和感。
あの日、パンフレットを美奈に渡しに行って帰ってきた時から啓基は変わったように見えたのだ。
そして知らされた啓基の交際。
兄が交際する事自体はとてもめでたい事だし祝福すべき出来事だと思うが、どうにも今の啓基を見ていると素直にそうする事が出来ないのだ。
「因みに相手は私が知ってる人?」
「多分……。おんなじ学年の人らしいし……えーっと……確か名前は文山綾乃さん……だっけ」
一応、その相手について尋ねる。
啓基に限って変な人物と付き合うなど考えられないし考えたくもない。しかし家族である和葉が感じた違和感が本当なら相手のことを知ってはおきたい。とはいえ和葉自身は会った事はないのか、人差し指を顎に添え空に視線を向けながら教えてもらった名前を答える。
「名前は知ってる、かな……。それで和葉ちゃんはどうして欲しいの?」
「その、ね……。その人のこと、どんな人か教えてほしいの。今のけぃ兄に聞くのも何かアレだし……」
文山綾乃。
直接の関わり合いは記憶に残るほどはないが名前は知っている。別に悪い噂が立つような、かと言って良い噂があるような人物でもない普通の同級生だ。美奈は和葉の相談事の核心に迫ると、どうやらその人物について教えて欲しいようだ。啓基に聞けば手っ取り早いだろうが、今の彼に聞きたいとは思えない。
「出来れば元のけぃ兄にも戻って欲しいと思ってて……。でもどうすれば良いか、私分かんないんだよ……。だからみぃ姉に話に来たの……」
視線を俯かせ、悲痛な面持ちで下唇を引っ込める。テーブルの上に置いた手は震えており、それほど今の啓基を心配しているのだろう。
今の啓基は見ていてどこか危なっかしさを感じる。何かが起きる前に以前の優しい兄に戻って欲しい。
だが一体、自分に何が出来るのだろう。それをいくら考えたところで時間だけが過ぎていき、啓基は変わり続けるままだ。だから藁をも縋る思いで美奈に相談しに来たのだ。
「……多分ね、ケーキがそうなったのは私のせいなんだと思う」
自分の非力さに嘆く和葉の震える手にそっと手を添えられる。見上げれば、美奈が真剣な面持ちでじっと和葉を捉えていた。和葉は想像できるのは、美奈に振られてあぁなったという事だけだが、美奈に思い当たる節は沙耶との関係を知られてしまったからだろう。
悪い事をしたつもりはない。
自分の選択を間違っているとも思っていない。
自分だって悩みに悩みぬいて沙耶との関係を選択したのだから。
だが啓基はそうは思っていないようだ。
そのせいでここ数日、啓基の態度が豹変していったのだから。
「任せて、なんて格好良くは言えないけど……私に出来ることはするよ」
少しでも和葉を安心させるよう両手を添え、優しく微笑む美奈。
和葉もまたこれまで幾度となく美奈の笑顔を見てきた。それでも今、自分に向けられたこの微笑みは無力さを感じ暗くなっていた自分の心を雲の切れ目から差す太陽のように少しずつ明るくしてくれた。
「ありがとう、みぃ姉ぇっ!」
あまりの嬉しさに音を立てテーブル越しに身を乗り出して美奈の首に腕を回し抱き着く。最初こそ驚いたものの今こうして嬉しそうな和葉を見て安心させるようにトントンと軽く小さな背中を摩るのであった。
・・・
「やっぱりみぃ姉に相談して正解だったなぁ」
その後、シャルロットコーヒーを後にし、送ってもらった和葉は自身の家の一室で改めて美奈に話して良かったと晴れ晴れした様子で呟く。
「なんでお前当たり前のように俺の部屋にいんの?」
「良いじゃん別に」
……問題はその一室が昌弘の部屋だと言うわけだが。
ベッドの上でスマートフォンを弄っていた昌弘は寝転がったまま肘を立てて身を起こすと、さも当たり前のように自身のクッションの上に座っている和葉に怪訝そうに顔を顰めながら声をかける。だが返ってきたのは逆になにを言っているんだと言わんばかりに唇を突き出してぶうぶう文句を口にする和葉であった。
「いやいやここ俺の部屋だから!? 俺の世界、俺の国、俺の町! つまりはマーサラタウンだぞ?!」
「むさっ苦しい部屋に可愛い妹が芳香剤としていてやってんだよ? 文句言うと、サヨナラバイバイさせるよ」
和葉にとって昌弘の部屋はもう一つの自分の部屋と言わんばかりに入り浸る時がある。
ノックも何もしないで当たり前のように入ってくるのだから、プライベートも何もない。理不尽だと言わんばかりに体を起こし両手を広げて自分の部屋だと主張する昌弘だが、悲しいかな和葉は聞く耳持たずに減らず口だけが返ってくる。
「大体、マーサだってけぃ兄のことは気になってんでしょ?」
「そりゃ……まぁな」
それに和葉だって今回は目的なしに昌弘の部屋に来たわけではない。
今回の美奈との話の内容を教えに来たのだ。和葉の指摘に先程までの威勢はなくなり言いよどんでしまう。
「っていうか、気になってんだったらマーサも一緒に来れば良かったのに」
「……いや、あの喫茶店。調理師学校時代の知り合いがいんだよ……」
今回シャルロットコーヒーに向かう前には昌弘も誘ったわけだが疲れてるの一点張りで来てはくれなかった。その事についても指摘すると、どこか気まずそうに視線を彷徨わせながら答えられてしまうのであった。
・・・
「よぉ」
夜が更けた頃、乾いた喉を癒しにリビングに入ってきた啓基をソファーに寝転がっていた昌弘が声をかける。
「……兄さん、明日も仕事でしょ?」
「風呂上りはフルーツオレを飲むって決めてんだよ」
壁時計が刻む時間をチラリと一瞥しながら尋ねる啓基。
その声のトーンは今までの啓基よりも冷めたものであった。
最近、ずっとこの調子である。
しかし昌弘は気にした様子もなく自分の調子で軽く笑いながら顎でテーブル上の空になった牛乳瓶を指す。よく見れば、スウェットに着替えた昌弘の肌は上気しており髪も僅かに湿っていた。
「……なぁ、綾乃ちゃんってぇのは向こうから告白してきたのか?」
大した興味もないのか、そのまま棚からグラスを取り冷蔵庫のミネラルウォーターを取り出して注ぎ始める。そんな弟の様子を見ながら、ふと昌弘が問いかけた。目を細め、その様子は今の啓基を見定めるかのようであった。
「……そうだけど」
「お前自身はその娘の事は好きなのか?」
ゴクゴクッと喉を鳴らしながらグラスに入った水を飲み干し、そのまま冷蔵庫にミネラルウォーターを片付けながら言葉短く答える。ここからが本題だ、そう言わんばかりに身体を起こして握り拳を顎に添えると啓基を見やる。
別に付き合う分には何も問題はない。
しかし今の啓基はただ自棄になって受け入れた、昌弘の目にはそうといか見えなかった。
「……笑ってくれてるからね。ぎこちないけど」
「……美奈ちゃんの代わりか?」
何を考えているのか、前をぼうっとした様子で見つめながら付き合ってからの綾乃のことを話す。
少なくとも綾乃は啓基の出した条件に精一杯応えようと彼の前では笑っているようだ。しかしそれを笑顔の印象が強い美奈とその美奈に振られた事を知っている昌弘の言葉にピクリと動きを止める。横目で昌弘を見れば、鋭い眼光をこちらに向けている兄の姿があった。
「……別に好きで付き合ってんだから良いでしょ」
「今のお前に言ったって分からねぇだろうが……」
その視線が耐えきれないように視線を逸らし、グラスを軽く洗うとリビングから出て行こうとする。
今の兄と一分一秒同じ空間にいたいとは思わなかったからだ。ドアノブに手をかけた瞬間、呼び止めるように大きな声をあげられた事で動きを止める。
「自分を通じて違う誰かを求められるなんざ、あんまり良い気分じゃねぇとは思うがな。そういうのって簡単に分かるもんだぜ、特に女性ってのは」
自分の背中に兄の突き刺すような言葉が送られる。
啓基はその言葉に何も答えることなく、いや答えられない苛立ちを表すように歯ぎしりをしてそのまま自室へ戻っていく。後に一人残った昌弘ははぁっと大きなため息をつき、兄なりに上手く弟を導けない苛立ちを表すかのように髪を軽く掻き毟るのであった。
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