第32話 砕かれた心
「けぃ兄お帰りー」
美奈が沙耶から家に招待されたのと同時刻、啓基は自身の家に帰宅していた。
丁度、歯磨きを終え洗面所から出てきた和葉は啓基に気づき何気なく声をかけるが啓基から反応はない。怪訝そうに顔を顰める和葉は啓基を見やるが、俯いているせいで表情は前髪で隠れて見えず、無言で和葉の横を通り抜けて自身の部屋に向かう。
「けぃ兄……?」
静かに二階から戸を閉める音が響いて聞こえてくる。
明らかに様子がおかしいのはわざわざ口にしなくとも分かる。
あんな啓基などそれこそ初めて見たかもしれない。
美奈と何かあったのだろうか?
少なくとも家を出る前までの啓基はまだいつも変わらぬ様子であった。しかし帰って来てからというもの、まるで話しかけるなと言わんばかりの雰囲気を醸し出している。ただただ今の啓基に困惑して、和葉は啓基が昇って行った二階へと続く階段を見つめるのであった。
・・・
バタン、と戸が閉まる音が真っ暗な部屋に響き渡る。
電気をつけるという気にもなれず啓基はそのままベッドに沈み込んだ。
出迎えをしてくれた和葉を無視する形になってしまったが、今の自分の表情も今の自分が吐き出す言葉も何も知らない妹に見てほしくも聞いてほしくもなかった。きっと口を開けば、感情に任せて何を言ってしまうかも分からなかったからだ。
美奈と沙耶が付き合っているなど想像すらしていなかった。
想像など出来る筈もなかった。
確かに世の中にはLGBTの人々がいるのは知ってる。
でもそれがまさかこんなにも近くにいるなんて思わなかった。しかもそれが長年好意を寄せていた美奈と幼い頃より知っている沙耶だとは思いもしなかった。いるとは思いながらでも、自分には無縁の話でどこか対岸の存在だと考えていたのかもしれない。
『貴方が見た事が全てでは?』
沙耶の言葉が、あの冷たい声がずっと脳裏を過っている。
それだけではない。
偶然にも見てしまった美奈と沙耶の口づけと彼女達と別れるまでの出来事がずっと頭の中を反復している。
思い出したくも考えたくもないと言うのに、ずっと頭の中に具象化して残り続けている。
それが苛立ちにも繋がって思わず忌々しげに歯ぎしりをしてしまう。
美奈に振られた時、それでも体裁は保てると思って応援すると言った。
……本当はそんな事、思っていないのに。
そんな美奈が一歩前に進んだと言う言葉を聞いて、心が締め付けられたのを感じた。
喜んで応援できない自分に激しい嫌悪感を感じた。
それでも美奈があそこまで幸せそうな姿を見ては何も言うことは出来なかった。
表面上だけでも祝福した方が良いのかもしれない、そう考えていた。
だが現実は自分の予想を遥かに上回っていた。
まさか美奈が同性の存在と、しかもそれがよりにもよってあの沙耶だなんて予想なんて出来る筈がない。これだったらまだ気づかなかった方が断然良い。それどころか自分が知っていようがいまいが異性の存在と付き合ってくれていた方が余程良かった。
何故、同性なのか?
何故、沙耶なのか?
少なくとも今まで生きてきて美奈が同性愛者だと思うような節はなかった。
と言うよりも、もし仮に完全な同性愛者なのだとしたら自分が告白した時点でキッパリと断る筈だ。それでも迷った様子を見せていたのは、彼女が両性愛者だからか?
沙耶に関して言えば、実家が金持ちで容姿端麗、文武両道、その仕草一つ一つに品の良さを感じさせる絵に書いたような完璧な人間と言っていいかもしれない。だが、彼女自身は美奈以外への態度など素っ気なく昔から冷淡だと誤解を受けていた。
いや自分だってそう思っていた。
彼女の尖ったような言動は中々、痛烈で辛辣な時があるからだ。
彼女に友達などいない。
彼女自身が欲していないという理由があっても周りから浮いている存在である事には違いない。
幼い頃から彼女の行動に疑問を持つ事はいくらでもあった。
やはり特筆するのは幼い頃から美奈の傍にずっといるところだろうか。
沙耶という存在は決して美奈以外の存在に心を許すような真似はしなかった。それは同じ幼稚園でずっと美奈と一緒に過ごしていた自分に対してもだ。
明らかに彼女は美奈とそれ以外の存在に対して、向ける目も雰囲気も全然違った。
自分がいくら距離を縮めようと話しかけたところで一定の距離を保ったままなのだ。それはまるで美奈以外の交流など不必要だと言わんばかりに。そして時折、見せるような美奈への執着はいささか度が過ぎて見えた。それでもその当時は彼女達が姉妹のような仲睦まじい様子を見せていた為、そういうものなのだろうと思っていた。
だが今にして考えてみれば幼稚園時代から沙耶は美奈に好意を抱いていたのだろう。そう考えてしまえば、今までの沙耶の行動も辻褄が合う。
しかしだ。
それは自分も同じことのはずだ。
自分も長い年月、美奈に想いを寄せていた。
『葉山君が好きです! 付き合ってください!』
『……ごめん』
今までだって女性と交際するきっかけなどいくらでもあった。
それでも交際に発展しなかったのは自分の心を美奈が捉えて放さなかったからだ。いつか美奈と交際出来る日を願って、いつだって断ってきた。
過去の美奈の言葉から推測するに、もう一人の相手である沙耶が美奈に告白したのは半ば同時期。
自分の何が沙耶に及ばなかったのか。
美奈にとって自分と沙耶を決定づけたものとは一体、何だったのか。
それが分からなかった。
少なくとも沙耶と交際するよりも自分と付き合った方が良い筈だ。同性愛などと言う奇異な目で見られるよりも健全で正しい男女交際として認められる筈だ。なのに、なぜ美奈はあえてそんな同性愛なんて道を選んだのか。自分ではなく、何故沙耶を選んだのか。
……いや、もうそんな事はどうだって良い。
まるで心にぽっかりと穴が空いたようなだ。
なにかをしようという気にもならない。
無気力な脱力感が全身を支配して指一本動かすのも億劫だ。
美奈への気持ちも思い出も全てが粒のように消え、残るのは欠片のような想い。
それさえ今は忌々しい。
いつまで自分の中に居座ろうというのだ。
それだけ美奈が好きだったとしても、いっそ綺麗に消えてくれた方がどれだけ救われるか。
ため息がこぼれる。
美奈のせいで、この短い期間で自分の心はどれだけ泥沼のようにぐちゃぐちゃになっただろう。
自分の心を引き寄せ照らし温め挙句には無慈悲に掻き毟るような存在。
自分が今まで積み立てていたものが崩れていった。
それは途方もない喪失感に繋がった。
何でもいい。
自分の心を埋めてくれる何かが今すぐに欲しかった。
啓基の腕がふらふらと何もない天井に伸びる。
まるで何かを欲するように、何かに縋るかのように。
その瞳は黒いナニかが蠢くように濁って映り、暗がりの中の虚空を醒めた目で見つめていた──。
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