五ノ章 雨障み 二
「無慈悲なもんだな。実の弟だっていうのに、地下牢行きだろ?」
「仕方ないさ。いくら身内でも罪人に変わりはない。当然の処置だろう。それに今回のことが安倍らに漏れたらどうなる?朱葉様の判断は正しいよ」
「彼は、どうなるんだ?」
「さあね。全てを決めるのはあの方だ。触らぬ神に祟りなし…。俺らが口を挟むことじゃないよ」
「―――…」
遠くに人の声が聞こえた気がして、青葉はゆるゆると目を開けた。同時に全身を這いずるような痛みが走り、僅かに顔を歪める。
狐の君を逃がした直後、朱葉らに捕えられた青葉は、すぐさま守門の屋敷の地下に隠されるように据えられた地下牢に繋がれた。下は何も敷かれていない黒く湿った地面。牢を出入りするための木製の扉以外は石で囲われた地下牢は、日の光など一切入らないため薄暗く湿り、冷たい空間だった。
両手は陰陽術を発動できぬよう鎖できつく縛られた上、封印の術式が組まれた呪符が巻かれ、両足には錘が付けられ自由を奪われていた。
「…っ」
軽く咳込むと口の端から一筋の血が流れ、首周りを赤黒く染めた。本来真っ白であるはずの彼の服は、首周りを中心に、流した血によって今や黒に近い色にまで変色していた。
元来地下牢は、罪人や捕えた妖怪を封じておくためのもの。ろくな設備などなく大変に粗末なのは当然で、勿論本来ならば、守門一族の嫡男が入るような所ではない。それももともと病弱で、布団に寝たきりでいることが多かった彼にとっては、その環境は毒でしかない。
加えて狐の君との交流で知らずに負った罰、長年身体に鞭打ち過酷な任務をこなしてきた体の負担は、纏まって彼の体を蝕んでいた。
日の光が当たらない牢の中では、今が朝なのか夜なのか、そもそも牢獄に捕らわれてから、何日経ったのかさえわからない。牢の端に備え付けられた蝋燭の明かりが、彼にとって唯一の光だった。火の光によってゆらりゆらりと照らし出される石の壁を、ただぼんやりと見つめ、青葉は狐の君を想う。
―彼女は今、どうしているのか。菖蒲は無事に彼女を逃がしてくれただろうか。
けれどどれだけ案じたところで、それを知る術はない。それどころか、彼女の身を危険に晒したのは自分自身であることを考えれば、そんな心配をする資格さえも自分にはないように感じられた。狐の君と出会ってから、今に至るまでの記憶が脳裏に鮮やかに映し出される。
彼女の笑顔も、握った手のぬくもりも、交わした言葉の内容すら、鮮明に思い出せるというのに。それら全ては得てはいけないものだった。知ってはいけないものだった。どれだけ彼女が愛おしくても、近付くべきではなかった。
森の中での、たった一度きりの出会いで終わっていればよかったのに。
そんな想いが、胸に波のように勢いよく打ち寄せては、そのままぐるぐると頭の中を繰り返し廻る。同時に心臓が刃物で突かれたような衝撃と痛みを発し、続けざまに荒縄で縛り上げられたような鈍痛が襲った。呼吸が乱れ、一瞬息の仕方すらも忘れそうになる。頭の中を掻き交ぜられるような気持ち悪さと眩暈が起き、再び大きく咳込んだ。あまりの痛みに意識が朦朧とし始める中、
「起きろ、青葉」
牢と外を繋ぐ木製の扉が開かれたかと思うと、突然朱葉が入ってきた。ずかずかと牢の土を踏みしめ、壁に寄り掛かり座していた青葉の前まで来ると、彼を見下ろすや否や口を開く。
「京内に悪鬼が出現した」
「…ど、」
どういうことです。と問おうとするも、喉はいつかに枯れ果て声にならず、掠れた息となって口から吐き出された。朱葉は構うことなく続ける。
「それも
その言い回しに、青葉は違和感と胸騒ぎを覚えた。普段の朱葉なら、こんな弱気な発言は決してしない。簡単に諦めることなどせず、何としても打開策を考えるはずだ。
( 一体何を考えている?何が言いたい?)
思わず背を石壁から離し、姉に向かって身を乗り出した。
「神喰は艮に出現した」
(
靄がかかったように
「このまま行けば、奴はあの女狐を喰らうだろうな?」
(狐の君!)
瞬間、青葉の体は反射的に跳ね起きた。ガチャン!と
「お前1人であの悪鬼を倒せ。もしそれができたなら、今回だけはお前の罪、水に流すよう処置してやる。強制はしない。この任務、受けるか否かはお前次第―」
「行きます」
間髪を入れることなく、青葉は渾身の力を込めて答えた。悩む余地も意味も、どこにもない。
朱葉を見上げる真っ直ぐな青葉の瞳が、彼女の瞳を捕えた。そこに一切の戸惑いも弱さもない。
「…いいだろう。すぐに着替えて討伐にあたれ」
そう言うと、朱葉は青葉からの視線を逸らしながら、腕に巻かれた呪符と鎖、両足に取り付けられた錘を外した。
石壁に手をつきながら、青葉は立ち上がる。僅かに立ち眩みが起き、身体はひどく重たく感じる。長らく錘を付けられていたために、動かす足は覚束ない。それでも無理矢理足を引き摺り、扉を潜り外へ出た。
*
「…本当に宜しいですか?朱葉様」
ふらつきながら牢を離れていく青葉の背中を見送りながら、朱葉の側近は彼女にそっと耳打ちした。
「このまま逃げられる可能性もあるのでは?」
「その心配はない」
腕を組んだまま、朱葉は即座に言い切った。その態度に、側近は訝しげに眉を潜める。
「それに…罪を犯したにしろ、彼は貴女の弟ですよ?あの状態で討伐に行ったとしても…」
「私の弟の前に、あいつは腐っても陰陽師だ」
「朱葉様…」
「奴は青葉に任せる。それより、壊された結界の組み直しと民の避難を急ぐぞ」
まだ何か言いたげな側近の言葉を断ち切り、朱葉もまた牢を跡にした。
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