五ノ章 雨障み 一
高天原には、潔斎場と呼ばれる施設がある。清浄を絶対とするこの世界において、穢れは僅かばかりも持ち込んではならないものであり、もしそれを持ち込む者がいた場合、この場で全て取り除くことになっている。
鳴霆によって潔斎場に連れて来られた灯華は、目の前に佇む建物から放たれる異様な雰囲気に思わず息を呑んだ。白木で造られた建物は周囲の空間と隔絶されているようであり、辺りを包む空気は重く厳粛で、何処よりも澄みきっているようだった。
建物に一歩一歩足を進める度に、外気に触れる肌がちりちりと痛む。これ以上近付くことを身体が本能的に拒み、足は動くのを止めてしまう。けれど鳴霆は彼女の腕を強く握ったまま、止まることを許さなかった。
「
建物の正面に据えられた扉の前まで来ると、鳴霆は大声で呼びかけた。ややあって、観音開きの扉は重々しい音を立てながらゆっくりと開き、中から純白の白髪を腰まで流した妙齢の女性が現れた。身に付けた物までも、一切の汚れなどなく真っ白で、潔癖な印象を受ける。
「お待ちしておりました、禊の準備は整っておりますわ。その方が灯華様で…」
事務的に語っていた伊豆能売の視線が、鳴霆から灯華に移った瞬間、彼女は細く鋭い目を見開き、言葉を噤んで細く整えられた眉を潜めた。心なしかその顔は青褪めているようでもあった。
「…急ぎましょう。灯華様、こちらへ」
それだけ言うと、伊豆能売はするりとまた扉の奥の闇へと消えた。鳴霆に促され、戸惑いながらも灯華はその扉に手をかけた。
「鳴霆様は、これ以上の立ち入りは無用にございます」
灯華と共に建物の中へ入ろうとしていた鳴霆に、伊豆能売から制止の声がかかる。鳴霆は何も言わずそれに従い、不安そうな表情を寄越す灯華に声をかけた。
「心配するな。伊豆能売殿に従っていれば問題はない」
しかしそう言う彼の表情は今まで見たことがないほどに固く、灯華は一層不安な気持ちを駆り立てられた。
扉の奥は長い廊下が一本通っているだけで、それ以外に部屋らしい所はない。真っ暗な廊下の両脇には一定の間隔で蝋燭が灯され、それは遥か奥まで続いていた。天井は
白木の板でできた廊下を音もなくするすると進む伊豆能売の背を、灯華は黙って追い歩く。廊下を包む空気は、建物の外で感じていたよりも一層重く冷たくなっていき、息苦しささえ感じる。
暫く歩くと、狭く暗かった廊下は唐突に終わり、広く真っ白に染められた空間が目前に現れた。
高い天井、四方の壁全てを注連縄と紙垂が覆い尽くした空間。その中央には、正方形にくり抜かれた大きな穴がある。そこはこれまで灯華が感じたことがない、異様な空気が立ち込めていた。この空間に長くいれば己を見失ってしまうような、消されてしまうのではないかという途方もない恐れすら感じ、灯華は両腕で己の体を抱き締めた。
伊豆能売は中央の穴の傍で足を止め、灯華が廊下を抜けたことを確認すると、恭しく頭を下げた。
「こちらが禊場になりますわ。此処で貴女の身に付いた穢れを、全て清めていただきます」
「こ、ここで…?」
「えぇ。そちらで全てのお召し物をお脱ぎになって、こちらへいらしてください」
一切の躊躇いもない威圧的な言葉に、灯華はびくりと身体を震わせたが、伊豆能売の無言の威圧感は、彼女から「否」の選択肢を奪い去る。
「…」
灯華は唇を引き結んだまま、両腕を解いて帯に手をかけた。しゅるり、と布が擦れる音が禊場に響き、自らの素肌を温もりのない、冷え切った外気に晒していく。服の上から感じていた空気は更に鋭さを増し、全身を無数の針が刺しているような痛みが襲う。
「その髪飾りも外してください」
「…はい」
伊豆能売に言われるまま、灯華は青葉から貰った髪飾りを外す。唯一残っていた彼との繋がりが断たれたように感じ、心の底を冷たい風がひやりと吹き抜ける。それと同時に、別れ際に見た青葉の姿が脳裏を過ぎる。
―彼は今、どこにいるのだろう。怪我は?不遇な目には合っていないだろうか?
けれどどれだけ案じたところで、答えなどどこにもない。それどころか、彼の身を危険に晒したのが自分自身であることを考えれば、心配する資格さえないようにも感じられた。体中に走る痛みに耐えるように唇を噛み締めながら、脱いだ服の上へ髪飾りをそっと置く。
言葉通り一糸も纏わぬ姿になると、伊豆能売の元へとゆっくりと歩き出した。伊豆能売は、目の前に来た灯華の身体を頭の天辺から爪の先まで見渡した。
「…汚らわしい」
堪り兼ねたように吐き出した一言に、灯華は思わず後ずさる。顔を上げた伊豆能売と目が合った。その目は青葉の姉、朱葉が灯華に向けたものと同じ光を宿していた。
「よくもまあ、ここまで罪を重ねましたわね。全身に、人間の気が流れているじゃありませんか。名のある神の名を継いだ者が、まさかこんな真似を堂々と…。先代様が知ったら、どれだけ失望することか!」
先程までの落ち着き払った雰囲気は露ぞ消え、烈火の如く怒りを露わにして罵倒する伊豆能売の言葉を、灯華はただ黙ったまま受け止める。
「罪を犯したからには、それ相応の罰を受けてもらいますわ。…さあ、この中へお入りなさい」
そう言い放ち、伊豆能売は傍らにぽっかりと空いた穴を指で示す。その穴には透き通った、何の濁り気もない水が滾々と湧き立っていた。透き通っているにもかかわらず、その穴は底なしのように真っ暗で、深ささえ知れない。その水の中へ入ることを、全神経が拒んでいる。
「何を躊躇しているのです?さあ、早くなさい」
冷徹な伊豆能売の言葉に促され、灯華は胸の前で両手を握り、爪先を水面へゆっくりと近付けた。
「―――っっ」
水面に足を着けた瞬間、爪先から電撃のような痛みが走り、反射的に足を引いた。全身から冷や汗が吹き出し、心臓は衝撃で狂ったように暴れ脈打ち、全速力で走った後のように呼吸が乱れる。
穴の縁に蹲り、痛みが収まるのを待っていた灯華が助けを乞うように振り向くと、伊豆能売が氷のような瞳で以て灯華を捕えていた。
「その痛みが消え去るまで、この水から上がることは許しません」
どれだけ抵抗しても無駄なのだと、伊豆能売の目が語っている。灯華は再び視線を穴へと戻すと、今一度立ち上がり、足を水面へと近付けた。
「ぅ…っ」
水の冷たさを感じるよりも早く、鋭い痛みが足先から全身を駆け巡る。それでも今度は、その痛みから逃れることなく、足を水面下へと沈めていく。
水の中に、数えきれない量の刃物が漂っていると錯覚するほどだった。爪先、足首、膝、腿、腰、腹、胸…徐々に沈んでいく身体に、まるで刃物を突き立てられたような感覚が絶え間なく襲う。あまりの痛みに、知らぬ間に涙が零れ視界が歪む。痛覚が麻痺するほどの痛みの波に、意識が遠のいていく。けれどその痛みは、彼女から気を失わせる余地も与えない。
外部だけではない。肺の中には針の塊が落ちたように細かく絶え間ない痛みが居座り、空気を吸う度にその度合いは増していく。最早水が冷たいのか熱いのかさえ、感覚が狂わされてわからない。水から出たいと本能が訴えるが、腕も足も根元からもぎ取られたように動かない。
やがて立つこともままならず、水の中へ倒れこんだ。目に水が入り、眼球までも釘を刺されたような痛みを発す。真っ暗な底なしの沼にでも落ちたように身体の動きは鈍り、水底へと沈んでいく。
「わかりますか?」
薄れていく意識の中、激しく飛沫を上げる水音に紛れて、微かに伊豆能売の声が聞こえる。
「その痛みこそが、貴女が犯した罪によって負った穢れですわ」
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