六ノ章 天つ水 二
潔斎場の最奥。鳴霆によって京の都から連れ出され、そのまま連れて来られたのは、灯華にとって見覚えのある建物だった。その建物を見た瞬間、恐怖で身体が強張った。けれど拒むことができないことも、同時にわかっていた。あれだけ穢れの充満した場所にいて、神威すら失いかけていたのに、何も施されないはずがないのだから。
潔斎場の扉まで行くと、そこにはすでに、険しい表情の伊豆能売が、仁王立ちして待ち構えていた。鳴霆の上着を羽織り、抱き抱えられた灯華の姿を見るなり、彼女はわざとらしく袖口で口元を覆った。
「なんて臭気…。鳴霆様、それ以上私に、灯華様を近付けないでくださいませ。穢れ臭くて敵いませんわ」
そう言うなり伊豆能売はさっさと背後の扉を開け、するりと中へ入る。その後を鳴霆は追った。以前と同じ、蝋燭だけが立ち並び、紙垂のついた注連縄で覆われた一本の廊下を抜けて、三柱は禊を受ける潔斎場へと入る。その空間の中心に開いた穴をちらりと見、またあの苦しみを味わうのかと思っただけで、灯華の全身が粟立った。
しかし伊豆能売はそこで立ち止まることはなく、真っ直ぐ壁に突き当たるまで歩くと、紙垂と注連縄によって覆われた壁に手を触れた。壁一面が真っ白になるほど大量に垂らされた紙垂を伊豆能売が掻き分けると、そこには小柄な人間がようやく一人潜れるほどの、大きさの穴が空いていた。穴の先は見えず、ただ光の一切ない常闇が広がっている。
「潔斎場の最奥ですわ」
呟きながら、伊豆能売は振り返る。鳴霆は察しがついたのか、静かにしゃがんで灯華を下した。
「鳴霆様は、こちらにて禊を。貴方も相当の穢れを負っておりますから。…灯華様には、この先で禊を受けてもらいますわ」
「…大丈夫なんだろうな?伊豆能売殿。前回だけでも灯華は相当の」
「さあ?それは保証しかねませんわ」
鳴霆の言葉を切って捨て、伊豆能売は苛立たしげに、吐き捨てるように言った。
「神威を失いかけるほどの穢れを、無傷でそう簡単に落とせるとお思いで?」
押し黙る二柱に対し、伊豆能売は淡々と告げる。
「そこまでいった以上、命懸けで祓う他ないのですよ」
―命懸け
その言葉に、灯華の脳裏に青葉の姿が蘇る。目尻に溜まる涙をくっと抑え、唇を噛み締めて顔を上げた。
「…行きます。禊を、受けます」
伊豆能売は冷ややかな視線を向けると、「そう」とだけ返すや、穴の中へと入っていった。灯華もそれに続く。
穴の中は再び小さな廊下になっており、今度は灯りも何もなく、ごつごつとした足場や壁はまるで洞窟のようだった。壁に手をつき慎重に足を進め、やがて辿り着いたそこは、洞窟を四角くくり抜いたような、とても小さな空間だった。
四隅に取り付けられた燭台の火が、その空間の様相をぼんやりと赤く照らし出している。先程の真っ白な禊場の空間とは打って変わり、少しでも背を伸ばせば頭がついてしまうくらいに低い天井と、畳八畳分ほどしかない、閉鎖的な場所だった。
その空間の大部分を占めるようにしてあるのは、白の潔斎場と同様、地面を正方形にくり抜かれてできた大きな穴。こちらも中は水で満たされ、底の深さは一見しただけではわからない。天井や壁から出た杭に繋がれた紙垂の付いた注連縄が、穴の周囲を取り囲むようにして張られている。
「お召し物は、そちらで」
「…はい」
促され、唯一羽織っていた鳴霆の羽織を脱ぎ、床に置く。晒された肌に、ぴりりと電気が走ったような痛みが刺さる。
「何を狼狽えているのです?さあ、早くその中へ」
伊豆能売の声に容赦はなく、灯華はぐっと歯を食いしばって水面に足を浸けた。
「―――っくぅ…っ」
喉の奥から這い出る悲鳴を懸命に堪え、生理的に流れ出した涙を拭う暇なく、身体を水の中に沈めていく。身を沈めた箇所から、大量の歯の付いた刃物で切り刻まれているような激痛が、全身を駆け巡る。
足が水底に着くと、身体は胸辺りまで浸かった。浸かった瞬間体温は奪い尽くされ、末端から徐々に感覚が奪われていく。感覚はなくなっていくのに、何故か痛みは消えず、まるで身体の一部を少しずつ千切られていくようだった。
失われていく身体を、これ以上取られまいと両腕で己の身を抱こうとすると、突然右腕を穴の縁から伊豆能売によって掴まれた。
混乱する灯華を余所に、伊豆能売は穴の傍に落ちていた注連縄で、彼女の手首を縛り上げる。
「!?いっいづのめさま・・っなに、を・・ッあああああ!!」
咄嗟の疑問を口にすれば、全身を蝕む痛みに耐えきれず、抑えていた悲鳴が上がる。しかしその悲鳴を無視し、残る左腕も取られ、同様に縄を縛り付けられる。手首に喰い込むほどきつく縛り付けられた縄は、いくらもがいても解けることはなく、両腕を封じられたことで、水から上がることはおろか、身動きすら取れなくなる。
足掻けば足掻くほど水は波打ちうねり、灯華の身体を容赦なく刺し、切り刻んでいく。
「はなし・・て・・っ!」
声を振り絞り叫ぶも、その声を聞く者は誰もいない。いつの間にか伊豆能売の姿は消え、閉ざされた空間に、灯華の声が虚しく反響する。骨の髄まで痛みは浸透し、いよいよ意識は身体から剥がされていく。一時的に気を失ったとしても、再び痛みが噛みついては、意識を無理矢理覚醒させる。起きればまた痛みが襲い、意識が断ちきえるまで苦しめ続ける。
痛い
辛い
嫌だ
苦しい
助けて
誰か、助けて
自分でも何を言っているのか理解もできず、ただただ喉が張り裂けんばかりに叫び尽くし、やがて喉は潰れ掠れた息だけが吐き出される。繰り返す痛みの連鎖に意識が混濁し、身体は言うことを聞かず、頭が狂いそうだった。
けれど心の奥底で、荒れ狂う感情を必死に抑え込もうとする誰かがいた。もう嫌だと、いっそ殺してくれとまで言って泣き喚く自分を、大丈夫だと、耐えるのだと、抱きしめ、必死で宥める誰か。灯華はその姿の見えない誰かに無我夢中で縋りついた。
「ごめんなさい」
夢か現かもわからぬ意識の中、うわ言のように言葉を紡ぐ。
「青葉」
彼もまた、こんな痛みを負っていたのだろうか。
一人でずっと、黙って耐えていたのだろうか。
死して罰を負った彼は、こんな苦しみを抱えたまま、死んでいったのだろうか。
「ごめんなさい…っ」
生きて罰を負うということは、一度負ってしまった罰を、一生死ぬまで償い続けなければならないということ。
生きている限り、この苦しみは永劫に続く。癒えることも逃れることもできない痛みを負い、それを離すことなく、生きていかなければならない。
―覚悟はできた?
誰かが、耳元でそっと囁いた。荒れ狂い泣き叫ぶ魂の聲と相反した、穏やかで優しく、澄みきった魂の聲。
聲の主は灯華を真っ直ぐに見据える。清らかな水のように澄んだ瞳が、瞳の奥に潜む灯華の心を捕え、見つめたまま離さない。
太陽のように温かく、散りゆく花を看取るように。悲しくも優しげな笑みを添え、彼女は告げる。
―宇迦之御霊神としてもう一度、生きていく覚悟は?
*
満月が天高く登る夜。月光が作る光の道を辿り、連なる鳥居を潜って、しんと静まり返った境内を進んでいく。二足歩行を覚えたばかりの赤子のような、覚束ない足運びで石畳を踏みしめ、時間をかけてようやく拝殿まで辿り着いた。
まるでそれを待っていたように、パタン、という音と共に拝殿の扉が開かれ、中から真っ白の狐―火守が顔を出した。拝殿の前に立つ主祭神の姿を見るや否や、
「――恵殿!」
慌てたように踵を返すと扉の奥へと消え、またすぐに顔を出した。社の神主たる恵の手を引いて。灯華の気配を感じられたのか、恵は灯華へと顔を向け、唇を綻ばした。
「おかえりなさい。灯華様」
(やっと、帰って来ることができた)
二人の姿を見、ようやく張りつめていた緊張の糸が弛緩した。未だに走る身体の痛みと零れそうになる涙を堪えて、今できる精一杯の笑顔を作ってみせる。
「ただいま。恵、火守さん」
神はようやく、あるべき地へと帰還した。
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