第24話 温もりに隠れぬ影
「ただいまー……。うぃー……寒ぃみなぁ……」
日は落ちて辺りが暗くなっていく夕暮れ時、ガチャリと玄関の扉を開けた昌弘は白い吐息をもらしながら帰って来ていた。仕事の疲れが残っているせいか、気怠そうに首に巻いたマフラーを緩めながらぼやくと靴を脱いで廊下を進む。
「……どっした?」
「……いや、ご飯だからってけぃ兄を呼んでるんだけど返事がなくて」
リビングにいる両親に軽く声をかけ、荷物を自室に置こうと階段を昇った昌弘は啓基の部屋の前で顎に手を添え顔を顰めて立っている和葉を見つける。啓基の隣の部屋が自分の為、何故そんなところに立っているのか、尋ねながら和葉の後ろを通り過ぎると夕飯の為に啓基を呼びに来ていた和葉は扉越し声をかけても啓基から返事がない為に怪訝そうに話す。気になるのならいっそのこと部屋に入ってしまえばいいのだが、そこは思春期であり入って良いのか悩んでいたのだろう。
「寝てんじゃねぇの?」
「だって何かけぃ兄の呻き声みたいのが聞こえるし……」
荷物を置き終えた昌弘は上着を脱いでラフな格好で部屋から出ると面倒臭そうに和葉へ話しかける。学校から帰って来て、そのまま疲れて眠るなどそう珍しい事でもないだろう。
しかし啓基は昌弘が帰ってくる数分前に帰って来ていた。帰って来てからそう時間が経っていない為、流石に疲れてすぐに寝ていると言う訳ではないはずだ。それに何より啓基の部屋から微かに呻くような声が聞こえるのだ。
「呻く……? まさか学校から帰って、速攻でおかずに手を付けてるんじゃ……」
「でも、おかずならさっき出来たばっかだよ?それにおかずだけじゃお腹減るんじゃ……」
「そっちじゃねぇよ。男にとって大事な袋の中身が減る方のおかずだよ」
呻くと言う言葉から一体、何を想像したのか途端に珍妙そうな顔で眉を八の字にした昌弘はポツリと考えた事をそのまま口から零す。
昌弘がいう”おかず“の意味を彼が考えているのとは違う意味に捉えた和葉が不可解そうに首を傾げるが、寧ろ何も分かってないと言わんばかりに溜息交じりに答えられると啓基の部屋の扉の前に立つ。
「開けんぞー。隠すなら今のうちだぞー」
軽く2、3回ノックして小気味の良い音を鳴らすと一応の注意を残して数秒待って昌弘は扉を開ける。
部屋は照明をつけておらず、明かりは窓から差し込む夕陽のみを頼りにしている為、とても暗かった。軽く室内を見渡した昌弘はベッドで俯せになっている啓基を見つける。枕に顔を埋め、まだ着替える事もせず制服を着たままの状態であった。
「……に、兄さん……? 和葉……?」
「ど、どどどど、どうしたのけぃ兄!?」
そのまま入り口近くに設置されているスイッチで部屋の照明をつける。眩い照明の明かりが目に眩み顔を顰める中、昌弘は啓基を見やる。
突然、灯った照明に気付いた啓基はおもむろに顔を埋めていた枕から離れて、体を起こして顔だけ扉の近くへ向けると、昌弘の背後からひょっこりと顔だけ出して啓基の様子を伺った和葉はその顔を見て慌てふためいて驚く。
「……いやっ……その……」
近くの鏡に目をやれば、自分の頬には涙が伝った涙跡があり、枕も涙で濡れた痕跡がある。どうやら美奈に振られた事もあり、帰って来て知らずに泣いてしまっていたようだ。やはり美奈に二度も振られてしまった事は相当なショックだったようだ。しかし振られて泣いてました、など恥ずかしくて言い出せず袖で頬を拭いながら何て答えるべきか言葉をつまらせ、言い淀んでしまう。
「兄さん……?」
即座に泣いていた言い訳など思い浮かばず何かあったのかとオロオロと和葉に心配させてしまっている。そんな和葉に何とか安心させようと必死に頭を回転させ気持ちを落ち着かせようとするなか、昌弘はおもむろに歩き出して啓基が乗っているベッドにどすっと腰かけて、そのまま啓基の肩を抱く。
「……ま、言いたくねぇなら言わねぇでも良いんだ。肩を抱くくらいならしてやるよ」
大の男が枕を涙で濡らすほどなのだ。どんな理由であれ、深くは問うまい。言いたければ聞いてやるし、言いたくなければ言わなければ良い。安心させるように啓基の肩に回した手でそのまま肩を擦ってくれる兄にその温もりを感じる。
兄の気遣いが純粋に嬉しかった。俯いて下唇を噛みながら震える啓基。そうしなければ、また泣いてしまうからだ。だが完全に堪える事は出来ないのか、肩がフルフルと震えている。
「どーんっ!」
「ふぐぅっ!?」
そんな二人の兄の姿を見て、目を細め口元に笑みを浮かべた和葉は勢いつけて二人に抱き着くように啓基と昌弘の間に飛びつくと、突然の出来事に身構える事もなかった昌弘はまともにタックルに似た衝撃を受けて呻き声をあげてしまう。
「なーにすんだ、このヤロー……!」
「ふぁらしだって、けぃにぃをいやふんだもぉん!」
額に青筋を浮かべ自分と啓基の膝の上に座ってニコニコと抱き着いている和葉の頬を空いている手で引っ張る。昌弘が彼なりに兄らしく啓基と励ます姿を見て、妹である自分も何かしたかったのだろう。つねられながら、抱き着いた理由を涙目を浮かべながら答える。
「マーサよりも私の方が癒されると思うんだよっ!」
「はんっ! こーいうのはなぁ、大人の包容力が物を言うんだよ」
「いつからマーサは大人になったんですかー?」
気が済んだ昌弘に解放された和葉は自身の胸に手を置きながら自信ありげに話すも昌弘は何も分かってないなぁ、と小馬鹿にするように笑って答えるが、からかうようにニヤニヤと半笑いを浮かべた10歳近く離れた妹に煽られてしまう。
「いぃたぁあいっ!」
もはや何も言うまい。
昌弘は無言で再び和葉の頬を引っ張ると、和葉は再び目尻の涙を貯めて悲鳴をあげる。
「二人とも……ありがとうっ……」
近くに感じる和葉のシャンプーと女の子の独特の甘い匂いと間近で感じる昌弘と和葉の温もりを感じて、ただただ悲しく寂しかった自分の心も二人の気遣いに明かりが灯されたように温かく満ちていき、泣き笑いを浮かべて感謝する。
「……さっ、飯でも食いに行こうぜ」
「うんうん、そろそろお母さん怒るだろうしね」
先程までふざけ合っていた二人も啓基が幾らか元気になったのを見て互いに顔を見合わせてクスリと微笑むと、それぞれ啓基の手を持って一緒に立ち上がる。
「本当に……ありがとう。嬉しいよ……。本当に……ホントに……」
両手に感じる兄と妹の温もりを感じれば、心の底から幸せを感じる。大袈裟かもしれないが、自分は一人ではないのだと感じられた。自分は彼らの家族として生まれて来れて良かったと心から思えるのだ。
「ったく青臭ぇこと言ってんなってんだ」
「そーそー。マーサには言わなくていいよ……って、痛っ!?」
照れ臭そうな笑みを浮かべ、啓基の頭をぶっきらぼうにクシャクシャ撫でる昌弘を懲りずにいじろうとする和葉だが、無言で昌弘に尻を叩かれる。スパンっと気持ちの良ささえ感じる小気味の良い音が響くと同時に叩かれた和葉はぴょんっと飛び跳ねる。
「サイッテーッ! 女の子のお尻叩くなんてぇっ!!」
「えんがちょ! 小便臭ぇのが手についちまった!」
そのままクルッと振り返ってぷりんとしたお尻を両手で抑えながら柳眉を逆立てて、ぷんぷんっと怒る。しかし和葉が睨む昌弘はお構いなしに叩いた指先の匂いを嗅いで、露骨に顔を顰め大袈裟に声を大にして軽口を叩く。
「うぅっ……もうマーサの洗濯物だけ別にするから!」
「おいなんだその地味に嫌な攻撃は! 俺は思春期の子を持つオヤジか!?」
「思春期の妹を持つマーサでしょ!」
もうこれで何度目か涙目になった和葉は捨て台詞のように言い残して慌ただしく一階のリビングに向かう。流石にそれはそれで嫌なのかその後を急いでドタドタと音を鳴らしながら和葉に止めさせようとするのだが、流石にからかいが過ぎてしまったようだ。
精神年齢が近いと思っているせいか、頑なに昌弘を兄とは呼ばず和葉は拗ねながら叫ぶ。もはや和葉の中で昌弘は兄ではなく、マーサという存在のようだ。
「ははっ……」
残された啓基は今だにリビングで言い合いをしている二人の声を聞きながら苦笑する。相変わらずあの二人は揃うと騒々しい。何故、年齢があれほど離れているのにあそこまで賑やかになるのだろうか。とはいえ、昌弘は何だかんだで和葉を構うのが好きなのだろう。あそこまでからかうのは和葉くらいだ。
『もしなんだったら俺も相談に乗る……。だって俺達は”友達”だからね。応援するよ』
「……」
ふと一人になって、今日、振った美奈に対して答えた言葉が脳裏に過る。着替えようとしていたのだが、その言葉を思い出してしまうと手は止まってしまった。
「……そんなこと思ってもないくせに」
ポツリとそのまま自分に対して苛立ったように呟きをもらす啓基。あんなにすぐに切り替えが出来るはずがない。あそこで必死に食い下がるよりも、あぁ言った方が恰好は付くと思ったからだ。
振られたからと言ってすぐに美奈をまた友達だなんて思いこむ事など出来なかった。自分ではない誰かを選んだ美奈の恋を純粋に応援する事など出来なかった。苛立ちか悔しさか、自分の中に渦巻く感情を表現出来なかった。だからきっと知らずに泣いてしまったのだろう。
(……なんだか本当に無様だな……俺って)
今の自分がとても醜く感じた。美奈に振られた事への口惜しさ、美奈が選んだ誰かも知らない相手への嫉妬、兄妹を気遣わせた情けなさ。そんな自分がとても惨めでちっぽけな人間に感じられた。自分の心に暗い影が入っていくようで、啓基は振り払うように頭を振ると家族が待つリビングへ向かうのだった……。
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