一ノ章 雨隠れ 二

「雨、止みませんね」

「うん…」

 雨が葉を叩く音や、雫が地へ落ちる音しか聞こえない空間で、2人はぎこちなく言葉を交わす。人ならざる者と話す機会は多くあった少年だが、見た目が年近い少女と話すことは初めてのことだった。普段は陰陽師の仕事か修行に追われ、年の近い友人と遊んだ記憶もない。というより、友人と呼べる人は誰もいなかった。自分と同年代の子供達と話した機会が少ないのだから、何を話せばいいかすらさっぱりわからない。それが異性となれば尚更だ。

 いっそ話すことをやめて、ひたすら黙っていることもできようが、さすがにこの2人きりの状況で沈黙を通すのは苦しい。それに未だ少女が警戒心を解いていないのは目に見えていて、それが少年にはどうにももどかしく感じられた。だから少しだけ、思い切る。

「僕の名前は青葉あおば。と言います。あなたは、なんという名前なのですか?このままじゃ、どうにも話しにくくて…」

 突然の申し入れに少女は一度弾かれたように顔を上げたものの、すぐ申し訳なさそうに眉尻を下げ、力なくゆるゆると首を横へと振った。

「名前は…あの、い、言えないの。その、掟、で…」

 掟。という言葉に、反射的に青葉の表情が曇る。その表情の変化に敏感に反応した少女は慌てて頭を下げた。

「ご、ごめんなさい!せっかくあなたは教えてくれたのに…」

「いえ。掟なら、仕方がないです。僕の家にも色々あるもので…。気持ちは、わか 

ります」

 苦笑いをこぼしながら片手を振りつつそう言って、「けど」と付け足した。

「それならあなたのことを、何と呼べばいいですか?本名ではいけないなら、あだ名、とか」

「あ、あだ名ですか?え、えっと…」

 そのようなもの、考えたこともなかったのだろう。少女は目を白黒させながら再び困り顔になる。そんな彼女を傍目に、青葉はちらりとその栗皮茶色の髪に視線を移した。そうして浮かんだ単語を、正直に口に出してみる。

「『狐の君』と、呼んでもいいでしょうか?」

「狐の君?…あ!」

 告げられた名前を復唱し、合点がいったのか頬を赤らめてさっと頭に手を当てる。上目遣いに青葉を見上げながら、小さく頷いた。どうやらその呼び名で良いらしい。ホッと内心息をついた青葉とは対称に、『狐の君』はおずおずと問う。

「も、もしかして、今までずっと見えていたの…?」

「はい。とても、可愛いと思いますよ」

「そ、そうだったの…」

 観念したようにゆるゆるとおろした手の隙間から現れたのは、髪と同じ色をした、正三角形の狐の耳。人ならざる者を多く見てきた青葉のこと。獣耳や角が生えた者達は彼にとっては人と同じぐらいに見慣れていた。ただ、今まで出会ってきた人ならざる者とは、狐の君は明らかに何かが異なっていた。その違和感はどこから来るのか、何がどう違うのか。違和感の元を突き止めようと頭を巡らしていると、突然青葉の体を寒気が走った。

「っくしゅ」

 口元を抑えるのと同時に、自分のものとは違う小さなくしゃみが1つ。左隣を見てみれば、狐の君もまた口元を抑え小刻みに震えていた。

「大丈夫ですか?」

「はい」という返事はあったが、声に覇気はなく頼りない。辺りが薄暗くなってきて目を凝らさなければわからなかったのだが、改めて少女を見てみると、その髪からは絶えず水滴が落ちてきているし、着物は雨水をたっぷりと含んでぐっしょりと濡れていた。

 季節は本格的な春を迎えた時期。日中であれば暖かな日差しが降りそそぐ季節であるが、此処は森の奥、それも日が沈みかけた雨の日だ。ここまで濡れてしまっていては確かに肌寒くも感じられる。この寒さで体を壊す恐れもあるし、早めに家に帰してあげた方が良い。雨の中歩くのは些か躊躇われるが、このままここで雨が止むのを待っていても日は沈み辺りは暗くなるばかり。悠長にしているわけにもいかないだろう。そう思い立つや、青葉は狐の君に声をかけた。

「森を出ましょう。そろそろ夕暮れも近づいていますし、夜の森はあまり安全ではありません。まだ雨は降っていますけど、このまま冷えてしまっては体を壊してしまいます。家までは僕が送りますから」

「で、でも、迷惑じゃない?」

 遠慮気味に問う狐の君に対して、「いいえ」と首を横に振ると、立ち上がって手を差し伸べる。狐の君は差し出された手を取るのに一瞬躊躇いを見せたが、やがて自らの手を重ねて立ち上がった。肌寒さすら感じる冷たい空気に包まれているせいか、握り合った手のぬくもりが、妙に暖かく感じられる。

「こっち…です」

 狐の君が迷いなく前方の森へ指をさす。羽織を被り直し雨水を避けながら、二人は手を繋いだまま森の中を進み始めた。

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