第15話 貴女と私の“好き”の違い

「……それじゃあ……私、帰るね。ありがとう沙耶ちゃん」

「いえ、それではまた」


 雨上がり、雲の切れ目から日差しが差し込み、雨に濡れた地面を照らすなか、美奈ちゃんが自分の家に帰るのを私、寺内沙耶は見送る。結局、彼女の表情は今の天気とは違い、晴れる事はなかったけれど少なからず彼女の意識を私に向けさせる事には成功したはずだ。


 玄関から美奈ちゃんが見えなくなるまで、その背中を見届けた私は静かに家の中に戻る。


 相変わらずこの家と言うのは静寂が支配するつまらない空間だ。飾られている高価な壺も絵画もこんな空間では色褪せたようで映えないだろう。結局これ等は取り繕うだけ取り繕っただけの上っ面だけのメッキのような代物。これ等を購入した父も価値も何も分からないだろう。ただ自分を誇示したいと言うだけの為の自己顕示欲の象徴。


 別にそれが悪いと咎めるつもりはない。父も一応は経営者だ。来客だってたまには来る。その時に会話の種にでも、中身のない会話に使用するのだろう。


 ……お母さんが生きていた頃はこんな物は家にはなかったのに。


 私は自室に戻ると、そのままベットに倒れこむ。中学に入る前に会う事も少ない父親に連れられて選んだベッド。一日の三分の一を過ごすだけあって自分に合う良いベッドを選んだつもりだ。お陰でとても寝心地が良い。


 ……私の唇にはまだ美奈ちゃんの唇の感触が残っている。

 軽く指先で唇に触れながら美奈ちゃんに想いを馳せる。


 ずっと昔からそうだ。


 私は美奈ちゃんのことしか考えていない。

 彼女の周りにいる有象無象など眼中にもない。


 朝、目を覚ましても

 昼、学校にいても

 夜、家事をしていても

 私は美奈ちゃんのことしか考えられない。


 お母さんを幼い頃に失くした私は父と祖母と共に父の仕事の都合でこの二郷市に引っ越してきたのがそもそもの始まり。


 幼かったこともあり母の事は断片的にしか覚えていない。だが温かく微笑みが良く似合う人で私も良く懐いていた記憶がある。お母さんに撫でられて良く笑ったものだ。その近くで父も微笑ましそうに見ては写真を撮っていた記憶もある。


 だが母は病死した後、少しずつこの寺内家は変わっていった。目に見えての変化と言うのはまるで母が死んだ現実を背けるように父は仕事に没頭していった事だろう。お陰で生活には困らなかったが、その当時はただ背中だけを見せる父の姿に寂しさを覚えた。


『違う。もう一回やりなさい』


 高校に進学する前に亡くなった祖母は厳格な人物であった。作法から料理など私はあの人に強く仕込まれた。苦しくてただただ辛かっただけだが、今はそれが役に立っているので感謝はしている。……あくまで今は、だが。


 当時は苦しかった。それ故、私は笑う事も少なくなっていった。


 幼稚園に転入した時もそうだ。私は元々人に関わるのが得意ではない。それに拍車をかけて笑う事が少ないせいか、話しかけてくれた同級生達にも上手く相槌も打てずやがて興味を失くされ離れて行った。


 途中から転入したという事もあり、私は既に形成されていたどのコミュニティにも属せず、ただただ浮いた幼稚園生活を過ごしていた。自分ではどうにかしなくてはいけないと思っていても、自分にその能力がない為にいつしか一人で過ごす事も多くなり、家でもどこでも私の心の中には寂しさが生み出した闇の中にいた。


『ねー、お名前は聞かせて?』


 そこで彼女に出会った。これこそが彼女との初めての出会い。この二郷に引っ越してきた私が初めて触れた温かさ。


 影を照らす太陽のように私に手を伸ばしてくれた小山美奈という存在。

 名前を答えた私の手を引いて、闇から救い出してくれた私の想い人。


 この時、幼いながらに振り向きながら笑顔を向ける彼女に胸の高鳴りを感じたのをよく覚えている。彼女に引かれた手から感じるその温もりはお母さんを思い出して、私は久方ぶりに笑った。


『美奈ちゃん……寒い……』


 風邪を引いた時があった。

 でも美奈ちゃんと遊ぶ約束をしていた私は風邪を押し切って彼女の家で遊んだ。だが結局、無理が祟りすぐに私は彼女の家で祖母が迎えに来るまでの間、厄介になってしまった。


 あの時、初めて美奈ちゃんの使っている布団の中に入った。苦しみながらでも全身に彼女を感じられ、私は幸せだった。


 それだけではない。暇を持て余した美奈ちゃんは親に止められているにも関わらず、こっそりと自室に入り私の看病をしてくれたのだ。


『だったらお手て握ってあげるっ!』


 風邪で寒がる私に満面の笑みで彼女はそう言って私の手を握ってくれた。そう、私はいつだって彼女の笑顔とあの温かな手に救われてきた。この後、祖母が迎えに来て帰りの間、小言を言われ続けたのを覚えている。


 だが祖母の小言が耳に入らない程、私は美奈ちゃんに心掴まれて彼女に溺れていった。


 時間が許す限り、私はずっと彼女の傍にいた。美奈ちゃんの傍にいるだけで、彼女の笑顔を見るだけで私の心は温もりに満ちていくから。彼女から差し出された手を握ればどれだけ幸福だっただろうか。彼女といるだけでどれだけ世界が明るく、美しく見えただろうか。大袈裟に取られるかもしれないが、彼女の傍にいると私は生きている実感を味わうことが出来たのだ。


 ……だが、ある時気付いてしまった。


 結局、彼女にとって私は友人の一人でしかないことを。

 葉山や別の友人にも彼女はその笑顔を向けていた。


 チクリと痛みが走った。

 彼女の笑顔は自分だけの特別なものにしたいと思ってしまった。子どもの純粋な独占欲からくるものだった。それが彼女を自分のモノにしたいと言う欲望の始まり。


『美奈ちゃんのこと、大好きっ!』


 彼女の関心を少しでも私に向けたかった。だから私は彼女と二人で遊んでいる時に意を決して子供ながらの告白をした。私の想いを告げたかった。


『うん、美奈も大好きだよ!』


 だがこの時、私は彼女との認識の差を感じただけだった。


 彼女は結局のところ、私を恋愛対象ではなくただの友人としか思ってはいない。それこそが当たり前なのだろうが私は一人の人間として小山美奈を恋していたのに対して、彼女は友人として好きなのだ。彼女の屈託のない笑みと共に言われたその言葉の意味に幼いながらに気付いて、私はそれ以上言えなかった。


 この時、初めて美奈ちゃんとの間に苦しみを感じた。美奈ちゃんの好きという言葉は嘘偽りのない物。

 だがその言葉の意味は私の好きとは違う。


 その言葉は優しくて甘くて愛おしくて……何よりも苦しくて。切ない鋭い痛みとなって私の心に深々と突き刺さった。これが私と美奈ちゃんが異性同士ならば、また違った結果もあったのかもしれない。


 元々、鈍感な彼女だ。異性の友人に対してもその好意に気付かない彼女に私が同性の壁が作る友人という名の境界線を乗り越える事もその認識を変えようとする事も出来なかった。


『美奈は好きな子とかいるの?』

『みんな好きだよ?』


 小学校に通う頃、葉山が美奈ちゃんに好意を抱いている事も薄々感づいていた。美奈ちゃんは気づいていなかったようだが、いつか葉山は告白するかもしれない。


 その時、彼女はどう答えるのだろうか?

 受け入れるのだろうか?

 葉山のモノに、誰かのモノになるのだろうか?


 ──嫌だ。


 美奈ちゃんが私の気持ちのような想いを誰かに向けると思うと立ち眩みに似た感覚を味わった。しかし美奈ちゃんの認識や想いを私に向けることなど至難の業だ。でもこの想いを諦める事など到底出来なかった。


 美奈ちゃんが欲しい。

 私だけを見て欲しい。

 私だけのモノになって欲しい。


 まだ小学生だった私の中の醜い欲望が蠢いたのを感じた──。

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