第14話 悪魔の囁きのように


「どうぞ」

「ありがとう、沙耶ちゃん」


 風呂から出た二人は着替えてお互いに髪の手入れをするとリビングに移動する。沙耶が風呂上りのドリンクを用意して、美奈と自分の前のテーブルにそれぞれ置くとそのまま黒のレザーソファーに座っている美奈の隣に腰かける。


「何だか話せて楽になりました。肩の荷が下りたと言うか……」

「私も嬉しかったよ、もっと沙耶ちゃんのことを知る事が出来た気がする」


「いただきまーす」と嬉しそうに沙耶が用意したドリンクを飲み始める美奈に沙耶は静かに話し始める。今までごまかして隠していた敬語を使い始めた理由。当人に語ってしまえば、スッと今までより楽になった気がするのだ。


 ドリンクカップを静かにテーブルの上に置きながら、美奈も沙耶に微笑む。強引なキスから変わった美奈と沙耶の関係。あの時はただただ困惑するだけであったが、今ではもっと沙耶の事が知れて良かったと思っている。


「ねぇ、沙耶ちゃん」


 ふと美奈は沙耶に向き直る。どうかしたのだろうか、と沙耶は続きを待つように視線を向ける。


「……沙耶ちゃんは私が欲しいって言ってたけど、それってどういう関係になるのかな……?」


 すると美奈は沙耶がかつて自分に対して言った言葉の意味を問いかけた。かつて啓基に告白された時の返答ではないが、沙耶は美奈を自分のものにすると言ったわけだが、例えそうなったとして自分達の関係はどうなるのかが想像が出来なかった。


「一番は貴女と愛し合える関係になれればと思っています」


 啓基とは違い、即答で考える事も迷う事もなく沙耶から返って来た返答。あまりに迷いなく、その精悍な顔つきと切れ長の瞳をまっすぐ向けられて言われてしまうと思わずドキリとしてしまう。


「そ、そっか……「美奈ちゃんは」……えっ?」

「美奈ちゃんは私とどうなりたいんですか?」


 どぎまぎして顔を紅潮させると沙耶が直視できずに視線を俯かせてしまう。身体だけをそわそわと落ち着きなく動かし、照れた様子で何て答えようか言葉を悩ませているとその様子を見ていた沙耶から途中で口を挟まれる。それは逆に問いかけれた美奈の質問であった。


「私は……沙耶ちゃんが好き……だよ……」

「それは親愛の意味で、ですか」


 再び言葉を詰まらせながら途切れ途切れでも何とか沙耶の質問に答える美奈。しかし沙耶はその返答に満足していないのか、そのまま美奈にジワリと距離を詰めながら追及する。沙耶のその姿は自分を追い詰めているかのようで、一種の恐怖を感じた美奈は沙耶から少しでも距離を取ろうとソファーの端に移動しようとする。


「そ……それは……っ!?」


 ソファーの上に乗り、膝で歩きながら詰め寄ってくる沙耶に少しでも距離を取ろうとする美奈。静寂が包むリビングではソファーの僅かな軋む音だけが響くなか、美奈はソファーの端へ半ば後ずさりのように移動している為に大した距離も稼げず沙耶によって両肩を掴まれてそのまま押し倒されてしまう。


 倒れた拍子に僅かに開いてしまった美奈の股の間に片膝を立て、美奈の顔の真横に両手をつく。美奈に覆い被さるように四つん這いのような恰好になっている沙耶は美奈に顔を近づけ、ゴクリと喉を鳴らしてしどろもどろになっている美奈の返答をただその感情の読み取れない瞳でじっと見つめて待ち続ける。


 美奈からしてみれば沙耶への想いは親愛と言われてしまえば、それはもう違うと思う。もう自分と沙耶は唇同士によるキスをしてしまっているのだから。


 沙耶が自分の居場所になる、そう言ってくれた時は胸が高鳴った。あの鼓動の高鳴りはきっと気のせいとは言えないだろう。今迄恋愛対象として意識していなかった沙耶を初めて意識したのだから。


 しかしここで恋愛として沙耶を愛しているのだと言えば、それはもう絶対に引き返せない。


 それが何故だか怖かった。


 自分の気持ちに向き直ったとしてもその先が見えないから怖いのだ。


【だからずっと友達だって思い込んで悩んでるんじゃ……】


 ふと未希の言葉が脳裏に過る。もしかしたら未希の言葉は図星なのかもしれない。きっと自分の中で同性愛をタブーとしているから、ここまで気持ちがぐらついているのだ。


 沙耶を受け入れたらどうなるのだろうか


 自分が、沙耶が、周囲が


 一体、どう変化するかが分からないから怖いのだ。受け入れられるのかもしれない。だが逆に言えば受け入れられないのかもしれない。


 その時、周りの態度が変わったら?

 周りがどんどん離れていったら?

 常に奇異な目で見られてしまったら?


 どうなるか分からない不安があるからこそ恐怖を感じる。どうなっても構わないという覚悟がないからこそいつまでも考えも気持ちも定まらない。


 ではなぜ、啓基を受け入れようとしたのか?


 彼が異性だから? 啓基も沙耶同様、友人だと思っていた。そんな彼との交際を前向きに考えていたのは周囲が祝福してくれると思ったからか? 友人だと思っていても付き合い始めれば異性として好きになると思っていたから? 彼との交際の先に何も問題はないと思っていたから?


 分からない

 ワカラナイ

 わカらナイ


 自分自身の事なのにその気持ちが分からない。頭の中がグニャグニャと歪められたようで気持ちが悪い。

 吐き気さえ催す程、不安と恐怖と葛藤が目まぐるしく頭の中を駆け巡るのだ。自分の許容範囲キャバシティを超え、今までとは違うただ苦しいだけの動悸を感じて思わず身震いするほどだ。


「美奈ちゃん」


 ふと手に温かな感触を味わう。我に返って手を見れば沙耶が自分の手を包み込むように握っていてくれていた。手に確かな温かな温もりを感じる。まるで底知れぬ闇に光が灯されたような気分だった。先程まで先の見えない不安に支配され震えていた身体はピタリと収まった。


「意地悪してしまいましたね、ごめんなさい」

「……沙耶ちゃんが謝る事じゃないよ」


 震えていた美奈を見かねて申し訳なさそうに視線を伏せて詫びる。美奈に覆い被さるような体勢であった沙耶はゆっくりと離れて再びソファーに腰掛けると美奈も体を起き上がらせて首を横に振る。


 沙耶は何も悪くない。

 自分の質問に対して問い返しただけだ。


 沙耶は即答で答えてくれたと言うのに、自分はこの様でなんと情けないことか。自分は沙耶にも啓基にも好意を寄せられるような人間ではないと実感してしまう。


「……ですが悩むという事は少なくとも全くその気がないという訳ではないようですね」

「……私、怖いの……。沙耶ちゃんを受け入れて、その先に何が待っているのかが……」


 美奈が返答に迷う様をじっと見ていた沙耶。少なくともあれほどの迷いを見せたのであれば脈は少なからずあるだろう。沙耶が望む美奈と愛し合える関係、それは全く可能性がない訳ではないようだ。美奈もその事は否定せずに震える口で何とか言葉を紡ぎ出す。


「その気持ちは少なからず分かるつもりです」


 沙耶もまたかつて美奈が自分を受け入れてくれなかったら、自分を嫌悪したらどうしようと思って想いを伝える事が出来なかった。この想いから逃げてしまおうと敬語なども使い始めて美奈を突き放し、その距離を開けようともしたのだ。だからこそ美奈が今、抱えている想いが理解できる。


「でもね美奈ちゃん」


 だが今は違う。今、美奈への想いを縛るものなど沙耶にはない。もうこの想いを美奈に隠す必要はないのだ。沙耶はゆっくりと美奈の耳元に顔を近づけて囁く。


「自分を縛る枷なんてきっかけ一つで簡単に外れる物なんだよ?」


 まるでそれは人を惑わす悪魔の囁きのようにも聞こえた。

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