一ノ章 雨隠れ 一
雲に覆われた空は薄暗く、森に届く光はほんの僅か。普段なら木漏れ日が差し込み鳥の囀りが響くその森も、今はその姿をひた隠している。
「こんなに早く降り出すなんて」
森の片隅で、1人の少年が木の根元に立ち尽くして溜息をついた。不安の影を宿した藤色の瞳は、祈るように天を仰ぎ見つつ、肩にかけていた大きな白の羽織を持ち上げて体を覆う。ぱたぱた、と木々の葉からこぼれた雫が羽織に当たり奏でる音を耳元で聞きながら、やがて何かを諦めたようにその場にしゃがみ込む。雨で急に空気が冷えたせいか、少年は微かに身震いし咳込んだ。
「あぁ、早く帰らないと…」
そう1人呟きながら、瞳と同じ色をした髪につく水滴を払う。しかし、水滴を払いきる前に、その動作を不意に止めた。少年は音もなく静かに身構えるや、息を潜めながら視線を目の前に広がる森へと向ける。
「誰、ですか?」
雨の音だけが辺りを支配する中。少年の問いかけに応えるように、かさりと草木が擦れ、木々の間から鮮やかな色彩が生まれ出た。
「!」
少年の瞳に飛び込んできたのは、薄暗い森に良く映える綺麗な桃色の着物。改めて見直すと、その服を着ているのは少年とあまり年の変わらない少女だった。肩に掛かるほどの長さで切り揃えられた
「わ、わたしの姿が、見えるの?」
その様子と言動に、彼の中でとある合点がいった。と同時に、体の緊張を緩めると、にこりと微笑んで見せた。
「はい。僕、こう見えても陰陽師なので。あなたのことも、見えるんです」
「陰陽師…?」
彼の言葉を反復しながら、少女の目は大きく見開かれ、まじまじとその瞳に少年の姿を映した。「信じられない」と本気で驚く心境が、少女の表情からありありと感じられる。自分が認識されたことに驚くその様子から、彼女は本来「見えないもの」であるということは容易に想像がついた。
しかし彼にとってはそんな、普通には「見えないもの」が「見える」ことはごく当たり前のことだった。『霊力』あるいは『
この時代―平安時代と後に呼ばれる頃、日の国は人と妖怪、そして八百万神で満ちていた。
住む場所はそれぞれ異なってはいたものの、これらの種族は各々の生活圏と役割を持ち、互いに細やかな交流をしながら比較的平穏な日々を送っていた。とはいえ、普通の人間が簡単に妖怪や
彼らを見ることができたのは、霊力や神通力と呼ばれる不可思議な力を持ったごく一部の者だけだ。これらの力は誰彼と宿るものではない。ほとんどが決まった血族にしか現れず、その力は一族内で脈々と受け継がれてきた。こうした霊力や神通力を利用し、人と妖怪、また八百万神との仲介役を担ったのが、陰陽師である。陰陽師と呼ばれる職はこれらの力を持つ血族から生まれ、その役割は家業として代々一族に伝えられている。少年もまたその一族の生まれであり、将来を期待される1人でもあった。
陰陽師の仕事は主に妖怪退治であったが、普段は祈祷や
「あの…そこにいたら、濡れてしまいますよ?」
相変わらず木の陰に隠れたままの少女に向かって、少年はそっと声をかけた。確かに見ず知らずの人間に突然遭遇し、声をかけられたら警戒もするだろうが、さりとて少女だけ雨に打たれるのを黙って見ているわけにもいかない。それでも一向に警戒心を解かず動こうとしない少女に向かって、少年はややあって、頭から被っていた羽織をふわりと持ち上げて見せた。
「この羽織は大きいから、中にもう1人入れるんです。…一緒に、雨宿りをしませんか?」
思わぬ言葉に、少女は虚を突かれたように目を見開き、瞬かせる。そしてやはり濡れることを本人も気にしていたのだろう。意を決したように木陰から出ると、躊躇いがちに歩み寄ってきた。少年が羽織を支える左腕を持ち上げると、遠慮がちにその下へ入り、「失礼します」と俯きながら告げて、少年の左隣にしゃがみ込んだ。
少女がしゃがむほんの一瞬、微かに稲穂の香りが彼の鼻腔をくすぐった。
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