七ノ章 直心 二

 何の理由も告げられず、真っ暗な地下牢に閉じ込められてから、数えきれない時が過ぎた。初めこそ、いつかは出してもらえると信じ、日の光を懐かしみ焦がれていたが、その希望を挫くには、十分過ぎるほど時が経った。

 朦朧とした意識の中で、浅く小さく息をして、浅い眠りを繰り返し、ふと目を覚ましては、まだ己が生きていることを恨めしくすら思った。

(どうしてまだ、生きている)

 拘束された四肢を地面に投げ打ったまま、ぼんやりと虚空を見上げ、自らに幾千幾万と問いかけてきた疑問を投げる。けれどその答えは見つからず、答えてくれる者は現れなかった。 

 理不尽な扱いに怒り、吹き荒れていた心の嵐も、いつしか吹きすさぶのをやめ、今は凪一つ立つことはない。しんと静まり、あらゆる感情が黒く塗り潰された心に浮かぶのは、「死」という意識ただ一つ。

 コツ、コツ…

 突如朦朧とした意識を現実に引き戻したのは、遠く微かに響く、石畳の廊下を叩く音だった。同時に複数の気配が徐々に自分に近付くと、錆びた鉄格子が擦れ動く音が、牢内に反響した。

「!?ッ――ぅ…ぁ」

 何事かと様子を窺うよりも早く、突然右手首を縛る鎖を思い切り引っ張られ、激痛が右腕を襲う。反射的に喉から呻き声を上げるも、上体を無理矢理引き起こされた。

「さっさと立て」

 隠しもしない悪意の籠った声は、自分を有無も言わさず此処に閉じ込めた時と同じ、眷属の男の声だった。

 理不尽な暴力に抗えるほどの余力などあるわけもなく、言われるがままに軋む身体を何とか起こし、引き摺られるようにして男の後ろを歩き出した。

 久しく歩いていなかったからか、足は思うように動かず、道中で何度も足がもつれ転んだ。転ぶたびに膝も腕も血でまみれていったが、その痛みすらろくに感じられない。

 右手首に繋がれた鎖を先に歩く男が持ち、少しでも遅れれば、肩から腕を引き千切らんばかりに引っ張られる。

 必死で追いかけ、けれど転ばないよう自分の足元を見るだけで精一杯だったために、自分が全く知らない空間に連れて来られたことに気付いたのは、男がようやく足を止めた時だった。もうこれ以上足に込める力もなく、男が立ち止まるや否や、崩れるようにその場へしゃがみ込み、恐る恐る周りを見回した。

 そこは、恐ろしく広い木造の建物の中だった。床は歩いてきた所と同様石畳で、隙間なく敷き詰められた石床には、墨で描いたような真っ黒な幾何学模様が描かれている。

 建物の四隅の柱には大きな蝋燭が添えられ、橙色の光が風もないのにゆらゆらと揺らめき、建物内をぼんやりと照らし出していた。しかしあまりにその空間が広いために、自分達がいる中央まで灯りは届かず、足元は薄暗く己の影も暗闇の中に溶けていた。

 そんな空間に居たのは、自分と自分を連れてきた男、そして十人ほどの眷属達だった。蝋燭の光で僅かに浮かび上がる彼らは、揃って黒の衣を頭から羽織り、顔はその布の下に隠れていた。

「来たな、忌み孤」

「―――っ」

 誰かがそう言うや否や、背後から伸びてきた大きな手が己の髪を鷲掴みにし、上体を逸らすように引き起こす。開かれた口から、「かはっ」と乾いた息が喉から這い上がり、吐き出された。

 ざわり、と黒づくめの集団は自分を取り囲み、距離を詰めてくる。自分の正面に立った男が、羽織の内からすらりと何かを取り出し、首筋に当てた。鋭利なそれが肌に触れた瞬間、ぞっとするほど冷たい何かが背筋を流れる。男はその物を大きく振り上げると、蝋燭の淡い光が、その物をぬらりと鈍く閃かせた。

「これでようやく、厄を祓える」

 真っ黒な布の下でそう言う男の口角が、にぃ、と歪むのが見えた。ようやくそこで、この状況を理解した。

(これでやっと、死ねるのだ)

 自分の居場所などなかったこの世界から、いなくなれる時が来たのだ。ずっと待ち望んでいた、この現実から逃れられる唯一の術。

(なのに、どうして、)

 みるみるうちに視界が滲んだかと思うと、目尻から一筋の涙が伝う。

(こんなに、胸が詰まる)

 雷鳴のように鋭い光を帯びて、切っ先が勢いよく振り落ちる。

 その瞬間、滲み霞んだ世界に、溢れんばかりの光が飛び込んだ。

 それは記憶の中からとうに失われていた、陽の眩しさも暖かさも凝縮したような光。不意に自分の髪を掴み上げていた手が解け、代わりに温かな何かが身体を包み込んだ。まるで陽だまりの中に身を横たえたかのように、冷え切っていた身体が芯からほだされていく。

「この処分、行わせるわけにはいきません」

 直後、高く落ち着いた声が頭上から響く。その声に導かれるようにして顔を上げれば、じっと正面を見据える女性の横顔が、すぐ傍にあった。己の身体をしっかりと細い腕で抱き寄せたまま、身動ぎ一つしない。

 次いで彼女の視線の先を追えば、自分と男の間に立ちはだかる、小さな童の後姿が見えた。稲穂のような黄金色の髪に、同じ色の狐の耳を生やし、服の間からはふわりとした尾を生やした童は、その手に身の丈と同等の大きさの金の大鏡をしっかりと握り、己より倍以上の背丈の男に、怯むことなく対峙している。彼が持つ鏡によって弾かれたのか、今さっきまで自分の首筋に当てられていた刀が床に転がっていた。

「ともかさまに、やいばをむけるな!」

 童の刺すような高くキンとした声に、周囲の眷属達はざわりと騒ぎ立つ。

「ともかさま」とは、今自分を抱きしめるこの女性のことだろうか。再び視線を彼女へと戻せば、自分を抱きしめる「ともかさま」の手の力が、ぐっと強くなるのを感じた。

「この子を処分することは、宇迦之御霊神たる私が許しません」

 彼女が静かに、けれどどこまでも澄み切った声で告げたその言葉に、心臓が大きく跳ねた。「宇迦之御霊神」は、自分達眷属が仕える稲荷神の中で最も誉れ高い、神の名ではないのか。そんな神が、何故穢れに満ちた自分を庇う?

「勝手なことをされては困りますな」

 刀を奪われた男が、吐き捨てるように言う。その口調には憤怒の感情が見え隠れしていた。

「この子は今回の飢饉には関係がありません。罪なき者を処分させるわけにはいきません」

「貴方にそのような指図を受ける謂れがありませんな」

「貴方達の主は、この私のはずですが」

「ともかさま」の言葉を、眷属は鼻で笑った。そこに、本来眷属が主に抱くべき敬意の念など、微塵も見られない。

「飢饉を引き起こした厄病神を、仕えるべき神などと我々が認めるとでも思いか!」

 眷属は怒鳴った。それは明らかに敵意の籠った言葉であり、仕える神への最大の侮辱。周囲も彼を諌めず、それが此処にいる眷属全員の意思なのだと黙して告げている。

「わかりました」

 そう短く返すも、「ともかさま」は決して、狼狽えることも、怯むこともなかった。

「火守さん」

 背後を振り返りながら、彼女は誰かの名前を呼ぶ。そこでようやく、また一人、「ともかさま」の供がいたことに気付く。名を呼ばれた「火守」という男は、七つの炎のような尾を持つ白狐であった。彼は一度頷くと、何かを彼女に手渡した。横目に見たそれは、金と銀の細やかな装飾が目立つ、漆黒の鞘に収められた一振りの刀だった。金銀の輝きは、まるで太陽と月の輝きを宿したように神々しく、黒く塗られた鞘は、引き込まれるほどに深く美しい。

 思わず目を見開き見入っていると、いつの間にかその刀は「ともかさま」の手によって、自分の手の中に収められていた。

「え…っ?」

 あまりの衝撃に声が出ず、ただ畏れ多くて、咄嗟に刀を彼女へ返そうとした。けれど「ともかさま」はそれを許さず、彼女の手が自分の手を刀ごと包んで離さない。そしてそのままの状態で、「ともかさま」は再び眷属達へと視線を向けた。

「この刀は、先代の宇迦之御霊神が遺された護神刀です。今この時をもって、この子を、私の神仕に任じます」

「何を馬鹿なことを―」

 声を荒げる眷属の言葉を打ち消すように、更に「ともかさま」は声を張り上げた。

「かつて先代様は、私の認めた神仕にこの刀を継がせ守らせよと仰いました。この子がこうして刀を司るのは、彼が我が宇迦之御霊神の神仕であることの明確な証拠であり、私と先代様の意思そのもの。たとえ貴方達が私を主と認めずとも、最早貴方達にこの子を処分する謂れはありません!」

「宇迦之御霊神様の気がお触れになったという噂は、どうやら真実だったようですな!穢れた忌み孤を自らの神仕にするなど、愚行にもほどがある!」

「言いたいことは、それだけですか?」

 あらんばかりの罵倒を一身に受けてなお、「ともかさま」は眉ひとつ動かさず、言葉に一切の揺るぎもない。その態度に眷属達も思わず息を呑み、皆呆然と彼女を見つめたまま硬直した。

 彼らの様子を一巡りに見、「ともかさま」は自分の身体を支えながら立ち上がる。自分の手と刀を包んでいた「ともかさま」の手が離れてもなお、己の手は刀をしっかりと握り締めたまま。

「鏡夜、もういいよ」

「はいっ」

「ともかさま」がこちらに背を向け立っていた童に声をかけると、「鏡夜」と呼ばれた童はすぐさま振り向き、自分達に寄り添うように走り寄ってきた。

「その足じゃ、歩くのは辛いだろう」

 血が滲む両足を覗き込み、「火守」という白狐の男が、刀を握り締めたままの自分を事も何気に両腕で軽々と抱き上げた。驚く自分を見、彼は思わず、と言ったように苦笑する。

「お前、きちんと食事を摂ってなかったろう。帰ったら沢山食べて、少しは太らねば駄目だぞ?」

「ともかさま」は駆け寄って来た「鏡夜」の背に手を添えながら、「火守」に抱き上げられた自分に向けて朗らかに微笑んだ。何気なく言われた一言も、向けられた笑顔も、どうしようもなく胸を突き、じわりと胸の内が温かい何かで満たされていく。

「行きましょう」

 騒然とする眷属達を無視し、「ともかさま」は踵を返すと、大きく開け放たれた屋敷の扉に向かって歩き出す。

 その場にいた誰も、「ともかさま」を止めようとはしなかった。

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