五ノ章 雨障み 四

 目を覚ますと、そこはいつも寝起きをしている、見慣れた社の中だった。

 視線を僅かに周りへ移すと、身体は真っ白な敷布に横たえられており、上からはふすまが掛けられていた。敷布に手をつき上体を起こそうと試みたが、全身凍りついたように冷たく、また鉛のように重く動かない。更に足の先から指の端までは電流が流れるように痺れ、皮一枚から骨の髄までが軋み痛んだ。

 それでも灯華は、僅かにうめきながらもゆっくりと身体を起こす。頭が割れるように痛み、いまだに揺さぶられる感覚が消えない。

「灯華様!目を覚まされたのですね…!」

 灯華の動く気配を察したのか、脇に座っていた盲目の宮司、恵がすぐさま彼女の傍へと寄り添い、背中に手をまわして身体を支えた。随分と久方ぶりに感じたぬくもりに、灯華は深く安堵する。

「まだ、身体が痛むのですか?」

「ありがとう、恵。私はもう…」

―その痛みこそが、貴女が犯した罪によって負った穢れですわ

 大丈夫。と言いかけた時、潔斎場で伊豆能売が言い放った言葉が脳内に響いた。ずしんと鈍い音を立て、その言葉は胸の奥に重く固い錘となって落ち込んでいく。

 人の言葉とぬくもりが、いつでも自分を癒し、勇気をくれた。自分にはない、「何か」を持っている人のことが好きだったから、人の傍に寄り添える神になることを望んだ。

初めて触れた人の体温は、温かくて、優しかった。

初めて聞いた人の言葉は、素直で、慈愛に満ちていた。

しかしその温もりを知り、近付き過ぎた末路がこれだ。

(私は、許されざる罪を犯した)

 身体中に居座る痛みが、これが証拠だと言わんばかりに主張する。伊豆能売は「この痛みが消え去るまで、水から上がることは許さない」と言っていた。この痛みはつまり、まだ穢れが身体の内に残っているということ。

「まだ痛むのでしょう?」

 顔を上げれば、いつの間にか目の前に麗しい男神が立っていた。その神は灯華が神となる前から、鳴霆と共に自分の面倒を見てくれた水神、澪浹みずちだった。

 神とはなんたるものか。それを幼い自分に説いて教えてくれた、兄のように慕う存在。「人と深い関わりを持ってはいけない」そう初めて教えてくれたのも彼だった。申し訳ない気持ちはもちろん、今や自分には「神」を名乗る資格さえなく、彼らと話す権利すら失った気がして、灯華は澪浹の視線から逃れるように俯いた。

「…事情は、全て鳴霆から聞きました」

 彼が吐き出した深い溜息に、自分への失望の念と、自分の犯した行為を責める意図を感じて、灯華はますます体を縮こませる。俯いたまま顔を上げようとしない灯華の目の前に、澪浹は風呂敷を差し出した。

「伊豆能売殿からの預かりものです。受け取りなさい」

「…ありがとう、ございます」

 灯華は澪浹の手の中にある物を一瞥すると、ゆるゆると手を伸ばしてその風呂敷を受け取った。ちらりと澪浹を見遣れば、彼は風呂敷を見るよう目で促した。灯華はそれに従うように、拙い手つきでその結びを解いていく。

「身に付けてあった物は、全て捨てさせてもらいましたよ。一度ついた穢れは、そう簡単には落ちませんから」

 包みの中から現れた物を見て、灯華は一瞬、時間が止まったかのように凍り付いた。

「勿論それも…いえ、それが一番『人の穢れ』が詰まっていたので、即刻処分するはずだったのですが…」

 そこにあったのは、灯華が初めて人に貰った―青葉のぬくもりの残る、髪飾りだった。

「貴女がどうしても、それだけは手放さなかったのですよ。潔斎を受けてすぐ、ろくに動ける身体でもないのに。伊豆能売殿から奪い取るようにして、必死に腕に抱いて。…その様子では、覚えてはいないようですが」

 そう言われて、灯華は戸惑うように頷いた。確かに、そんな記憶はどこにもない。あの潔斎場の中で覚えているのは、真っ暗な水底で最後だ。

「本当に無意識に動いていたんですね。…それに付いていた穢れは、後で駆け付けた告曜こくようが一切をくれました」

 穢れを負った告曜という名に、灯華は弾かれるように顔を上げた。鳴霆、澪浹、告曜。この三柱はいずれも灯華と親交が深く、中でも厄を司る告曜は、その性質上病弱な体の持ち主だった。その神が此度の穢れを受けたとなれば、その苦しみは想像しただけでおぞましい。

「告曜さんは、大丈夫だったんですか!?」

 潔斎場での痛みを思い出し取り乱す灯華に対し、澪浹はどこまでも落ち着き払い、眉ひとつ動かさない。

「今は社に戻って休んでいます。後で礼をしなさい。それより、これでわかったでしょう?」

 不意に、澪浹の声色が変わる。灯華を気遣うそれではない。どこまでも冷静で冷徹な、神としての彼の声。

「貴女にとっては、神となって初めて心寄せた人間との交流だったかもしれません。けれど貴女は、豊穣を司る国津神なのですよ?決して、人間の娘などではない。貴女が想うべきは、慈しむべきは、たった1人の人間ではない。何百、何千、何万と居る貴女を信仰する人間達のはずです。それがたった1人の人間に寄り添うことで、どれだけの影響が出たと思います?」

「…」

 感情の一切籠っていない、淡々と告げられる言葉は、灯華に容赦なく現実を突きつける。

「貴女は、貴女だけで神として存在できるわけではない。人の信仰と、周りの神との調和があって初めて成り立つものです。貴女の行動1つ1つが、貴女に関わる者達へ、計り知れない影響を与える。それが善きことであっても、悪しきことであっても同様です。…いい加減、それを自覚しなさい!」

 普段は決して感情を表に出さずにいる彼に、初めて怒りの色が露わになる。その静かで激しい怒りに、灯華は息を呑んだ。社の中にいた誰もが黙り込み、灯華へと視線を向け、彼女の言葉を待った。その視線の中心で、灯華は沈黙に耐えるように黙り込んだまま。誰もが動かず、各々の呼吸しか聞こえない。

主様ぬしさま!」

 その沈黙を打ち破るように、パアン、と力強く扉を開く音が部屋中に響き渡った。場にいた全員の視線が、一斉に本殿の入り口へと集中する。そこに走り込んできたのは、一人の真っ白な女性―澪浹の神仕、琉沱るただった。

 彼女は肩で息をしながら、額に流れる汗も拭わず、息を整えることも忘れて告げる。

「主様…かみぐい…神喰が、現れましたわ…」

 その名前に、全員の表情が強張る。

「神喰が?どうしてここに…」

 眉間に皺を寄せ問う澪浹に、琉沱は困惑したように首を振った。

「それはわかりません。…ただ、今奴と戦っているのは、たった1人の人間で…」

「愚かな」

 澪浹は吐き捨てるように言い放った。

「ただの人間が1人で立ち向かったところで、勝てる相手ではないというのに」

「人間…ということは、陰陽師でしょうか?」

 それまで黙っていた恵が不安げに琉沱へ訊ねたが、彼女は口を開こうとして、慌てたように口を噤んでしまった。

「青葉殿だ」

 黙り込んだ彼女の代わりに答えたのは、いつの間にか琉沱の後ろへ立っていた、瑞穂一族の守護狐、火守だった。青褪めた表情のまま、火守はもう一度はっきりと告げる。

「…青葉殿が、1人で戦っている」

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