一ノ章 雨隠れ 三
「そう言えば、どうしてこの森に1人でいたんですか?」
ぬかるんだ地面を慎重に歩きながら、青葉はふとそんな疑問を口にした。会話を重ねるうちに青葉への警戒感も薄れたのか、狐の君の表情は先程よりも穏やかだ。
「わたし、最近この近くに住むことになって、今日は辺りを散歩していたの。そうしたら雨が降ってきてしまって。青葉、さん…は、どうして?」
狐の君は人の名前を呼ぶのが慣れていないのか、それともよほど恥ずかしいと思うのか、一音一音を噛みしめるようにして彼の名前を呼んだ。ただそれだけのはずなのに、青葉の胸はむずむずとこそばゆく弾む。
「僕は仕事のために。この近くに、稲荷大社があるのはご存知ですか?」
「稲荷大社」という言葉に、狐の君の肩がぴくりと動く。次いで、「はい…」という小さな返事。
「僕の家…というか、僕がいる陰陽師の一派は、京の都の中でもこの辺りの守護を担当しているんです。あの稲荷大社も担当に入っているから、行事の時はよく僕達も駆り出されて。今日もその用事で」
「そうだったの」
「えぇ。あ、丁度今のまま行くとその神社に…」
歩きながら少年が指をさしたその先に、真っ赤な鳥居が木々の隙間から現れた。足場はぬかるんだ地面から、綺麗に整備された石畳へ。その石畳は京の都からこの神社までを結ぶ参道となっているため、この道を辿って行けば京の都の街中まで迷わず行くことができる。
「このまま参道を歩けば街へ行けますけど、あなたの家は?」
しかし参道に辿り着くや否や、狐の君はぴたりと足を進めるのを止めてしまった。隣を歩く青葉も同じく足を止める。だいぶ小降りになった雨空の下。目を凝らして辺りを見回すが、そこには鳥居以外何もない。青葉が狐の君の返答を待っていると、彼女は唇をきゅっと結び、それまで握っていた青葉の手を離して羽織の外へ走り出た。
「え!?」
突然の行動に青葉が驚くよりも早く、狐の君は目の前の鳥居を潜ると、くるりとその身を翻した。鳥居の内と外。その境界を隔てて、2人は静かに向かい合う。
「狐の君?」
鳥居の向こう側に立つ少女に、先程まで雨の寒さで震えていた姿は微塵もない。凛として佇むその姿はどこか近寄りがたく、青葉は彼女を追うこともできず、その場に立ち尽くした。
「羽織、ありがとうございました。案内は此処までで、もう大丈夫」
そう言って、狐の君は深々と頭を下げた。それに合わせて、狐耳も共に動く。その姿に、不意に初めて此処を訪れた時、共にいた父から話された言葉を思い出した。
ー此処に祀られている豊穣を司る神様は、狐の姿を借りている。
突然、彼の頭の中で何かがぱちんと音を立てて当てはまる。確たる証拠もないけれど。普通に考えたら、信じられるようなことではないけれど。けれど不思議と納得できた。
彼女だから。
彼女ならば。
「あなたは…」
微かに感じた稲穂の香り。
鳥居の向こう側に立つ、狐の耳を生やした女の子。
彼女と出会ってから、ずっと感じていた違和感の正体。
稲荷大社に住まう、神の名は。
「
降りしきる雨の中。
鳥居を挟んだ彼方と此方。
それが彼らの最初の出会い。
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