六ノ章 天つ水 四
境内の最奥に建てられ、最も神聖とされる建物―本殿の扉の前に、灯華は立っていた。眼の端に留まる涙を手の甲で拭うと、扉を静かに開け、中へと一人入っていく。本殿は神が人の祈りを受け、人のために祈る場所。
四方に大きな燭台が置かれ、そこに立てられた蝋燭の火が、煌々と本殿内を照らし出している。真正面には祭壇があり、そこには初代宇迦之御霊神が遺した
「ぁ…」
小さく声を溢し、思わず目を見開いた。
座敷の上に、ただ一つ置かれた物。それは、花を象った髪飾りだった。青葉からもらった、大切な――
「あおば…っ!」
走り寄るようにして座敷に上がり、崩れるようにしてしゃがみ込むと、髪飾りをそっと手に取り、胸の前で抱きしめた。止まったはずの涙が、また一筋頬を伝っていく。
「ごめんなさい」
大切な存在を、己の手で傷つけた。
「ごめんなさい」
守るべきものを、己の手で壊していた。
「ごめんなさい…っ」
大好きだった人の命を、己の手で殺めていた。
青葉は最期まで戦っていた。自らの命と引き換えに。自分のためではなく、京の都のために。京を守る神のために。
彼らは最期まで祈っていた。消えゆく命と引き換えに。自分のためではなく、未来のために。都に住む者達のために。
青葉もあの童達も同じ。己の命と引き換えに、誰かの命を想っていた。
それに引き替え、自分は?
神たる私は、何を想っていた?
「私は、忘れていたのね…」
神の意思は、神だけの意思ではない。その意思に育まれる、人々の生活がある。
神の命は、神だけの命ではない。その命に支えられ、生きていく人々がいる。
神が神たる所以。そんな単純で、最も大切なこと。
ようやく思い出した。神である自分の、在るべき姿。
抱いていた髪飾りを今一度髪に結いつけ頭を上げると、祭壇に置かれた護身鏡に己の姿が映り込んだ。
真っ直ぐに自分を見つめる、涙の痕の残る瞳。お世辞にも美しいとは言えない、櫛も通していない乱れた長髪。
胡桃色の髪に良く映える、桜色の髪飾り。痛みに耐えるようにきつく結ばれた薄紅の唇。
潔斎の後に渡され、身を通した真っ白で穢れのない着物。その下からは、血色の薄い細い腕が覗いている。
「宇迦之御霊神として、生きていくわ。…私を信仰してくれる者達と共に」
灯華の言葉を聞き届けたのか、鏡に映る神はふわりと微笑んで頷いた。その瞬間、鏡がまるで太陽を映しこんだように眩い輝きを放った。
「!?」
目を焼き尽くすような真っ白な光に、灯華は咄嗟に腕で顔を覆い、目を固く瞑った。目の奥では、チカチカとした閃光が乱舞する。強い光は一瞬で霧散し、灯華はおそるおそる腕を下げ、目を開ける。そしてそのまま、目の前にある光景に釘付けになった。
鏡の中の神はいつの間にか消え、代わりに一人の童が、不思議そうにこちらを覗き込んでいた。黄金色をした丸く大きな瞳をくりくりと動かし、やがて灯華の姿を捕らえた。
灯華の姿を見るや、ぱあっと口角を上げて嬉しそうに笑う。飛び跳ねているのか、黄金色の髪が忙しなく揺れた。頭に付いた髪と同じ色の狐耳が、ぴょこぴょこと愛らしく動く。鏡の表面に当てた手は、狐の前脚そのものだ。
鏡の奥で無邪気な笑顔を見せる童に対し、あまりに突然のことに、灯華はしばし呆然とその場に腰を抜かしたように座り込んだままでいた。
灯華は、この童に見覚えがあった。否、この童を知っている。つい先程看取った童と、瓜二つだったのだから。
「どうして…?」
誰にともなく呟きながらも、灯華の身体は無意識に鏡へと向かっていた。両腕を伸ばして、鏡の表面に触れる。指先に冷たい鏡の感触が伝わるのと同時に、鏡はまるで水面のように、触れた先から円形の波紋を作った。構わず伸ばした指先は、そのままゆるりと鏡の中へと沈んでいく。
指先から手、手首、やがて肘まで沈んだ時、鏡の中にいる童の手に、己の手が触れた。短くふわふわとした毛に覆われた手の感触が確かに伝わってきて、これは夢でもなければ、幻でもないことを知る。童は灯華に手を掴まれても、拒んだりはしなかった。むしろ、掴んでもらえたことを喜ぶように、灯華の腕に擦り寄るように近付いた。
「私と一緒に、来てくれる?」
灯華の問いに、童からの返事はない。けれど童は自分の額を、自分の手を握る灯華の指先へ擦りつけた。それは元来、眷属や神仕が主に傅くときに行う動作だった。
その動作を見、灯華が童の手を引くと、軽々と童の身体は鏡の外へと引き出され、そのまま灯華の腕の中へと飛び込んでいった。その華奢で小さな身体を、灯華はそっと包み込む。 温かな体温が、しかと伝わってくる。それは自分を信仰していた人々の命の重さであり、彼らが遺した温もりなのだと、そう教えられている気がした。
灯華と同じ真っ白な着物を纏い、着物の裾からは髪と同じ色をした狐の尾が揺れている。それは紛れもなく、狐の化身の証拠。
「ともかさま!」
名を教えてもいないのに、童はそう言って顔を上げる。
「
返す言葉で紡いだ言葉は、童の名前。
「貴方を、私の…宇迦之御霊の神仕として任じます。…私と共に、皆を救ってくれる?鏡夜」
「うん!ともかさま!!」
「鏡夜」の名を受けた神仕は応えた。
立ち込める雨雲を散らし、天から降り注ぐ太陽のような笑みをたたえて。
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