六ノ章 天つ水 三
灯華が再び京の都の地を踏んだのは、冬を目前にした霜月の頃。
かつてない大飢饉に襲われた都は、最早都としての機能を果たしておらず、完全に荒れ廃れた街となっていた。漂う空気はどんよりと重く、暗く、清浄を保っているはずの境内の中にいても僅かに感じられるほど、死の穢れが満ち満ちている。
自分が不在の間に、京の都がどのような状況に陥っていたのか。直接見ずとも、灯華にはいやというほど伝わってくる。拝殿の中で都の状況を話してくれる恵も、以前より頬がこけて顔色も思わしくない。都中で多くの者が飢餓で苦しんでいる中で、社の者だけが例外であるとは言えなかった。
「ごめんなさい…。沢山、苦労をかけてしまって。わたしが未熟なばかりに…」
「そんな風におっしゃらないでください」
恵は首を振って否定したが、その声も以前より元気がなく、疲労感が滲み出ている。
「幸い此処に仕えている者達は皆無事です。食料も備蓄のおかげでまだ何とかなっています。何より灯華様が戻られたこと、皆喜んでいるのですよ」
そうは言ってくれるものの、京の都の状況を思えばとても手放しに安堵できる状況ではなかった。全ては己の行動が引き金であることに違いはない。
「…そ、う」
突き付けられた現実が「お前のせいだ」と大声で責め立てきている気がして、言葉尻は段々と弱くなっていく。膝の上に置いた手を握り締め、下唇を強く噛み締めた。気を抜けば、また荒んだ感情に身を呑まれ、正気を失ってしまいそうだった。
「―こんな状況でもね、灯華様」
俯き、黙り込んでしまった灯華を気遣うように、恵はいつもより弾んだように明るい声をかけた。
「今年も、氏子達が
「…え?」
思いも寄らない言葉に、灯華の口からは呆けた声が零れる。
新嘗祭とは、年に一度収穫期の終わりに行われる祭事のことだ。一年の実りを神に報告し、感謝する祭。それを、実りなどないに等しいこの年に、何故。
意味が分からない。というように顔を上げたまま動かない灯華に対し、恵はとても端的な答えを告げた。
「氏子達が、灯華様を信仰しているからです」
「わたしのせいで、こんな飢饉を起こしてしまったのに?わたしのせいで、皆苦しんで…」
「だからこそ、皆灯華様に祈るのですよ」
飢饉の元凶たる豊穣神に、再び豊穣を祈る人間達。事情を知る者から見れば、とても皮肉で滑稽な構図だった。けれど幸か不幸か、氏子達がそれを知ることはない。知らないからこそ、今もこうして信じ、祈っている。
「…とにかく、今日のところは本殿へ戻ってお休みください。詳しい話は、明日改めて致しましょう」
酷く傷心した様子の灯華に、恵は慰めるように告げ、本殿へ移るよう促した。
「そう、するわ…。ごめんなさい…」
ようやく小さく返事を返すと、灯華は目を伏せて立ち上がり、拝殿を出て本殿と繋がる渡り廊下を歩く。相変わらず足取りは重く、不安定だった。
本殿の扉にそっと触れ、中へ入ろうとした時。ふと吹いた風に、微かな声を聞いた。振り返って辺りを見るも、渡り廊下と拝殿を繋ぐ扉は既に閉められており、周囲に人の気配もない。
けれど何故だか、気のせいと思い過ごすことができなかった。その場に根を張ったように立ち尽くし、周囲の音に神経を張り巡らせる。
すると突然、ザア…と冬の訪れを感じさせる、冷えて乾いた風が吹き抜けた。風は灯華の頬を撫でて髪をなびかせ、耳元で小さく囁いた。
―祈ろう。祈ればきっと、助けてくれる
―だれに?
それは、まだ声変わりもしていないような、幼い二人の童の声。
―宇迦之御霊神さまだ。…お前も、よくあの神社に行っていたろ?
―うん
―だから、行こう
―そこに行けば、もうだいじょうぶなの?
―あぁ。きっと、そこで神様が助けてくれる。だから、大丈夫…
気付けば本殿から背を向けて、灯華は元来た廊下を戻り、拝殿の扉に手をかけていた。震える指先で扉の取っ手を掴み開いて、足早に拝殿内へと再び足を踏み入れる。
恵の姿はなく、代わりに拝殿正面の扉が開け放たれているのが見えた。迷うことなく拝殿内を突っ切り、正面の扉から外を見た。そこに見たのは、拝殿正面に据えられた階段に座り込む恵と、彼女に寄り添うにして立つ火守の姿。そして、恵に抱きかかえられた、二人の童の姿だった。
一人は黒髪の、もう一人はくすんだ黄金色の髪の童だった。二人共頬はこけ、身に付けている物など、ただの汚れた布と言っても相違ない。身体中砂と泥にまみれ、目は虚ろに中空を彷徨っていた。灯華がまた一歩扉から足を踏み出すと、黄金色の髪の童の瞳が、ゆらりと灯華の方を見た。
―うかの、みたまのかみさま…?
瞬間、本殿の前で聞いた童の声が耳に届いた。先程よりも生気がなく、弱々しく掠れた声。
―みんなを、たすけて…おねが…い…
どうして童に、自分の姿が見えるのか。どうして彼の声が聞こえるのか。そんな疑問が浮かぶより早く、灯華は童の瞳を見つめたまま、反射的に頷いた。どうやって助ければいいのか、それすらもわからぬままに。
その姿を童は確かに見たのだろう。ゆるゆると目元を細め、口元を緩ませた。
―…よか・・った・・・・
開かれた唇の隙間から、ゆっくりと長い息が吐き出され、それがやがて途切れた頃。童の目は完全に閉ざされた。隣にいる童も同様に。まるで深い眠りに誘われたように、ひどく静かで、穏やかな最期。
「灯華様!なぜ此処に!?」
童に意識を向けていた恵が、そこでようやく灯華の気配を感じ、振り返って慌てたように大声を張り上げた。
「早く本殿へお戻りください!早く…っ」
「その子達は、わたしの、氏子…?」
灯華は彼女の言葉を遮って問いかけ、童に視線を注いだまま、ゆっくりと恵の傍へと歩み寄っていく。
「灯華様!」
恵が半ば叫ぶような声も、まるで耳には届いてこない。恵の傍にしゃがみ込み、童らの顔をまじまじと見た。
此の世の苦しみを嫌というほど味わってきたにも関わらず、彼らの最期の表情は苦悶に満ちたものではない、ひどく穏やかなものだった。彼らにはまだ、長く無限の未来があったはず。それを、自分が奪ってしまったようなものなのに。
彼らが最期に残したのは、こんな世界にした神への恨み言などではなく、心からの祈りの言葉。
「…声が、聞こえた、の」
童の声が、頭に焼き付いて離れない。繰り返し響いては、心の奥底を震わせる。
「助けてくれるって。ここに来たら神様が、きっと助けてくれるから、だから大丈夫だって…。この子達、ここに来るまでずっと、そう言っていたのに…っ」
絞り出した声はやがて嗚咽に変わり、泣くまいと決めていた意思はあっけなく瓦解され、涙は堰を切って溢れ、流れていく。
「助けられなかった…っわたしのせいなのに。この子達は、祈っていてくれたのに…っごめんなさい、ごめんなさい…!」
声が聞こえる。
この童達だけではない。都中に住む人々の声が。宇迦之御霊神への祈りの声が。
頭の中に直接、割れんばかりに響き、身体中を満たすが如く。
痛い
辛い
嫌だ
怖い
苦しい
助けて
神様、助けて
彼らの悲鳴が聞こえる。それは、潔斎場で自分が叫び続けていた言葉と同じもの。あの耐えがたい苦しみを、痛みを、絶望を、彼らに負わせてしまっていた。
これが、本当の罪。
愚かな罪を犯した代償。
零れた涙は頬を伝い流れ落ち、やがて地の底に染み入った。
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