第23話 友情と愛情の境界線

「おはようございます」

「……おはよう、沙耶ちゃん」


 啓基との映画鑑賞とその際に起きた出来事から月曜の早朝。一人、通学路で前を歩く美奈を見つけた沙耶は足早に向かい、挨拶をする。


 美奈が自分の目の前にいるのだ。すぐにでも、もっと近くに彼女を感じたかった。心なしか沙耶の口角も微かに上がっている。しかし美奈から返って来たのは挨拶は挨拶でも明らかにいつもの美奈に比べて、元気も何もない悄然とした挨拶だ。


 たったこれだけのやり取りで美奈の様子がおかしい事を察知する沙耶。なにせ、いつも自分に向けていた笑顔ではないのだ。自分に唇を奪われ、答えを見いだせない時に見せていた憂い帯びた表情でもない。どこか無理をしているのかような、そんな弱弱しい笑みを浮かべる美奈がそこにいたのだ。


「……私、急いでるから……。ごめん、もう行くね」


 なにかあったんですか? そう問いかけようとした瞬間、美奈はこれ以上、沙耶とは話さないと言わんばかりに有無を言わさず、一方的に言い放つと沙耶に背を向け走り去っていく。


 やはり沙耶は美奈に関しては敏感だ。普段の冷たい鉄仮面のようなすました表情も美奈や彼女への想いの事となればその表情は崩れる。


 一体、美奈になにがあったのだろうか?

 それを知りたいと思ったところで走り去る彼女の姿はどんどん小さくなっていって自分から離れていく。

 物理的なこの距離はまるで自分と美奈の心の距離のようにも感じられたのだ。


 思わず足を止めて、去っていく美奈の背中を見つめる沙耶。その表情は眉間を寄せ、当惑した様子を見せながら美奈の背中を見つめる。


 急いでいると言うより、その様子は自分を避けているかのようだ。現に自分が声をかける前まで美奈は普通にいつもの歩幅で歩いていたのだから。


「……ごめん、先生に呼ばれてるから」


 そしてその考えは間違っていなかった。

 空いている休み時間など時間が許すならば美奈に会いに行った沙耶だが美奈は教室にいない。漸く見つけたとしても取り付く島もなく一分も経たないうちにどこかへ行ってしまう。


「美奈なら、葉山君とどこかに行ったよ」


 昼時となって美奈の教室に訪れた沙耶だが、教室の入り口で玲菜から美奈が啓基と共に不在している旨の話を聞く。玲奈だけの話ではなく自分の目でも確かに確認した後、ありがとうございます、と言葉短めに玲奈に別れ、美奈の教室から去っていく。


(まさか葉山を……)


 沙耶の中である疑惑が浮かび上がる。それは啓基に告白された美奈が彼を選ぶというもの。彼を選んだから、美奈は自分を避け始めたのではないかという疑念も浮かんでくる。


 無理やり唇を奪ってきた同性の女子が自分を欲しているのだ。啓基に意識が向いたために自分への考えも変わって避け始めた。そう考えるのなら、何らおかしな話ではない。


(……美奈ちゃんに限ってそんな……)


 だが美奈がそうするとは思えなかった。

 いや、思いたくなかったと言うのが正しいのかもしれない。自分は何より美奈に嫌われるのをこの世で一番、恐れているのだから。


(美奈ちゃん……っ!)


 美奈に嫌われる、避けられる。今まさに沙耶が危惧する事態が起きている。美奈が全ての自分に美奈と触れ合う事すらできないのは、何よりも代えがたい苦痛だ。


 表情がどんどん険しくなり、歩く速度も段々と早くなっていく。沙耶を少なからず知る人物が見れば驚くことは間違いないだろう。何故ならば、焦燥する感情を表に出ししきりに誰かを探すように歩を進めながら辺りを見ているのだから。


 ・・・


「……美奈、話ってなにかな」


 一方で沙耶が血眼になって探している美奈は学園の裏通りにいた。目の前には向かい合う形で連れてきた啓基が立っている。ここはかつて啓基に告白された場所であった。


 話があると言われ美奈に連れ出された啓基は美奈へ用件を尋ねる。しかしその表情はいつに増して神妙な面持ちの為、用件自体察しているようだ。話を促す啓基のその顔を見て、真剣な表情を浮かべている美奈は静かに頷く。


「……答えは多分、見つかってるって……前言ったよね。だからちゃんと話そうと思って」


 啓基の目を見てまっすぐにおもむろに話し始める美奈。啓基はゴクリと唾を飲みこみ喉奥に重い音が聞こえ、手をギュッと握る。


 握った手が汗に濡れる。呼び出された時、きっと美奈はこの話題を出してくるだろうとは思っていた。

 しかしいざ面と向かって話され始めると、やはり落ち着かないのだ。


 様々な考えが目まぐるしく頭の中を駆け巡っていく。


 これからなにを言われるのか。

 彼女はどちらを選ぶのか。

 自分達の関係はどうなっていくのか。

 そんな事を次々に思い浮かべながら、気張って美奈の言葉を待つ。


「……ごめんなさい。やっぱり私はケーキとは付き合えないです」


 永遠にも感じられる時間が続く中、ついに美奈が答えを明かす。

 美奈は軽く頭を下げ、啓基の交際の申し出を改めて断ったのだ。


「それ、は……俺じゃないもう一人を選ぶってこと……?」


 また、振られてしまった。これで二度目だ。いくら答えが出たら教えて欲しいと言ってはいても、いざその答えが自分ではないのは多大な精神的な痛みに繋がる。スッと血の気が引き、頭の中が蒼白になっていくのを感じる。震える唇でもう一人の美奈に告白した相手を選んだのか問いかける。


「そうなるのかな……。でも、私は付き合えない」


 美奈は啓基の問いかけに考えるように視線を伏せると静かに再び啓基に向き直って答える。どういう事なのだろうか、もう一人を選んだと言うのに付き合えないというのは。美奈の言っている言葉の意味が理解できずに啓基は困惑してしまう。


「……付き合う事が怖くて一歩が踏み出せないの。その人に向き合ったつもりなんだけどね……その人に近づけないや」


 沙耶への想いを見つめ直した美奈だが、自分を抑える枷は彼女への想いを伝える事が出来ない。沙耶との関係などいつかは周囲に発覚してしまうのかもしれない。その時を想像したら、恐怖で自分の想いは押し留められてしまう。


「……美奈は俺と似てるんだね」


 いくらか落ち着いてきたのか、話を聞き終えた啓基はふと笑みをこぼす。

 どこか儚ささえ感じる笑みだ。


「俺もね、美奈に告白する前はそうだったんだ……。怖くて、でもこの関係を変えたくて告白して……。だから美奈の気持ちは何となく分かるよ」


 ただの幼馴染みという関係を変えたくて告白した啓基。結果は二度も振られてしまったが、告白する前はかなり思い悩んだものだ。その事を思い出しているのか、寂しく笑う。


「……でもね、美奈には笑ってほしい。幸せなって欲しいんだ。だから美奈も告白した方が良いと思うよ。もしなんだったら俺も相談に乗る……。だって俺達は”友達”だからね。応援するよ」


 例え振られたからといって美奈を好きになった気持ちが消えるわけではない。望んだ関係にはなれなかったが、好きになった人に幸せになってほしい。それがこれまで通りの友達という関係になったとしてもだ。


 しかしやはりその気持ちは辛いだけなのだろう。応援するという言葉を皮切りに啓基は美奈に背を向けて、一人教室へ向かう。その背中から見える肩は震えていた。


(……相談なんて出来ないよ)


 相談するくらいならば、沙耶を受け入れている。そもそもここまで思い悩んだのは啓基の受け付けない、という言葉もあるからだ。残った美奈はそのまま校舎の壁に背を預け、ズルズルと座り込む。


「──美奈ちゃん」


 啓基を振ってから、どれだけ時間が経ったろうか。俯き、両腕で自分の身体を抱いている美奈に横から声をかける人物がいた。


 沙耶だ。


 肩を上下させながら息を荒げ、上気した頬や汗に濡れた額を見る限り昼食もとらず、ずっと美奈を探し続けていたのだろう。


「……どうしたの、授業……始まっちゃうよ? 私ももう……行くから……」


 ゆっくりと立ち上がるとスカートについた埃を軽く手で払いながら、この場を去ろうとする美奈。大分、ここにいたのだ、もうそろそろ授業が始まってしまう。


「逃げないでくださいッ!」


 美奈は沙耶に背を向けて歩き出す。しかし沙耶は怒鳴り声にも似た大声をあげると静寂が包む周囲に響き渡るなか美奈の手首を掴む。俯き表情が見えない美奈も身を震わせ、思わずその場に立ち止まってしまった。沙耶が大声を張り上げたのなんて初めてだからだ。


「私が嫌いになったんですか……? だから避けるんですか…………っ!」


 離したくない。


 傍にいたい。


 ずっとずっと。


「嫌です……っ! 嫌なんですっ!! お願いします……近くに……いさせてください……っ!!!」


 あの沙耶が涙声交じりに苦悶に満ちた様子で美奈に投げかける。それほどまでに美奈に避けられたのが堪えているようだ。その様子はまるで主人を失ったベッドか何かのように、未練があり恋人と離れられないよう少女のように美奈の手に力を強める。


「……嫌いになんてなれるわけないよ」


 ならなぜ!? そう言葉を荒げてしまいそうになった沙耶だが、その言葉が出て来ることはなかった。何故ならゆっくりと振り向いた美奈が涙を目尻に貯めて、今にも決壊しそうな状態であったからだ。


「……沙耶ちゃんが私の居場所になってくれるって言った時、本当に嬉しかった……。あれから沙耶ちゃんの事が頭から離れないの……。沙耶ちゃんを……好きになっちゃったんだよ……っ!!」


 きっかけはやはり沙耶の家に招かれた時だろう。あれが自分がより沙耶に意識を向けるきっかけになってしまった。


 それからずっと沙耶を想い始める自分が生まれた。

 沙耶を好きになった自分がいた。


「でもね……。私は今の自分の環境だって好きなの! どっちも好きで、どっちもかけがえのなくて……! それが壊れるのが嫌なの……! 人は自分と違うものを拒むんだよ……? それが性の話なら尚更! 女の子同士が付き合うなんてやっぱり間違ってるんだよ……っ!!」


 耐えきれなくなったように美奈の頬に涙が伝い地面にぽつりぽつり落ち、己の想いを吐露する。


 玲奈や未希、啓基のような親友達、自分を育ててくれた親達、働く楽しさや辛さを教えてくれた嘉穂達。

 自分を取り巻く環境が、自分の周りの人間が自分を拒んで離れていくのが怖いのだ。


「沙耶ちゃんを傷つけてるのは分かってる……。でも……沙耶ちゃんといればいる程、沙耶ちゃんを感じる程、私は沙耶ちゃんが好きになっちゃう……。だからお願い……っ! 私にこれ以上、沙耶ちゃんを好きにさせないで……」


 以前、登校中に沙耶に微笑まれた時、心臓が高鳴った。もう自分は沙耶に虜にされてしまっているのだ。沙耶を傷つけてしまっている事は自覚しているが、これ以上沙耶を好きになったとしたら、きっと歯止めが利かなくなる、自分を抑える枷は外れてしまう。


 そうならない為に沙耶との接触を必要最低限に留めていたのだ美奈の胸の内を聞いて、沙耶の腕の力が弱まる。美奈は沙耶の手をすり抜けてその場を去っていくのだった。

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