八章 2


 菅原の反応はすばやかった。

「誰だ!」

 ものすごい勢いで、こっちへ走ってくる。


 愛莉はあわてて立ちあがり、逃げだした。

 しかし、男と女の身体能力の差だ。すぐに追いつかれてしまう。


 腕をつかまれた愛莉は、菅原の手を強くふりはらった。

 そのとき、バランスをくずし、ズルっと池のなかに倒れこんでしまった。

 菅原とおりかさなるように池に落ちる。だが、そこは浅い。起きあがろうとする愛莉の上に、菅原は馬乗りになってくる。愛莉の頭を水のなかに沈めようとした。


 愛莉は抵抗するが、池の底の泥にハマりこんで、うまく力が出せない。

 頭部を押さえつけられ、ガバガバ水が鼻からも口からも入ってくる。


 息が苦しい。肺が痛い。水が肺のなかに入りこむことが、こんなに痛いなんて想像したこともなかった。


 このまま、自分は殺されてしまうんだろうか?


 イヤだ。イヤ。こんなところで死ぬのはイヤ。

 雅人、会いたいよ。

 もう一度、あなたに——


(助けて! 雅人——)


 もうろうとする意識のなか、何かが見える。

 幻覚のような何か。

 自分の上に乗りかかり、水中に押しこむ菅原。だけど、沈められているのは、愛莉じゃない。雅人だ。



 ——なんで? すうくん。こんなこと、よせよ。お父さんの借金だって、たいした額じゃないんだろ? 五百万くらいなら、いっしょうけんめい働けば返せるよ。


 ——おまえに何がわかるんだよ。ほっとけよ!


 ——すうくん。移し身で金を稼ごうなんて、まちがってる。何が起こるかわからない。


 ——どうなったっていいさ。殺すのも殺されるのも、死ぬのも生き返るのも、おれじゃないんだからな。


 ——すうくん。前の優しいすうくんにもどってくれよ!



 池のほとりで、雅人と菅原が言いあらそっている。


 そう。雅人は、菅原とも親しかったのだ。圭介だけではなく。そして、菅原のやろうとしていることに気づいて、必死に止めた。この場所で……。


(雅人……)


 水中に押さえこまれ、手足をバタバタさせて、抗おうとする雅人の意識と、同じ状況下にいる愛莉の意識がかさなった。


 そういうことだったんだね。雅人。

 わたしは、死んだ人の霊を、まるで生きている人と同じように見ることができる。さわることもできる。両者の区別はつかない。


 水のなかに、愛莉の涙が溶ける。

 ほんとうのことに気づいてしまった。知りたくなかった。


 もう少しだけ早く再会したかったと、泣いた雅人。



 ——もう少しだけ早く会いたかったよ。おれが、生きているうちに。



 再会したとき、雅人は、すでに死んでいたのだ。

 愛莉が見ていたのは、雅人の魂。


 この池の底に、あなたは沈んでいるのね? 雅人……。


 このまま、死んでしまおうか?

 そうしたら、あなたといっしょに眠れるわね?


 なぜか、苦痛や恐怖が消えた。

 目の前で雅人が笑っていた。

 雅人の腕のなかで、愛莉はまどろんでいた。


 すると、どこか遠くから、音が聞こえた。


 ジイジイ……ジイ……。


 あれは、アブラゼミ?

 おりかさなるのはヒグラシだろうか?


 たくさんの蝉の鳴き声が、いっせいに響く。

 遠い彼方から飛来する。


 アレが、来る。


 愛莉の意識のどこか深遠に、赤い着物を着た女の姿が見える。


「わッ!」と、とつぜん、叫び声が幻夢をやぶった。


 愛莉を押さえる力がなくなり、愛莉は本能的に起きあがった。せきこみながら激しく呼吸する。


 池のなかで、菅原が尻もちをついている。

 原因がなぜか、ひとめでわかった。

 池のまんなかに、人の頭のようなものがある。見ているうちに、それは、じょじょに水面から姿を現してくる。


 青ざめた顔の雅人……いや、空蝉姫?

 二人の霊がかさなって見えた。


 血色のない死人の肌に、ぬれた髪が張りつく。

 うつろな、光のない目。

 頭部、首、肩、胸まで現れても、まっすぐ上に浮かびあがる。水面に立つと、すべるように菅原にむかっていく。


「雅人!」


 呼びかけたが、雅人には愛莉が見えていないようだった。


 ジワジワと鳴きさわぐ蝉しぐれにまざり、声が聞こえる。



 ——移せェ。移せェ。移せェ……。



 その声はしだいに高まり、あたり一帯にとどろいた。愛莉の頭をたたくように、ガンガンこだまする。



 ——移せ! 移せ! 移せ! 移せ! 移せ! 移せェーッ!



 雅人の体が青く発光し、形が変わっていった。

 光る、青い……空蝉?


 空蝉は尻もちをついたまま硬直している菅原のひたいにもぐりこんでいった。


 ギャアアッと、菅原は断末魔のような声をあげ、ふいに立ちあがった。そのまま、走り去る。


 愛莉は気を失った。

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