五ノ章 雨障み 五
「…神喰は自我なく本能のまま、神を喰う悪鬼。奴の狙いは恐らく、この一帯を治める神である、灯華様かと」
「一度、灯華様を高天原へ逃がすというのは…?」
「無理ですね。あれだけの穢れを負った神を、高天原へ通すことなど許されるはずがない」
「それならこのまま、此処にいるしかないと?そんな悠長なことをしている場合なのですか!?」
「案じなくとも、今に鳴霆達が倒しに来るでしょう。…あの陰陽師の命の保証まではできませんが」
「何故ですか?神喰は既に、京の都を脅かしているのでしょう!?災厄を払うのが、武神たる鳴霆様達のお役目ではないのですか?どうして今すぐにでも、来て下さらないのです!?」
「これが我々の、灯華達が犯した罪に対する審判です」
「つまり、青葉殿が奴には敵わないと判断した上で、最悪彼が死ぬのを待ってから、神喰を打ち倒す…。そういうことですか?」
「察しが良いようですね、天狐」
「彼を見殺しにすると?」
「そんなことは酷すぎる、あんまりだ、とでも言いたいのですか?」
澪浹や恵達の会話は、どこか他人事のように聞こえて、まるで現実味を帯びてこない。見えない壁で隔たれてしまったように、話し声すらろくに聞こえない。自分だけが、どこか違う空間に取り残されてしまったように。
人と共に過ごす時間が何よりも好きだった。
いつの間にか、彼と過ごす日々が何よりも幸せだと感じていた。
人を愛おしいと想っていた。
いつの間にか、彼を恋しく想うようになっていた。
「貴女は、人間の娘ではないのですよ」
澪浹の一言に、自分のこれまでの行いを、全て否定されたように思えた。
全てを間違い、全てを狂わせてしまった。
彼と出会ったばかりに。
初めて、自分のことを「愛おしい」と言ってくれた人だったのに。
自分のことを、神としてではなく、「灯華」として見て、愛してくれた人だったのに。
自分が今、此処にいる限り青葉は戦う。
自分が此処にいることが、青葉を傷つけている。苦しめている。
自分の存在そのものが、彼を殺そうとしている。
それだけは、耐えられない。
「わたし、行きます…」
軋む体に鞭打って、ふらつく足で危うげだが何とか立ち上がる。床を踏みしめる足の裏は、まるで千の針を踏んでいるような痛みが走るが、そんなことは気にしていられない。扉の前に立ち塞がる琉沱には目もくれず、扉の縁にもたれ掛るように手をかけた。
「何を言いだすのですか、灯華」
背中に向かって、澪浹の気配が近づく。それを無視して、扉の傍に立っていた火守を見上げると、強張る頬を無理矢理上げ、微笑んで見せた。
「火守さん。恵達を、よろしくお願いします」
「灯華殿…っ!?」
「やめなさい!」
怒鳴り、灯華の腕を掴もうと伸びた澪浹の手を、外へ倒れるようにして避けた。ざわり、ざわりと、胸の底が大きく波立つ。
「わたしがここにいるから、青葉は戦うことを止めないのでしょう?」
心臓が大きく高鳴り、大きく、激しく、血液が全身を駆け巡っていく。
本殿の階段を駆け下りて、振り返る。扉の前に立った澪浹の剣幕は、これまで見た彼のどんな表情よりも厳しかった。
「わたしさえ…『宇迦之御霊神』さえこの地からいなくなれば、これ以上神喰がこの土地を襲うことも、青葉が戦うこともないのでしょう!?」
「何を言いだすかと思えば…。下らないことを言うのはやめなさい!」
「初めての人なの!」
澪浹の言葉を跳ね返すように、喉が張り裂けんばかりに灯華は声を張り上げた。
「初めて触れることができた人だったの!わたしが神になりたいと望んだ時からずっと憧れだった、人のぬくもりも、優しい声も、全部あの人がくれたの!それをわたしのせいで失うくらいならわたし、わたしは…」
―神でなくなってもいい。
「灯華!」
澪浹の声を斬り捨てるように身を翻し、地面を蹴った。淀んだ空気が辺りに立ち込めているのがわかる。息が苦しい。
自分が今からしようとしていることが、愚かなことだということは分かっている。
今も全身を貫くようにして走る痛みが何よりの証拠だ。
けれどその痛みを知るのは自分だけでいい。
全ての罪はわたし一人で背負えばいい。
初めて出会ったとき、また会えるかと問うたのはわたしだ。
あの出会いを、一度きりのものにしなかったのはわたしだ。
最初に掟を破ったのはわたし。
彼は、わたしのわがままに巻き込んでしまっただけ。
「また、此処には来てくれる?」
そう緊張しながら訊ねたわたしに、微笑んで頷いてくれた青葉の顔が、今でも忘れられない。淡く、甘く、狂おしいほど優しい記憶が胸を締め付け、苦しさから涙が溢れた。滲む視界を必死で手の甲で拭って、参道を駆け抜ける。
「…っ」
溜まっていた疲労から足がもつれ、咄嗟に手で地面を着いた。
「走らなきゃ…っ」
昔はもっと、早く走れた。四肢で地を蹴って、風の如く軽やかに、しなやかに。
まだ、わたしがただの狐だった頃―。
「思い出して」
呟いた瞬間、両手両足がひとりでに地を力強く蹴った。視界がぐんと低くなり、地面がすぐ真下に見える。
身に幾重も纏っていた衣はいつの間にか消え、身軽になった体は一蹴りでぐんと前へ進んだ。うっすら感じていた、何かが焦げたような臭いは濃度を増し、本能的に臭気の強い方へと足を向ける。
やがて参道を抜け、京の都の北に位置する土地へと出た。その一帯を覆う空は墨を溢したように真っ黒で、新月の夜のようだった。
北の端とはいえ、多くの屋敷が立ち並んでいた筈だが、どこも炎と瓦礫で埋め尽くされ、まともに進むことすらままならない。この辺りに住んでいる人は皆避難を終えたのか、人の気配はない。
―青葉たった一人を除いては。
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