第16話 『個性の強さ』

 グラウンド整備の片付けを終えた頃には夕陽もその姿の八割を地平線の奥に隠し、茜空は深くて濃い藍色の夜空へと変化した。昼間の陽気な春の暖かさは形を潜め、春先の肌寒い空気が全身を差す。呼吸をして吐くたびに息が白く濁り、夜空へと吸い込まれていく。


 ものの五分で先程まで辛うじて視認できた夕陽は完全に地平線に沈み、藍色が支配する夜の世界が広がる。空を見上げれば満天の星が輝く。田舎の美麗町では星々の輝きがより強くその存在を主張する。自然と夜空に視線を送り、時間を忘れてしまう程に目を奪われてしまう。自然と共存する田舎だからこその景色。そこに住む者たちからすれば日常の景色も、都会育ちの者からすれば神秘と謳うことすら出来てしまう。


 校門前で朱里の到着を待つ間、俺は一心不乱に夜空を見上げていた。


「そんなに星空が珍しいの?」


「都会は人工の光や排気ガスなどが邪魔をして星空は滅多に見ることができないのさ」


 朱音のからの投げかけに答えた。おそらく都会でも街を彩る人工の光を一斉に消せば負けず劣らずの星空が広がるだろう。だけど都会から光が消えることはない。


 二四時間営業のお店。乱立するビルや建物から漏れだす電気の光。事故や事件を防止する為に設置された複数の外灯。都会で生きていくには切っても切ることの出来ない物で溢れかえっている。


「都会で暮らしていた頃には何とも思わなかったけど、いざ対面すると人生観が大き

く変わるものだな」


 自然の力もそうだが、都会に住んでいた頃は近所にコンビニがなければ不便だとばかり思っていた。それがいざ美麗町に引っ越ししてきても特別困ったことが今のところはない。


「わざわざ駅前のコンビニに行くのも面倒だしね」


「どうしても行きたいって場所でもないから余計に面倒に思えてしまうな」


 美麗町で唯一のコンビニが駅前にあるが、わざわざ足を延ばしてまで行こうとは思わなければ、予定すら出来ない。


「校門前。部活帰りの男女が星空を見上げながら語り合う――」


 背後から届いた声は雛のものだ。振り向くと胸の前に両手を握り締めて両目を爛々と輝かせていた。目から星が溢れ出しそうな勢いの眩しさだ。


「まさしく青春の一ページ! 是非、私にも体験させてください!」


 物凄い勢いで迫り寄ってくる雛に押される形で姿勢が反り返った。


「近い! 近いから!」


 互いの顔が接触してもおかしくない距離まで縮めてくる雛に訴えながら彼女の両肩を掴んで押し返した。どうにか距離を離すことに成功し、何を興奮しているのか問い質そうとするも、そこに横槍が入った。


「お腹すいた。死ぬ」


 小柄な体躯から想像できない力で服を引っ張られて体勢を崩しそうになる。服を引っ張ったのは澪だ。空腹による影響か、顔色が優れない。


「さあ! 早く青春のような会話を私に振ってください!」


 前からは雛が無茶ぶりに等しいことを懇願してくる。隣では服の裾を強く引っ張る空腹で飢えた澪の姿。俺一人では対処できない混沌が渦巻く。


「朱音! この空腹娘を何とかしてくれ!」


「ごめん。そうなった澪を力ずくで引き剥がすのは無理!」


 両腕を交差させてバツ印を朱音は作った。


「ならば!」


 このやり取りを見て笑うアーサーに視線を向けた。


「雛を頼んだぞ、アーサー!」


「あははははは! 俺には荷が重たいぜ!」


 笑って誤魔化しながらアーサーが後ずさりしていく。頼りになると思っていたアーサーがダメなら残された人物は岳しかいない。


「…………」


 岳と視線が合った。自分以上に期待が込められた瞳を輝かせている。小刻みに動いている体は準備万端といったところだろうか。こう期待を寄せられると助けを乞いたくても躊躇してしまう。


 なにより――。


「火に油を注ぐ感が否めないな……」


 岳の性格上、空回りして事態を余計に悪化させてしまう未来しか想像できない。その事が抑止力となって行動に移せない。そんな俺の煮え切らない姿に痺れを切らした岳は遂にジェスチャーをするまで己を自己主張してきた。こうなっては無視するのも気が引けてしまう。


 俺は覚悟を決めて岳に助けを求めようとした瞬間、救いの手は校内からやってきた。


「遅くなってごめんなさい! ……貴方たち何をしているの?」


 校内から現れたのは少し息切れをした朱里だった。手続きに手間取り遅れてしまったことに謝罪をした彼女は校門前で繰り広げられている混沌とした場面に出くわして直ぐに訝しんだ表情を浮かべた。


「見ての通り先生を待っていたんですよ」


「待ってるだけでどうしたらこうなるのよ⁉」


「妄想娘と空腹娘のコラボレーションです!」


「……いやいや! そんなに力強く言われても意味が全然分からないよ!」


「それでも教師ですか?」


「ディスられた⁉」


「そんなことよりこいつらを引き離すのを手伝ってください」


「そんなこと扱い⁉ あ、あまりにも酷くないかしら?」


「まあまあ、お姉ちゃんが遅刻したのがもともとの原因なんだからさ」


 朱音は姉を宥めた後、澪の傍に近づいて耳元に口を寄せた。


「お姉ちゃんが来たからご飯の時間だよ」


 ピク、と耳を動かした澪は服を掴んでいた手をあっさりと離した。代わりに口から涎を垂らす。


「雛も正気に戻れ。先生も来たからご飯を食べに行くぞ」


「――はっ⁉ 学校帰りに部活仲間と寄り道してご飯を食べるのも青春の香りがしま

す! 行きましょう! 早く行きましょう!」


 正気を取り戻したとは言い難いが、この混沌とした現場から脱出することには成功した。


 それからの動きは迅速なものだった。空腹の澪を先頭に列を成しながら朱里行き着けの料理屋を目指す。その最中、見せ場を失った岳だけが若干、落ち込みを見せながら最後尾を歩いていた。

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