二ノ章 あい言葉 一

 青葉と出会ってから数日が経った神社の境内は、俄かに慌ただしくなっていた。古くなった神の社を定期的に新しく建て直す遷宮せんぐうという行事があるように、そこで祀られる神もまた、入れ替わりが行われることがある。

 神の力が弱まり、これ以上主祭神としての役目が果たせないと主祭神自身が判断を下した時、残った力と役目を自らが定めた次代の神に継がせる儀式―遷神せんしんである。狐の君はその次代として選ばれ、これからまさに宇迦之御霊神の神名を正式に授かることになっており、彼女はその儀式に追われていた。

「お初にお目にかかります。私はこの稲荷大社の宮司を務めます、瑞穂恵みずほめぐみと申します」

 神と、宮司をはじめ数少ない神職しか入ることが許されない神聖な本殿の中。そう名乗り頭を深々と下げたのは老齢の女性だった。頭を上げた恵は、六十を越えた体とは思えないほど滑らかな動作で真っ直ぐに背筋を伸ばす。続けて、今度は狐の君が浅く頭を下げた。

「わたしは灯華ともか、と言います。あなたのことは先代から聞いています。…これから、宜しくお願いします」

 公で人間と対面するのはこれが初めてである狐の君、もとい灯華の声色はやや強張っていた。その様子に、恵はふふっと小さくと微笑んだ。口元には深い皺が刻まれる。

「そんなに緊張されなくてもよいのですよ。口調もそんなに畏まらなくても」

「ごっごめんなさい…」

「まだ中津国なかつくにに来て日も浅いのです。私達人と話すのもこれが初めてなのでしょう?気にする必要はありませんよ」

「…」

「初めて」という何気ない恵の言葉に、灯華の脳裏に青葉の姿が過ぎる。「灯華」という自分の名さえ教えられない相手と交わした、誰にも言ってはいけない、気付かれてはいけない約束。自分の世話をしてくれる彼女にさえ告げてはいけない秘密。

「ではまた。狐の君」

彼が残していったその言葉が、今も鮮明に耳に残る。

今度はいつ、会いに来てくれるのだろう。

いつになれば、彼と話ができるのだろう。

彼が言った「また」とはいつのことだろう?

今日がその日でないならば、早く明日が来てほしい。

明日でもないというのなら、彼が来てくれるその日まで。

時間よ進めと、密かに願う。

「どうかしましたか?」

突然黙り込んだ灯華を不思議に思ったのか、恵から声がかかる。

「いいえ。なんでもない…です」

そう言って、灯華は恵に笑いかけた。

この頃からだろうか。

あれほどゆっくり流れているように思えた時間が、少しずつ早まっていると感じるようになったのは。

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