5

     †


 ――これがわたしなの


 彼女はそう言った。目を伏せ、僕と顔を合わせようとせずに。


 ――本当は、キミにだけは見せたくなかった


 目は壁のシミに向けられたまま、でも言葉は僕への謝罪と、自らへの憤怒と恥じらいに満ちていた。


 ――見ての通りよ


 ――わたしは、どうしようもないケモノなの


 ――わたしは、バケモノなの


 ――だって、見て分かるでしょ?


 ――わたしは、誰かを傷つけるようにデザインされたのよ


 そうつぶやく彼女は、言葉通りの『人の皮をかぶったケモノ』だった。

 革ジャンとジーンズの下に覗くのは、青ざめた膚。鱗のように鳥肌の立った皮膚と、黒々と伸びた鋭利な爪。瞳は虎のような琥珀色をして、闇の中妖しく輝いている。ウルフカットの黒髪は、たてがみのように風にたなびいていた。


 ――夜になると、わたしのなかのが目覚めるの


 ――そうしては囁くのよ。わたしに、を狩れって


 ――ワタナベ・ミサは、わたしの同類なかま


 ――きっとわたしを狩るために連中が寄越したのよ


 ――連中? それはね、キミもよく知ってる人たちよ


 ――うん、彼らは大学のなかにいるのよ。地下深くの研究室にね


 ――そう、わたしを造った人たちがね


 ――どう? わたしって醜いでしょ?


 そうつぶやく彼女に、気づけば僕は手を伸ばしていた。

 彼女の青い膚は、鈍く、堅く、そしてザラついていた。まるで他者を寄せ付けない彼女を、そのまま具現化したみたいに。アズミの魂を守る堅牢な殻のようにそこにあった。でも、僕は優しくひと撫ですると、それは刀を鞘に納めるみたいにしぼんでいった。


 ――遺伝子か何かの実験らしいの


 囁く彼女を抱き寄せて、僕はその言葉を耳に近づける。


 ――人間の遺伝子を組み替えて、潜在的な能力を呼び起こすんだって


 ――ほら。精子と卵子は、受精してから細胞分裂を繰り返すけど。ヒトはその過程で、それまでの進化の軌跡をたどるの。


 ――ひとつの細胞に始まって、徐々に進化して。海から陸へ、陸から二足歩行へ、歩行から思考へ。何億年という歳月を母体内でエミュレートして、やっとヒトの形を成す


 ――わたしはね、もう一つの過程をたどった結果なんだって


 ――よくわからないけど、医者が言ってた


 ――思考と歩行と発明と、そして詩と散文を愛し、他者を憐れむような種族じゃなくて


 ――もっと野蛮な軌跡をたどったケースなんだって


 ――そうね、ほら。狼に育てられた子供っているじゃない。アレみたいなものよ


 ――狼……そうね、わたし檻に閉じ込められてた。地下深くの檻に、実験動物として


 ――毎日のように何かを狩ることを教えられた。たまに言葉や音楽を教えてくれたけど、ほんとたまにだった


 ――赤い血を見ない日はなかった


 ――こわかった。自分がしていることもそうだけど、心の底ではそれを望んでいる自分が


 ――そうデザインされ、造られたわたしが


 ――だからね、わたし逃げ出したの


 ――自由がほしかったの


 ――来る日も来る日も、言いつけ通りに何かを殺すのがイヤだったのよ


 ――……ねえ、やっぱりやさしいね。キミって……。


     †


 僕らは、気づけば再びまたベッドに転がりこんでいた。でも、それは性的衝動によるものではなくて。だけど本能によるものだった。僕らは抱き合いながら寝ころぶと、お互いの顔も見ずに、ただ顔を寄せ合った。そしてお互いの耳に向けて囁き、言の葉を交えた。

「逃げ出したときのわたしは、それはもうひどかったのよ。八号館の地下にね、わたしの実験施設はあったの。地下深くよ。階段を下っていくとわかるけど、あそこからは血のにおいがする」

「八号館か。文学部の僕には縁遠いとこだね。医学部の実験棟か何かだっけ?」

「そう。たしかに、キミには関係ない場所ね。だけど、だからこそキミを選んだ気がする」

 彼女は吐息を漏らし、僕の片の上で頬ずりした。

「逃げ出したときのわたしは、まるでそう――あれ、ターミネーター2のシュワルツェネガーだったの」

「あの裸で、球のなかから出てくるやつ?」

「そう。裸で、未来からやってきて、常識もなくて、酒場に乗り込んでくるアレ。まあ、わたしは服は着てたけど。でも、ほとんどアレに近かった。無知な獣の少女は、文学部棟に転がり込んだのよ。それでね……」

 彼女の手が、僕の背をさすった。背骨を押さえるみたいに、ゆっくりと優しく。

「キミはどうして、わたしが本や音楽が好きかって聞いたよね? あれにはね、実はちゃんとした答えがあるの」

「答えって?」

「わたしのなかの獣が消えるからよ。本や音楽、文化に触れるとね。わたしのなかの本能的な獣は失せていくのよ。なんでかわからないけど。どうしてだろう? フィクションのなかですべてが済んでしまうから? それとも頭を使うことで、この獣性を殺していくから? わかんないけど。でも、しばらくわたしは人間でいられる。そう知ったの。そして、だからキミを求めた」

「文学部生で、人畜無害そうで、お金を払えばどうにかしてくれそうな優男だから?」

「そう。文学部生で、人畜無害そうで、お金を払えばみんな黙ってくれてそうで。それに、優しいヒトだから」

 彼女はそうやって微笑んだけれど。でも、すぐにその笑みは消えた。

「……ごめんね。本当はキミを巻き込みたくなかった」

「もう巻き込まれてる。はじめて声をかけられたときから、とっくに」

「そうじゃないの」

 背中をさすっていた手が、より強くなる。僕を抱きしめ、へし折り、殺してしまうみたいに。

「質問に答えるわ。わたしが毎晩何をしているか、よね」

「ああ、そうだ」

「ねえ、ほんとうに戻れなくなるわ。本当の意味でキミを巻き込むことになる。道連れにすることになる。それでも、いいの?」

「いいよ。もう乗りかかった船だし」

「わたしなんかのために、キミが破滅する必要ないのよ」

「いいよ、破滅しても」

「本当に?」

 僕は彼女の髪を撫でた。黒く短い髪からは、あの青いエクステが消えていた。

「……殺していたの。ヒトをね。それに、お金も盗んでいたのよ。キミに払っていたのは、そういう汚いお金だったの」


     †

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