五ノ章 雨障み 三
地下牢を出てすぐ、待ち構えていた朱葉の側近から渡された服に着替え、陰陽術を使うために必要な羽織を掴むや、すぐに駆け出した。
不信や疑心の視線を屋敷のいたるところで浴びながら屋敷の門を潜ると、陰陽術で以て風を操りながら地面を蹴る。たちまち風を纏った青葉の身体は、軽々と地を離れ鳥の如く宙へと舞った。
京の都を一望できる高さまで飛び上がり、目前に広がった光景を見た途端、
まだ昼間であるにも関わらず、青空など一切見えない。真っ暗な暗雲が立ち込め、京内はまるで丑三つ時のような真夜中の様相を呈していた。しかも辺り一面、異様な臭気が蔓延っている。それはかつて任務で訪れた、悪鬼の棲家と化した野吉山を覆っていた穢れに満ちた空気と酷似している。否、規模で言えばそれ以上であった。都を包む
広い道路を楽しげに歩く者は一人もおらず、不安げに空を見上げる者で道は溢れ、荷物をまとめ馬や牛を引きどこかへ逃げようとしている者達も散見された。
自分達陰陽師が守るべき国が、根底から壊されてしまう。そんな恐怖が、冷や汗となって彼の背中を伝う。
「…守らないと」
無意識の内に零れた言葉が、自らの心の奥にしんと落ち、波打つように響き渡っていく。
―何を守る?
―何の為に?
自らに問うて、思い出した。
―そうだ。僕は。
その答えを、ずっと忘れていた。
その瞬間。細波一つ立たない水面のように、身体を走っていた痛みも、焦りも、不安も、恐れすらも消えた。
乱れていた呼吸が自然に整うと、静かに息を吸って、吐いた。
「…浅葱、菖蒲」
肩に掛けた羽織を振るい、慣れ親しんだ名前を呼ぶ。風もなくはためいた羽織の内側から浅葱色と菖蒲色の光が瞬き、青葉と背丈の同じ人型へと変化する。目の前に現れた二対の式神は、今にも泣きそうな、悲痛な表情で揃って主を見つめていた。
「青葉…」
浅葱が、震える声で何かを訴えるように主の名を呼ぶ。けれどそれ以上言葉を続けられず、口籠った。式神は主たる術師の力で構成される。それ故主の見聞きしたこと、記憶、思考、心の内まで手に取るように知ることが出来る。主がどんな経緯で此処にいるのか、これからどうしたいと思うのか、その全てを彼らは知っている。
「本当に行くのか?」
「行くよ」
恐る恐る訊ねられた言葉に青葉は躊躇なく返せば、今度は菖蒲が戸惑うように問う。
「…相手は、神喰なのよ?」
「わかってる」
「これじゃ、朱葉の思う壺なんだぞ?」
浅葱の言葉を聞き流しながら、青葉は北へと体を向けた。北の空は今いる場所よりもさらに暗く、禍々しい気が冷たい風と共に流れてきている。視線を下げ地上を見れば、これまで自分が何度も通った稲荷大社への道が、北に向かって真っ直ぐに伸びている。
「それでもいいよ」
自分に言い聞かせるように小さく呟くと、青葉は宙を蹴り、隼の如く飛んだ。
―陰陽師として、人と妖怪の間を取り持つこと
―京の都に住まう、人と妖怪の安寧を守ること
それが自分に課せられた使命であったはず。
「狐の君…」
地上の景色は次々と後ろへ流れ、稲荷大社を辿る。社との距離が縮まっていくにつれて、彼女との思い出が走馬灯のように胸中を駆け巡る。
真名さえ知らない愛しい女神。
京の都の豊穣を司る役目を担う神。
この地が彼女を失うことは、即ち『恵み』を失うことを意味する。
そうなれば、大地は生気を失い、作物は育たず、人も妖怪も飢えて死ぬ。
彼女を守らなければ、京の都は守れない。
それがいつからか忘れてしまっていた。
彼女に恋い焦がれたゆえに、彼女を愛したがゆえに。
京の都を守るために、彼女を守らなければならないはずが、彼女を想い守ることを先行してしまっていた。
―これは罰だ。
使命を忘れ、陰陽師としての役目を放棄しようとしていた自分への戒めだ。
―今度こそ。
己の使命を果たさなければならない。
大切なものを守るためなら、もう一切の躊躇いもない。
「青葉、見えたぞ!」
浅葱の声に顔を上げれば、連なる赤い鳥居が目に飛び込んできた。階段を覆う無数の鳥居を超え、境内の中、拝殿、本殿の頭上を飛び越えた更にその先に、それはいた。
夜の空よりも暗く、天まで届かんばかりに巨大な影。それは蠢きながら、着実に稲荷大社へ向け足を進めていた。
―覚悟は、できた。
自らの心に誓いを立て。
自らの想いに蓋をして。
神をも喰らう此の世で最も恐ろしい存在、神喰の前に、青葉はただ一人躍り出た。
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