三ノ章 在渡る 五
突如舞い込んだ見合話を蹴り、火守から人探しを依頼されたあの日から、青葉は一度も稲荷大社に足を運ぶことが出来ないでいた。
(彼女は元気でいるだろうか)
稲荷大社へ向かう道すがら、久しく見ていない彼女の姿を思い浮かべた。会いたい。という気持ちは勿論あったが、これから自分が向かうのはあくまで任務のためであり、それが終わればまたすぐに火守の人探しをしなければならない。
このままお互い会う機会が徐々に減っていき、いずれは二度と会うこともなくなるのだろうか。そんな思考が頭をよぎり、ぎゅっと胃の腑が縮む思いがする。火守のように、一人の人間のことをずっと想い続けることが出来たなら、この縁は切れることなく保ち続けることが出来るのだろうか。けれど彼のように、一途に想い続けることなど自分に果たして出来るのだろうか。様々な想いが交錯し、青葉の頭と心を掻き交ぜ揺さぶる。
「この道を通るのも久しぶりだなあ。まあ会うのは狐の君じゃなくて、宮司の方だけど。大祓の手伝いなんて、また面倒臭いことを頼まれたよな。…宮司に会うのは、青葉は初めてだっけ?」
彼の気持ちを知ってか知らずか、浅葱がのんびりと訊いてくる。
「ううん。一度だけ父上に連れられて挨拶に行ったときに、会ったことはあるよ。でも直接話したわけじゃないし、会ったと言っても遠目に見ていただけだから、ちゃんと会って話すのは今回が初めてかな」
そうして会話を続けるうち、見慣れた鳥居が目の前に現れる。一の鳥居を潜りすぐに現れる石階段を登って境内に足を踏み入れると、そこには既に巫女が一人立っており、青葉が階段を登りきったところですぐに気が付き頭を下げた。青葉も応えるように頭を下げる。
「守門青葉さんですね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
案内されたのは拝殿横に設けられた建物で、広さは約十畳ほど。中はほとんど何もないと言っていいほど殺風景だが、その空間に漂う空気はぴんと張り詰め、青葉は無意識に姿勢を正した。その空間にいるのは青葉だけで、此処まで案内してくれた巫女は何処かへ行ってしまった。大祓の儀が近いということもあり、多忙なのだろう。と一人納得していると、部屋の右奥にある観音開きになった扉が、ゆっくりと開かれた。
「お待たせしてしまってすみません」
そう言いながら現れたのは、長い白髪を持った老齢の女性。この稲荷大社の女性宮司である瑞穂恵だ。年はすでに六十歳を優に越えているはずなのだが、老いを全く感じさせない気品と、穏やかながらも泰然とした威厳がある。恵はゆっくりとした足取りで青葉の前まで歩いてくると、その場に無駄のない動作で座り込む。
「陰陽師の守門青葉です。本日は…」
挨拶と共に頭を下げ、再び顔を上げ彼女の顔を見た途端、そこから視線が離せなくなった。言葉を失い沈黙してしまった青葉に代わり、恵が口を開く。
「どうかされましたか?」
その言葉にハッと我に返った青葉は、「すみません」と慌てて謝った。
『くれぐれも守門の顔に泥を塗るようなことはするな』という昨夜の姉からの忠告が頭をよぎる。だがそれよりも、気になってしまった疑問が口をついて滑り出た。
「失礼ですが、貴女のその目は…」
青葉が見つめていたのは、彼女の目だった。しかし彼女がその視線に気が付くことはない。何故なら彼女の瞳は固く閉じられたままで、光すら届いていなかったのだから。更に目の周りは、他の部位の肌とは明らかに異なった色をしており、焼けた何かで斬り付けられたような痕に見えた。恵はその傷と開かない瞳を細い指先でそっと撫で、小さく微笑んだ。
「昔、妖怪に襲われたことがありましてね。その時に負ったものなんですよ」
「以前お会いした時には全く気が付きませんでした。その、あまりに何でもないように振る舞われていらしたので」
それを聞いて、恵はまた笑う。
「もう五十年も前の事ですから。今はもう慣れてしまいました。不思議なものです。この目が使えなくても、皆と同じように生活はできるんですよ。目が見えていた時と変わらないほどに」
その言葉を聞いた瞬間、暗がりに突然道しるべの明かりを灯されたように、青葉の脳裏に閃くものがあった。逸る気持ちを抑えながらも、体は自然と前のめりになる。
「もしかしてその傷、悪鬼に負わされたものなのではないですか?」
思わず早口になってしまったが、彼女はきちんと聞いていて、「えぇ」と頷いた。その返答に、青葉の心臓が更に大きく脈打った。目の前に提示された可能性が、大きく膨らむ。
「貴女が悪鬼の攻撃を受けたのは、妖狐を助けるためだったのではないですか?」
「まあ」
もし彼女の目が失われずにあったのなら、大きく見開いて自分を見ただろう。
「何故それを?このことを知っているのは、社の者でもごく一部の者にしか…」
彼女の言葉は、青葉の質問に対して肯定したことを示していた。青葉は反射的に右手の人差し指と中指を立てて、口元へと据えた。そして弾みそうになる口調を必死で落ち着かせ、あくまで冷静さを保って告げる。
「すみません。束の間の御無礼をお許しください」
「え?」
彼女は青葉が何かしようとしていることは気配で察したらしいが、その行動までは知ることはできない。本当はきちんと説明した方が良いのだろうが、こちらにはもう時間がなかった。
早く。
一刻も早く。
指先に神経を集中させ、口元に据えていた指をとん、と軽く床に付けた。その瞬間、青葉と恵の間につむじ風が発生し、二人の髪を激しく靡かせた。しかし恵はあくまで平静でおり、暴れる髪を抑えたまま、風の起こる中心へと顔を向けている。その風に乗って現れたのは、妖狐の火守。
突然召喚されたことに驚き、また戸惑ったように周囲を見回している。そしてしゃがんだままの青葉と目が合うと、どうしたのだと言わんばかりに不安そうな目を向けてきた。対する青葉は彼を見上げ、口元を綻ばせた。
「ようやく見つけましたよ。火守さん」
青葉は視線をゆっくりと、火守から恵に移す。その動きに釣られるようにして、火守も視線を動かし、恵を見るや動きを止め、息を呑んだ。僅かな間の後、吐き出される息と共に火守の掠れた声がこぼれる。
「…桃の、香り」
火守の両目から一滴、二滴とこぼれ始めた涙は、いつしか止めどなく溢れ出す。
「火守さん。貴方がずっと探していたお方は、恵さんのことだったんですね」
子供のように泣きじゃくる彼の横で青葉が静かに告げれば、妖狐は何度も何度も頷いた。それを見て、青葉は恵の方へ向き直る。彼女は相変わらず床に落ち着き払った様子で座り、新たに現れた人物へ顔を向けている。二人の会話を聞いて、すでにそれが誰なのか理解したらしい。
「そこにいるのは、あの時の妖狐なのですね。…無事に、生きていてくれたのね」
そうしておもむろに立ち上がると、迷いなく火守の前まで歩いていき、未だに顔を手で覆って泣く彼の手を包み込むように、自らの手を伸ばし重ねた。
「良かった…っ」
噛みしめるように紡がれた言葉は、安堵と彼を慈しむ心で溢れていた。その空間には暫し火守の啜り泣く音だけが響き、やがて火守は顔から手を離すと、目元に残る涙を拭った。目元は泣き腫らして赤くなっていたが、その表情は全ての憑き物を落としたかのように清々しい。そしてそっと恵の手を取ると、深く深く頭を下げた。
「あの時、俺を助けてくれてありがとう。俺を庇ったせいで、貴女の目を犠牲にしてしまったんだな…」
青葉が説明をせずとも、火守は彼女の姿を見、事の次第を理解したらしい。次いで「すまない」と繰り返し、青葉にも話していた決意を口にした。
「自分の残りの妖力と引き換えに、貴女の命を延ばさせてほしい」と。
けれど恵は微笑んだまま、首を横に振った。
「もう過ぎたことです。私のこの目で貴方を救うことができたのだから、今更悔いもありませんよ。それに、貴方の妖力を犠牲にしてまで、永らえるつもりもないのです」
青葉は薄々予想していた展開だったが、それを聞いた火守本人には予想外のことであったらしい。呆然と立ち尽くし、またしても泣きそうな顔になる。
短く儚い命を余儀なくされている人と、遥かに永い時間を生きる妖怪とでは、時間に対する感覚は勿論、己の命の考え方も大きく異なる。その中でいくら互いの考えを主張し合ったところで、両者の意思は平行線を辿り、いつまでも交わることはない。人と妖怪の双方に関わる中で、そんな光景は何度も目にし、その度に青葉は自らに問い、考えてきた。
陰陽師である自分ができることは何か?
人と妖怪の間を、陰陽道の力で取り持つこと。
それが自分の力でできる唯一。そして、今回も。
「僕から一つ、提案があります」
沈黙した火守と恵の間に投げられた一言に、二人の顔が青葉へと向けられた。二人の視線を受けながら、青葉は脇に置いておいた包みに手を伸ばし、結びを解く。中から現れたのは、八つの紫の玉を連ねた首飾りだった。
「…青葉殿、それは?」
青葉の手にある首飾りを暫し眺め、それからおずおずと火守が訊ねる。長年抱き続けていた願いが叶わないとわかり表情は沈んでいたが、それでも最後の望みを込めるような強い視線が青葉を貫く。
「これは、掛けた者の魂と妖力を現世に留める首飾りです。これを付けることで、今も多くの妖力を持っている火守さんは、この世に留まることができます。火守さんが望めば、妖力が尽きるまで、ずっと」
書庫で過去の任務の記録を調べるため、様々な資料を読んでいる時。青葉は他にも、陰陽術の書物を合わせて読んでいた。そこで知り得たのが、この道具の存在だった。青葉の手の中で静謐な光を宿す紫水晶の珠を見つめる火守の瞳は、それでも明るくはならなかった。
「俺のために、こんなものまで用意してくれていたのか…。ありがとう、青葉殿。だが俺は、もうこれ以上永く生きるつもりはない。例えこれを身に付けて、この先も生き永らえたとして、何になる?」
あくまで火守の目的は、残された己の寿命を、老いていく恵のために使うことだった。いくらこの先何十年、何百年と生きていくことになろうとも、その世界に恵はいない。生き続けたとしても、そこに火守の生きる意味は存在し続けることはない。そんな状況になると分かっていて、火守が望んで首飾りを受け取るとは、青葉も思ってはいなかった。だからこそ青葉は粛々と、短く言葉を添える。
「永らえて、守護霊になることはできます。勿論、恵さんが承知すればの話ですけど」
「守護霊?」
火守は意表を突かれたという表情で以て聞き返せば、「はい」と彼は頷いた。
「確かにもう何十年もしてしまえば、恵さんも…すみません、此の世にはいないでしょう。人の命は短いですから。けれど、恵さんの血を継ぐお子さんや、お孫さん、更にその先の子孫達が、生まれて、生きていきます。恵さんはいなくなってしまいますけど、恵さんがいたから紡がれた命がこれからもずっと、『瑞穂家』という形で生き続けます。それを貴方は守護霊になることで、永らえる命で見守り続けることができる。恵さん自身ではありませんが、恵さんの残したものを守り続けることはできるんです」
青葉は一息にそう言って、火守の様子を窺った。
「恵殿の一族を…」
妖狐は小さく呟いて、瞬きも忘れて首飾りを見据えた。やがて唇を引き結び顔を上げた表情は、先程とは打って変わり、初めて会った時と同じ、揺らぐことがない意志の宿ったものとなる。
「恵殿のために生きて、死ねたらいいと思っていた。それが恵殿に救われた命の使い方だと、俺にできる唯一の恩の返し方だと信じていたから。でももし、青葉殿の言うように、恵殿と、彼女の子孫達を守ることができるのなら、俺はそのために、最期までこの命を使いたい。…だめだろうか?」
そう言いながら恵を見つめる火守の視線に気が付いたのか、彼女は真っ向からその瞳を受け止めた。
「…良いのですか?私には、貴方にそこまでしてもらうほどの理由などないのに」
「貴女はあの時、俺をその目を犠牲にしてまで助けてくれた。理由など、それで十分だ」
「そう…」
恵は暫し思案したように俯くも、やがて口元に朗らかな笑みをたたえ、もう一度彼の手を握り直した。
「ならば老い逝く私の代わりに、我が一族を守ってもらえますか?」
その言葉に、火守の口元を綻ばせ目を輝かせながら、一も二もなく大きく頷いた。それを見て、青葉は首飾りを恵へと手渡す。
「これを、火守さんに掛けてあげてください」
恵は頷いて恭しく首飾りを手に取り、頭を下げた火守にそっと掛ければ、一つ一つの珠が明るく眩い紫の光で瞬いた。
「これ以上の幸せはない」
光に包まれた火守の頬にはまた涙が伝い、紫水晶に弾いては眩く光る。そうして微笑んだ姿は、青葉が今までに見てきた彼の表情の中で、最も優しく、満ち足りたものだった。
その瞬間、火守は青葉の立会いの下、瑞穂恵の正式な守護霊として成ることが定められた。
大祓の祭祀の打ち合わせを終えた青葉は、一の鳥居の前で火守と向かい合った。
「ありがとう。青葉殿にはなんとお礼をしたらいいか…」
「気にしなくていいですよ。これが僕の仕事ですし」
「もし俺に体が2つあれば、青葉殿の守護霊にもなりたいほどなのに…」
「いえあの、本当にいいですからね」
首に真新しい首飾りを付けた火守の表情はとても晴れ晴れとしていて、それを見ている青葉まで自然と頬が緩む。
「だがそれでは俺の気が済まない。俺ができることであれば、喜んで協力する」
それでも食い下がる火守に、「それなら」と青葉は遠慮がちに告げた。
「実は僕、この神社の祭神とよくお会いしているんです」
「「青葉っ!?」」
唐突な爆弾発言に、火守ではなく浅葱と菖蒲が先に絶叫した。
「何言いだすかと思えば!なんでそんなことサラッと言っちゃうんだよ!火守はここの宮司の守護霊になったんだぞ!もう忘れちゃったのか!?」
「だって今隠していたって、火守さんにはいずれは分かってしまうと思ったから。協力してもらえるのなら、先に話した方がややこしくないかなって」
「青葉ったら・・・それはさすがに安直過ぎよ!」
呆れ果てる式神を余所に、主はひょいと火守の方へと向き直り、「どうでしょう?」と言うように首を傾げた。火守は目の前で叱責される青葉を暫し見つめていたが、やがて「承知した」と頷いた。
「例え恵殿に問い詰められても、それだけは絶対に言わない。これで青葉殿の役に立てるのなら」
「ありがとうございます」
笑いあう2人に式神は揃って溜息をついたが、それ以上は何も言わなかった。
「…僕、やっぱり守門は継げないと思う」
稲荷大社を跡にして家路を辿る道すがら、青葉は俯きながら静かに呟いた。両肩に乗る浅葱と菖蒲は無言のまま、彼の言葉に耳を傾ける。
「前に見合話を持ち出された時は咄嗟に自分の体のことで言い訳したけど、今回のことで改めて感じたんだ」
そう言いながら思い出すのは、相応しい相応しくないで朱葉と言い合いをした時のこと。自分とは主義も思考も、全てが正反対な朱葉。ただ一族の為に、人のために動く守門一族。過去の記録を調べていても、見つかった内容はそのどれもが一族の利権が関わっていた。人を助ければ、それだけ一族の名声も上がる。そうして多くの人々の支持を得て、今や京の都を代表する陰陽師一族に成長した守門。
「僕は、守門一族の陰陽師にはなりたくない」
陰陽師は、己の一族のために在るのではない。
妖怪と、人間の間を取り持つために在るのだと。
「いいじゃん。青葉は青葉の生きたいように生きればいいし、青葉がなりたい陰陽師になればいい」
「例え周りが反対しても気にしないわ。わたし達が青葉の式神で在り続ける限り、ずっとあなたの味方よ」
浅葱も菖蒲も胸を張りつつそう言えば、青葉は二人の姿を眺め微笑んだ。
鳥籠に閉じ込められたその鳥は、外の世界に憧れて力強く翼をはためかせる。
鳥籠から出ることを望んだ鳥は、足掻きもがいて空を目指す。
いつか外の世界へ飛び立てる日が来ると信じて。
それが大きな代償を伴うものであるとも知らず。
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