七章 3
*
杏の家の前に立つと、愛莉は思いきって、呼び鈴をならした。昨日のことで警戒されてなければいいのだが。
幸い、インターフォンに出てきたのは、杏の母だった。愛莉のことをおぼえていてくれて、門のカギをあけてくれた。
「あら、愛莉ちゃん。ひさしぶり。何年ぶりかしら? 前はよく遊びにきてくれたのに。今、大学生? 大学生になると忙しいのね」
「すいません。わたしも、もっと、こっちに来ておけばよかったと思っています。杏ちゃんは、いらっしゃいますか?」
「あの子は朝が遅いから。もうすぐ起きてくると思うわ」
話しているところに、奥から、杏がやってきた。パジャマを着て、あくびをしながら、ろうかを歩いてくる。
しかし、その姿を見て、愛莉はこわばった。
愛莉の知らない顔をした、杏ではない杏。
そのうしろに、ピッタリと、女がひっついている。ドス黒い顔に、別人のような憎悪のこもった眼差しではあるが、それは杏だ。
杏の霊が、自分の体をうばった相手の背後に、ついて歩いている。
「杏ちゃん……」
まるで、愛莉のつぶやきを合図にしたように、すすす——と、杏の霊が、杏のふりをした女の背中に密接した。
「あら? 昨日の人? なぜ、家のなかにいるんですか?」
寝ぼけたような顔つきのまま、杏でない杏は不愉快そうに言う。その首に、杏の青黒い両手が、すうっとからみついていく。
「やめて……杏ちゃん……」
思わず、愛莉はひきとめた。
しかし、制止はなんの役にも立たない。
杏に愛莉の声が聞こえているのかどうかもわからない。
けげんそうな顔で愛莉を見る、杏ではない杏。
「いいかげんにして——」
ください——と言いかけたのだろうか?
その言葉が発されることは永遠になかった。
背後から首すじにかかる杏の両手に、ものすごい力がこもっていく。霊体が実体に害をなせるのだと、愛莉は初めて、まのあたりに見た。
杏のふりをした女の顔が恐怖と苦痛にゆがんでいく。
「杏! 杏! どうしたのッ? 杏!」
杏の母がしがみついていくが、杏の霊は力をゆるめない。
杏ではない杏の顔から、みるみる血の気が失われていく。このままでは、ほんとに死んでしまう。
「やめてッ! 杏ちゃん。悔しいのはわかるけど、そんなことしても、もう生き返れないよ?」
愛莉は叫んで、杏の霊にとびついた。生きているころと同じように、その体にふれることができた。
(わたしには見ることができる。ふれることもできる。だとしたら、止めることも……)
愛莉は杏の両手をつかみ、なんとか、ひき離そうとする。杏の霊が愛莉を見た。激しく
「わかるよ。悔しいよね。悲しいよね。でも、わたし、杏ちゃんに、こんなことしてほしくない!」
杏の悲しげな瞳から、血の涙がこぼれおちてくる。
そのまま、杏の霊は、しだいに姿が透けていき、消えた。
杏の霊をこんしんの力で、ひき離そうとしていた愛莉は、勢いあまって、ろうかに倒れこむ。
杏の命をうばった女も、よろめいて床にくずれおちた。
「どうしたの? 杏? 大丈夫? 何があったの?」
混乱して、その女をゆりおこそうとする杏の母に、愛莉は事情を話そうとした。
だが、口をひらくことはできなかった。そのことに気づいてしまった。意識を失い、倒れこんだ女の足首を、誰かの手がつかんでいる。
杏? 姿を消したように見せて、ほんとはあきらめきれないのか?
いや、違う。
その手は床から生えたように見えるが、着ているものが着物だ。赤い色の着物の袖から、白い手首がのぞいている。
その着物に、愛莉は見おぼえがあった。
(空蝉姫……)
あの夢のなかで、空蝉姫が着ていた着物と同じ柄だ。
空蝉姫の手は、女の体の上をするすると這っていく。まるで、何かをさがしているかのように。
愛莉は動くことができなかった。
恐怖のためか、あまりにぼうぜんとしたせいか、ただ、その手を見つめていることしかできない。
白と赤の蛇のように、女の体の上を這っていた空蝉姫の手は、女の口のところまで来ると、蛇がかま首を持ちあげるように、急に肘を立てた。そして、次の瞬間、女の口のなかに入っていった。
女が白目をむき、けいれんする。
女の両眼から、さきほどの杏のように血があふれてきた。鼻腔や耳や口、体じゅうの穴から血を流す。
いったい、何が起こっているのだろうか?
空蝉姫の腕は、いったん、止まった。時間にしたら、わずか数秒くらい。
そのあと、今度は逆行して、女の口から這いだしてくる。完全に外に出たとき、手の内に何かをつかんでいた。
青白く光る、何か。
それは蝉のぬけがらのように……空蝉のように見えた。
すっと、空蝉姫の腕も、にじんで消えた。
ただ、女の体から、血が止めどなく流れ続けていた。
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