八章

八章 1



 最初に我に返ったのは、愛莉だった。大急ぎで救急車を呼んだが、杏ではない杏は、すでに死亡していた。


 警察がやってきて、いろいろ事情を聞かれたが、愛莉に答えることはできない。


 ほんとのことを言っても、誰にも信じてもらえないだろう。

 空蝉姫だ。

 空蝉姫が杏に代わって復讐にやってきたのだ。


 あの全身の血を流して失血死する症状。近ごろ、ちまたをさわがせている新種の病気と同じだ。

 あれは病気なんかじゃなかったのだ。不当な方法で体と命をうばわれた人たちの恨みを、空蝉姫が晴らしていたのだ。

 おそらくは、この町の人をだまして犠牲にし、移し身をおこなった人々だけが殺されていた。


 そういえば、昨日、亡くなった人も養子だった。きっと、移し身で若返ったあと、もとの自分の家で暮らせるように、事前になんらかの手段を講じていたのだろう。


 杏になろうとした女のように、もとの自分とのかかわりを、完全にすてさる人物は少ないのだと考えられる。大半は、もとの自分の地位や財産に執着する。


 だから、この町の人が行方不明になっていた。


(待って。二年前、雅人くん、行方不明になったんだよね? 雅人くんは、たしか、お父さんの地元がこっちなんじゃなかった? 自宅はこの町じゃない。でも、もしも生まれたのが、ここの産婦人科なら……)


 それは、移し身の起こる対象者なのではないだろうか?


(雅人くんは滝川さんをさけている。それは、今の雅人くんが、ほんとの雅人くんじゃ……ないから?)


 愛莉は泣きそうになった。

 自分の愛した人が、ほんとうのその人ではないかもしれないという不安。


 雅人に会わなければ。


 警察の事情聴取には、「何も知らない。とつぜん杏が苦しみだし血を吐いた」と言っておいた。


 杏の母は混乱しすぎて、とても話せる状態ではないし、警察のなかにも、例の病気ではないかと勘づく者がいた。


 昼すぎに、愛莉は解放された。

 杏の家の前まで、祖母が迎えに来ていた。愛莉は祖母につれられて、いったん家に帰る。急いで昼食を食べ、また自転車にまたがる。


「愛ちゃん。気をつけるんだよ」

「うん」

「ちゃんと、お守りも持ってるね?」

「うん。行ってきます!」


 祖母は愛莉のようすから何かを感じたのかもしれない。励まされて、愛莉は送りだされた。


 むかうのは、あの林のそばの池だ。蛍のキレイな場所にいると、雅人は言っていた。


 どうか、ウソであってほしい。

 雅人が移し身によって、本物の雅人の命と体をうばった人だなんて。

 自分の思いすごしであってほしいと、愛莉は願った。


 雑木林の付近には、今日もまだ警察やマスコミの関係者の姿が見える。

 しかし、そこを通りすぎ、あの蓮池まで行くと、あたりは、とたんに静謐になった。


 晴れわたる空が水面に映りこみ、瑠璃のような深い青に変わる。魔性のあお


「……雅人?」


 ほんとに、ここに雅人がいるのだろうか?


 愛莉が見まわしていると、対岸に人影が見えた。若い男だ。雅人だと思い、愛莉は急いでそこへむかった。しかし、草むらに足をとられ、思うように進まない。


「雅人——」


 声をかけようとした愛莉は、あわてて口をつぐんだ。

 雅人じゃない。

 樹陰を出たり入ったりしているのは、菅原翔太だ。茶髪で背が高いので、遠目からでも特徴がよくわかった。


 なんで、こんなところに菅原がいるのだろうか?


 愛莉は草むらにしゃがみこんだ。

 ちょうど菖蒲が群生していて、愛莉一人くらいなら、かくれていられる。


 ながめていると、木のかげから、もう一人、男が出てくる。でも、それは愛莉の知らない男のようだ。年齢は愛莉と同じくらい。


 静寂のなかに、二人の話し声がひびく。二人は声をひそめていたが、あたりが静まりかえっているぶん、思わぬほど、その声はよく通った。


「……ほんとに、いいのか? こんなことして」

「心配ない。おまえさえ、だまってれば、サツにもバレない」

「でも……」

「ほら。報酬だ」


 なにやら、菅原はぶあつい茶封筒を男に渡す。男は封筒のなかを見て笑った。


「……ああ。どうも」


 ニヤついている男に、菅原は強い口調で命じた。


「おれの教えておいた家、おぼえてるな? そこに行けば、かくまってくれる。ほとぼりがさめるまで、かくれとくんだ」

「わかってるよ。おれだって捕まりたくない」


 どうやら、また移し身のために、誰かを殺したばかりらしい。


 男はだまされているとも知らず、逃げるように去っていった。自分が人を殺した場所に、長くとどまりたくなかったのだろう。


 それにしても、今のこの時期に移し身……菅原は最後に荒稼ぎして、外国へでも逃亡するつもりなのかもしれない。

 あるいは、自分自身が移し身をして、別人になりきってしまうか……。


 そうなるともう逮捕は難しい。

 圭介に知らせなければならないと、愛莉は考えた。


 こっそり逃げだそうとした、そのとき、愛莉のポケットでスマホが鳴った。

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