三ノ章 在渡る 三

 辺りに立ち込める雨の匂い。激しく打ち付ける雨はまるで氷の礫のように冷たく感じられた。体はとうに冷え切り、四肢の感覚は失われ、動くことすらままならない。目を開ける気力もなく、助けを求める声さえも上げられない。

そこに、仄かに香る桃の香り。

 激しく打ち付ける雨の冷たさから庇うようなぬくもりが、動かぬ身体を包み込んだ。

誰だ?

 声にならない声を上げ、開かない目の代わりに、その香りを頼りに声の主を探す。

「大丈夫よ。もう大丈夫」

 微かに鼻孔をついたのは、血のにおい。それは自分とは違う種族―人間の持つ独特の血のにおい。自分を庇うように抱きしめた人の服越しに伝わる体温は、体が溶けてしまうのではないかと思うほどに温かく感じられた。その温かさに身を預け、とうとう意識を手放した。


 再び目を覚ました時、その身は山の麓の野原にあった。全身を電撃のように走る痛みに耐えつつ、体を起こし辺りを見回すと、雨上がりの空が自分を見下ろし、雨に洗われた葉が体を擦った。改めて自分の体を見てみると、腕に足に、体中に薬草と共に包帯が丁寧に巻かれている。

(あの香りの主が、助けてくれたのか…)

 周囲を見渡したが、誰の姿もない。仲間も、自分を助けてくれた人間も。その人の面影を思い出そうと必死に記憶を手繰り寄せるが、朦朧とした意識の中にいたために、判然とした記憶がない。

 濃い霧がかかったような記憶の中で見つけたのは、僅かにした血のにおいと、芳しい桃の香りだけだった。



 多くが長寿である妖怪の中には、自らの行いによって多くの穢れを背負う者が出てくる。やがてその妖怪自身の命が絶えても、その体に憑りついた穢れそのものが自我を持ち、結果生き続けることがある。そんな妖怪の成れの果てを、人は悪鬼と呼んだ。悪鬼に意思はなく、本能の赴くまま、目の前の物を破壊し、他者の魂を貪り喰らう。その姿はもう「鬼」ではなく、「災厄」そのものであると言ってもいい。陰陽師が行う妖怪退治の大半が、この悪鬼退治だ。特に卓越した陰陽道の才に長けた青葉は、この任務を任されることが多かった。今回の任務もその例に漏れない。

 朝早く屋敷を出発した青葉が何気なく空を見上げれば、低く薄暗い雲が京の都を覆い尽くすように垂れ込めている。本能的に太陽の光を嫌い、夜闇を好む悪鬼にとっては動きやすい日でもある。

「久々の帰郷だ」

 青葉の後ろについて歩く火守が感慨深げに呟いた。前を向いたまま、青葉は後方へと言葉を投げる。

「もう何十年も帰っていなかったのに、どうしてまた今になって帰って来ようと思ったんですか?」

「…多分、これが最後の機会なんだ」

「最後?」

 力を込めて告げられたその言葉が引っ掛かり、青葉は思わず後方へと振り向いた。

「人の一生は短いからな」

 その言葉に、青葉は不意に心臓を掴まれたような衝撃を受けた。そうだ。人と妖怪では、生きる年数が一桁は違う。人と神で比べても同じことだ。人の命は、あまりにも弱く儚い。

「あの人がまだ生きていたとしても、人にとってはもう相当な歳なんだろう?あれだけ全国を探しても見つけられなかったのなら、もう一度この地から探し直そうと思ってな。どうせ俺も、もう少しの命なんだ」

 特に気負いするでもなく、妖狐は事も何気に言ってのける。

「でも貴方はまだ、かなりの妖力を残しているはずでは?」

「妖狐は歳を負うごとに妖力が増すんだ。ただ、それだけで寿命もまた延びるわけじゃない。ならばせめてこの残った寿命と妖力を、あの人に分けられたらと思ってな」

「確かにそうすりゃ、少しは人の寿命も延ばすことができるもんな」

 傍で話を聞いていた浅葱が、合点がいったというように相槌を打てば、火守も「そうだ」と頷いた。ただ、その会話を聞く青葉の表情は硬いままだ。

「本当にそんな形で恩を返して、それでいいんですか?」

「それ以外に、何ができるかわからないんだ。あの人のためならば何でもしたいが、今の俺には、それぐらいしかできることが思い浮かばない」

「けど、その人から助けてもらった命なんでしょう?本当にそんな風に扱ってもいいんですか?」

「青葉」

 いつしか感情的になって話し出した青葉を、浅葱は真顔で制す。

「これは火守の意思で、お前のものじゃない。まして俺らが口を出すことでもねーんだよ」

「…」

 口を噤み黙り込んだ青葉に、火守は「すまない」と付け足した。

「俺はもう一度あの人に会って、あの人のために何かできるなら、どんなことだろうと構わないんだ。たとえ、この命を削る方法でも」

 五十年間、胸に秘めてきた彼の決意は、青葉の説得で易々と覆されるようなものではない。それを裏付けるかのように、語る口調は穏やかながらも、揺るがない強さを持っていた。


 太陽が頂点に達する少し前、青葉達は目的地である野吉山に辿り着いた。周囲の山のような紅葉の鮮やかな色彩はなく、その山だけどの木も枯れ果て、まるで生気が失われているようにも見える。生き物の気配も感じられず、鳥の囀りさえも聞こえてはこない。悪鬼の巣食う土地は総じて、生命が根こそぎ奪われる。

「野吉山と言えば、霊山として信仰されている山ですよね」

 山の裾野へ立った青葉が火守に向けて問えば、彼は首肯で返す。

「あぁ、よく修行者が訪れていたよ。勿論悪鬼が来てからは、誰も近寄ろうとはしなくなったが」

「悪鬼は人だろうが妖怪だろうがあたりかまわず喰うからな。…ってか、なんでこんなんになるまで陰陽師の奴らは放っておいたんだ?」

「周りに一切民家がないからだよ。あくまで陰陽師は人間優先なんだ」

 浅葱の疑問に、青葉は答えながら表情を曇らせる。

「えぇ。そして長年悪鬼の好きにさせてしまったせいで、もう此処は悪鬼の巣窟よ」

 高く聳え立つ山を目の前にした3人の会話に、突然女性の声が加わった。青葉のもう一体の式神、菖蒲である。主に情報収集役として動く彼女は、一族の内部事情は大体把握している。そして今回の任務では先に野吉山へ放たれ、山中の様子を探りに出ていたのだ。

「おかえり菖蒲。どうだった?」

 青葉の問いに、彼女は主の左肩に座りながら事務的に報告を始める。

「確かに噂通り、これまでの悪鬼退治の比じゃないわ。数が本当に多いの。どこに多い少ないっていうのもあまりなくて、山全体にまんべんなくという感じね」

「てことは入った所から片っ端に殲滅ってことか。よーっしゃ、燃えてきた」

 腕を大きく振り回し張り切る浅葱に、「ちゃんと青葉の指示で動くのよ」と菖蒲がすかさず釘を刺す。

「本当に、三人で大丈夫なのか?」

 火守が指したのは、青葉、浅葱、菖蒲のことだ。任務を行うのはあくまで青葉達であり、その頭数に火守は入ってはいない。

「だいじょーぶだいじょーぶ。なんつったって青葉だからな!」

 悪鬼の脅威を思い出したのか、火守はやや顔を引きつらせている傍ら、浅葱は恐ろしく軽い調子で自信満々に宣言する。

「じゃあ、そろそろ行こう。火守さんは僕のすぐ後ろをついて来てください」

 そう言って手にしていた真っ白な羽織を肩に掛け直した青葉は、真っ暗な山の中へと足を踏み入れた。


 山の中に一歩踏み入れただけで、其処がもう異世界と化していることが知れた。山一帯を覆う空気が全く別物なのである。しかしそれは決して、「霊山」と呼ばれる山に相応しい清らかで静謐なものではなく、重く淀んだ、穢れを凝縮したような空気だ。同時にそれが、辺りに悪鬼が潜んでいることも示していた。その地に慎重に踏み入れた青葉は、次の瞬間弾かれたように走り出す。

「青葉殿!?」

「後ろからついて来て」と言った矢先に急に離れた背中を、火守は慌てて追う。隣に浅葱が滑るようにして飛び、並走する。

「心配する必要はねーよ!あれが青葉のやり方なんだ!」

「どういうことだ!?」

「青葉は陰陽道の力を規格外に持ってるけど、それを持続させる体力はないんだ。だからちまちま相手の出方を窺うより、こっちから見つけて引っ張り出した方が手っ取り早いんだ。ついでに仕事も早く片付くしな!」

 確かに視界の遮りが多い山の中で、神経を尖らせ集中力を保ったまま一体一体現れるのを待つよりも、こちらから攻めてあぶり出し、倒しにかかった方がより迅速に倒すことが出来る。

 成程、と頷きながら火守が青葉のすぐ後ろに追いつくのと、周囲に無数の気配が出現したのはほぼ同時だった。次いで肉が腐ったような異様な腐臭が鼻腔を突く。

「青葉。前方巽の方角手前の茂みに2体、午の奥の木の背後に1体、枝の上に3体、坤の木の陰に手前から4、5、5体、亥手前から2本目の大樹の上に6体、それに丑にも4体」

 青葉の傍についていた菖蒲が言うのに合わせて、とっさに周囲を見回した火守は、それが近くに潜んでいた悪鬼の方向と数を示しているものだと理解した。

「いつの間に…」

「菖蒲はこういう探知が得意なんだ。大人数を相手にするときは、あいつの力があれば十分」

 緊迫している状況であるはずなのに、浅葱は相変わらず火守の横で飄々としている。

「浅葱殿は行かなくてもいいのか?」

「あれぐらいなら菖蒲がいれば十分だ。俺は火守を守れって言われてる」

 それでもまだ何か言いたげな火守を、浅葱は「まあ黙って見てなって」と封殺する。

 菖蒲の指示を聞くや否や、青葉は羽織を手にした腕を軽く振るった。ただそれだけなのに、羽織はまるで命を吹き込まれたように大きく宙を泳ぐ。その瞬間、羽織の内側から烈風が発生した。風は一気に周囲へと拡散され、辺りの木々を根こそぎ打ち倒さんばかりに吹き荒れる。その空間にだけ野分が出現したようでもあった。唸るような低い風の音や木の鈍く軋む音に混じって、獣の叫ぶような、喚くような声が響く。暴風の中心に立つ青葉の目は、しんと静まり返った水面のように落ち着いたものであり、そこに一切の隙もない。齢十五歳という年若い陰陽師でありながら、その立ち姿は堂に入っている。

 そしていつの間にか、辺りから悪鬼の気配が消えていた。あの一瞬の風で一掃したのだ。まさに瞬殺と言っていい。しかし息つく暇もなく、新たな気配が生まれてくる。先程の気配よりももっと濃く、その量が格段に多いことを示していた。

「艮に10、未の奥の茂みに5。気を付けて、真上からも7!」

 菖蒲の正確な索敵に、青葉は一言も発さないまま頭上を見遣る。大きな翼を持った悪鬼が数体、曇天を背景にこちらの様子を窺っているのが見えた。彼が悪鬼の姿を捉えたのとほぼ同時に、悪鬼達は地上―青葉に向かって真っ逆様に向かってきた。しかし青葉はその場から一歩も動こうとはせず、向かってくる敵を見据えたままもう一度羽織を振るう。

 風もないのに羽織ははためき、再び烈風が巻き起こる。それは目には見えない刃となって、中空の悪鬼を貫いた。妖怪の成れの果てとは言えど痛覚はあるのか、地響きのような低い呻き声と耳をつんざく悲鳴のような声を合わせた不協和音を奏でながら、体の先から崩れ、灰となって風と共に消えていく。その様子を見届けることなく、青葉はすぐに周囲に潜む悪鬼へと目を向け、菖蒲が指示する方向へと烈風を叩きつける。

 それらの動作は一切の無駄も狂いもなく洗練され、躊躇がなかった。普段の穏やかな少年の姿は完全に影を潜め、淡々と敵を倒す人形のようにも見える。それほどまでに悪鬼を倒すことに慣れてしまったのか、或いは、あえて我を殺し任務と割り切っているのか。彼と会って間もない火守には、それを見極めることはできなかった。


 次々と湧いてくる悪鬼を休む暇もなく打ち倒しながら、青葉達はさらに山の奥へと分け入っていった。こちらから攻めていくという手を使い、少しでも迅速に事を終わらせようとはしているものの、それでも青葉の体力は相当に削られていた。疲労の色が見え隠れし、額からは汗が滲んでいる。やがて山の中腹に差し掛かった時、突如木々の間から数個の火の玉が飛び出し、一直線に青葉達へ向かってきた。

「――っ」

 その不意打ちに、青葉の顔に僅かな焦りが見えたが、それも一瞬のうち。それらの火を、右手で払うかのように振るっただけで、火は瞬く間に霧散した。

「今の…狐火じゃなかったか?」

 辺りに視線をやりながら、浅葱が訝しむように呟いた。それに対し、青葉と火守がほぼ同時に頷き返す。

「だけど、周りには悪鬼の気配しかねーぞ」

 周囲を注意深く窺いながら、青葉は羽織を握り直す。

「多分、妖孤を食べた悪鬼が、その力を取り込んだんだ」

 他者を喰らう悪鬼の中には、食べた者の能力も取り込む者もいる。今山に潜む悪鬼達もその例なのだろう。

「あの悪鬼達に、同胞は喰われたのか…」

 同胞達の末路を目の当たりにし、火守は暗く沈んだ声で項垂れる。

「沈んでるところ悪いんだけど、一気に片付けるからな?」

 浅葱がそう言うなり、青葉が動いた。菖蒲が次々と悪鬼の居場所を暴き、それを的確に彼が討つ。任務を開始した直後よりも明らかに息が上がっているが、繰り出す力が弱まる気配はない。

(これが神童と呼ばれる所以か)

 青葉の圧倒的な力に火守は心の内に呟く。けれどその力を扱う器たる青葉は、どこか儚く脆くも見えた。


 太陽が天の頂点を過ぎ、西に大きく傾き始めた頃。青葉達は山を一通り廻りきり、山の麓にある野原まで来ていた。

「悪鬼の気配は全て消えたわ。隠れているものもいなかったし、これで任務終了ね」

 山一帯の探知を終えた菖蒲がそう告げれば、青葉は深く息を吐いてその場に座り込んだ。陰陽師の表情は隠れ、その裏から15歳のあどけない少年が現れる。浅葱、菖蒲が彼の両肩にそれぞれ座ったので、火守も彼の隣に腰を下した。

「悪鬼もいなくなりましたし、山も清めてきました。これで野吉山も元の姿に戻ります」

「俺と同じように、あの時逃げることが出来た同胞がいたはずだ。彼らもきっと戻ってくる」

「ありがとう」と、青葉の方へと向き合い、火守は深々と頭を下げた。対する青葉は、少し照れくさそうに笑う。

「いえ、これが僕の仕事なので。それよりも、火守さんの探している人のことなんですけど、何か此処に来て思い出すことはありましたか?」

 言われ、火守はふと辺りを見回した。この野原から見える風景には、どこか見覚えがある。

「…この場所、確か俺がその人に助けられて、意識を取り戻した時にいた所だ」

「此処にその人はいなかったんですか?」

「あぁ。その時には誰も。…ただ、においだけは覚えているぞ。俺は割と鼻が利くんだ」

「におい?」

「桃の匂いと、人の血のにおいだ。血は俺達のものでも、悪鬼のものとも違った。おそらく、その人のものだったんだと思う」

 青葉は火守の話を真剣に聞きながら、腕を組む。

「話を聞いてから色々と考えていたんですけど、多分その人、この野吉山に来た修行者の類の人の可能性が高いです。此処は女人禁制の令も出ていない土地なので、女性の修行者が来てもおかしくありません。火守さんが覚えているという血のにおいがもしその人のものなら、その人は悪鬼によって怪我を負わされたとも考えられます。悪鬼から貴方を庇い、逃げることができる力を持っていたのなら、僕達みたいな陰陽師の線もありますが…」

「女で修行者や陰陽師って五十年も昔ならかなり珍しいけど、いないわけでもないものね。或いは巫女、とか」

「巫女?」

 菖蒲が付け足した内容が少し意外で、火守は思わず復唱した。菖蒲は頷いて、続ける。

「そう。此処は本来清浄な霊山でもあるから、巫女がよく儀礼に使うための草木を採りに来ていたの。巫女は神に通じる人だから、多少の霊力を持っていたっておかしくはないわ。それに桃の香りって言うのは、古来から厄除けとして身に付けられているものなの。特に女性はね」

 僅かな情報だけで、その人物像はかなり具体的なものになってくる。

「凄いな。俺は数十年かけても手がかり一つ見つけられなかったのに…」

「そう肩を落とす必要はねーよ。修行者にしろ陰陽師にしろ巫女にしろ、どれも特殊な人達だ。ただの人の中から見つけるよりもよっぽど大変だよ。妖怪が会おうとするなら尚更な」

「特に巫女は常に社の中にいるから、会おうとしてもなかなか会えるものでもないの。それに仮に巫女だとしても、その神社の特定をするのが大変ね」

 京の都だけでも、社の数は呆れるほどに多い。

「どちらにしても、これは長丁場になりそうです」

 けれどその言葉に、「面倒臭い」などと言うような気持ちは一切見られない。あくまで探すことに前向きでいるようだった。

「そろそろ帰りましょう」と言って青葉は立ち上り、芒の生い茂る野を歩き出す。火守もまた腰を上げ、その後を追った。

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