四ノ章 天つ罪 四

 夏を目前に控えた夜の空気は、どこか篭ったような湿気を帯びていて、顔を撫でていく風は少し生暖かい。

 月のない空を、菖蒲は星明かりを頼りに飛んでいく。彼女の右手は灯華の左手をしっかりと握り、灯華はそんな彼女に引っ張られるようにして中空を飛ぶ。菖蒲は横目に豊穣神の様子を伺ったが、俯いた姿からはその表情を確認することはできなかった。ただ啜り泣く声だけは、青葉と別れてから途切れることなく続いていた。

「…」

 菖蒲は無言のまま視線を前へ戻し、ひたすら京の都から離れることだけに集中した。青葉が今どんな状況にあるのか、式神である彼女には大体の察しがついていた。けれどそれは考えうる限り最悪の状況で、とても気休めにと灯華に伝えられるものではない。

 言い知れぬ胸騒ぎを覚えながら急ぐ菖蒲の後ろで、不意に灯華が顔を上げた。そしてその場に押し留まるように、菖蒲の手を引き静止を促した。

「狐の君?」

 何事かと訊ねるよりも早く、頭上に雷鳴が轟き、空が一瞬真昼のように照らされた。

「―――っ」

 そのあまりの眩さに、菖蒲は思わず目をつむる。けれど焼けつくような閃光は瞼の裏にまで刺さり、目が眩む。

「灯華、ようやく見付けたぞ…!」

 暗闇の中に突如として現れた男性の声に、菖蒲は慌てて硬くつむっていた目を開く。すると目の前には、腰まで届くような長い髪を1つに縛った男性が、空中に立っていた。

鳴霆あずまさん…」

呆然とする菖蒲の隣で、灯華が先に声を上げた。

 武神にして、雷を司る神、武甕雷神たけみかづちのかみ。名を鳴霆という青年は、灯華を古くから知る神であり、幼い彼女を育てた数少ない神の一柱ひとりでもあった。

 彼の金の髪の下から覗く鳴霆の黄緑の瞳は今、焦りと動揺の色で掻き交ぜられている。未だかつて、鳴霆のこのような表情を灯華は見たことがない。鳴霆は戸惑う2人にゆっくりと近付くと、灯華の空いている右手を取った。そしてまじまじと彼女の顔を見るや、眉間に刻まれる皺がみるみる険しくなっていく。

「お前の姿がどこにもないと、稲荷大社から連絡があって探していたが…。なんだ、その姿は?」

 低く唸るような口調で問う鳴霆に対し、灯華は口を噤んだまま一言も発しない。その態度が彼の中で核心に触れたのか、目を見開いて吠える。

「人と交流を持ったんだな?あれほどするなと言っていたというのに!」

灯華はゆるゆると頷くのを見ると、鳴霆は大きく溜息を吐いた。

「…わかった。とにかく今は潔斎場へ急ぐぞ。自覚はないだろうが、その身は人から受けた穢れでまみれている」

「穢れ…?」

「そうだ。人と接すれば、その分我々は人から穢れを負う。加えてお前は人の気を多く受け過ぎた。お前の中で流れる時間は、既に我々とは違う時間を進んでしまっている」

 そう言われているのを傍で聞いていた菖蒲は、改めて灯華を見た。八百万神が人よりも遥かに永い時を生きることが出来るのは、そもそも人と神の生きている時間が異なるからだ。だから人に比べて、神の成長速度は極端に遅い。

(けれど、狐の君は?)

 菖蒲はこれまでの記憶を辿る。青葉と出会い、今に至るまでのことを。そうして記憶の中にいた彼女の姿は、青葉と同じように成長していた。まるで普通の人間の娘のように。

「灯華、お前は人と深く関わり過ぎた。このままだと、神としての力を失いかねん」

人の穢れを祓うために、もう一度神としての時間を取り戻すために、その身を清めなければならない。鳴霆が彼女を潔斎場へと急がせるのはそのためだ。

「ならばわたしの務めはここまでです。狐の君」

 そう言って、菖蒲は灯華の手を離した。青葉から狐の君を安全な所へ逃がすように言われ、ここで灯華を保護する者が現れた以上、ここに菖蒲がいる必要はない。そして菖蒲自身、主たる青葉の力が及んでいない状況下で、これ以上長く身を保つことは難しかった。

「菖蒲ちゃん…」

 菖蒲を見つめる灯華の口からは、感謝も謝罪の言葉も出てはこない。何度も口を開いては閉じることを繰り返し、やがては噤んでしまう。ただ彼女の瞳は、悲痛な感情を痛々しいほど宿していた。

「お前は、灯華と関わった人の子の式神か?」

静かに身を後退させた菖蒲に向けて、鳴霆は声を掛けた。

「はい。我が主、守門青葉の命により、狐の…灯華様を、守門一族から逃がすように言われました」

「そうか…」

鳴霆はそれ以上何も問おうとはせず、再び灯華へと向き直る。

「急ぐぞ、悠長にしている暇はない」

「…はい」

 覚束ない様子で灯華は一度頷くと、それを合図に二柱の姿は瞬く間に夜闇へと掻き消えた。それを見届け、菖蒲はその場に浮かんだまま目を閉じる。途端、彼女の身体は足の先から透けていき、やがてその姿は霧散した。


 *


 手の触れられない、声も届かないその距離で、互いを想い合い、祈りながら生きる。あやしきこの世の中で、それは揺らぐことのない絶対的な掟のはずだった。

ならばそれを守れなかった者は?

手を触れ、声を届かせた者達は?

天つ罪を犯した者は、どうすればよいのだろうか?

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