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 喫茶『黒い子猫シュヴァルツ・カッツェ』に入ったのは、あとにも先にもこの一回きりだった。

 大正・明治を思わせるようなレトロモダンな店内には、オルゴールの音楽が響いている。有線か何か知らないけど、店主の趣味だろう。

 店主兼僕の大家は、悪趣味な老婆だ。アッシュグレイに紫色の混じった髪と、着衣はモノトーン調に透かし模様レースがあしらわれたドレス。店員は彼女のほかにいなくて、コーヒーを淹れるのも、ケーキを作るのも、それを運ぶのも彼女の仕事だった。

 僕は店で一番安い商品を頼んだ。つまりブレンドのホットコーヒー。だけど運ばれてきたのは、ブラックコーヒーとチョコレートのセットだった。チョコは供え付きなんだろう。ベルギー産のお土産品のようなチョコで、一粒で板チョコが一枚買えてしまいそうなほど高価そうだった。

 しばらくのあいだ、僕はコーヒーとチョコレートとを交互に舐めた。時間を稼ぐみたいに、じっくり。でも、コーヒーがすっかり冷めても、アズミはやってこなかった。

 一時間、二時間と時間が過ぎた。その間に僕は、オルゴール調のカノンを一〇〇回近く聞いたと思う。もはやとっさに出た鼻歌すらも、カノンに鳴り始めていたころだ。

「もう店じまいにするけど。まだ残る?」

 僕の飲みかけのコーヒーを見ながら、老婆言った。あまり商売気のない彼女が、そんな遅くまで仕事をしたいはずもなく。きっとカップを下げたくてたまらなかったのだろう。彼女のしわの寄った瞳は、早くコーヒー代と家賃を置いて出て行けと、そう言っているみたいだった。

 しばらく老婆と僕との攻防があったけれど、まもなくそれも終わった。午後八時前のこと。店が閉まる一〇分ほど前のことだ。彼女が、アズミがきたのだ。

 安っぽいカウベルの音とともに、彼女が店に転がり込んでくる。客が来たというのに、老婆は「いらっしゃいませ」の一言もなかった。むしろ面倒くさそうにため息をついた。

「ひどい格好だ」

 革張りのソファ。向かいの席に着いた彼女に、僕は言った。

「転んだのよ」

「そうは見えない」

 革ジャンには大きく傷が付いていた。転んだような白い擦り傷に、刃物で斬りつけられたような跡。真っ白い頬には、赤い斑点のような傷もあった。もし本当に転んだとしたら、相当派手だったに違いない。

「本当に転んだんだってば」

「ウソだ。なあ、いったい何をしたんだ? ワタナベさんは何者? 君は毎晩どこに行ってるんだ? いつまで僕のアパートにいるつもりなんだ?」

「そうね。説明しないと。でも、もう終わりよ。これで、今日きりで。もう終わりにするしかない。これ以上キミを巻き込むのは、なんていうか……そう、忍びないから」

 アズミは僕の手を取った。白く、細長い、ピアニストのような指。だけどその手は、いつになく荒れていた。指紋はまるで岩肌のようにザラザラとして、爪は獣のように鋭く、長い。黒いマニキュアは剥がれかけて、代わりに血管が太く浮き出ていた。手の甲にも図太いチューブのような管が浮かんでいる。

「ねえ、おばあさん。灰皿とコーヒーをくれる? ブラックで」

 彼女は体をひねって振り返り、老婆に言った。

 でも老婆は、面倒臭そうにため息を返した。

「ここは禁煙です。それに、もうラストオーダーは過ぎた」

「ああそう。じゃあ、もういいわ。ねえ、行きましょう」

 彼女はそう言うと、僕の手をつかんで店を出た。僕の代わりにお代を置いて、二階のアパートへ。お釣りも受け取らずに駆け上がった。


 合い鍵を使い、彼女は我が物顔で部屋に入る。僕はそのあとを追うだけだった。

「ねえ、そろそろ話してくれないか。雨貝さん、君は――」

 言い掛けた、そのときだ。

 彼女はその獣のような爪と指で、僕を玄関へと引き込んだ。そしてその手を、そのまま僕の太股にまで滑り込ませた。

 あとは一瞬だった。

 彼女は、とても二十そこそこの女性とは思えない怪力で僕を持ち上げた。股下から腕を入れて、そのまま僕を連れ去る。次に地上の感覚を味わったのは、ベッドの上だった。

 彼女は僕に馬乗りになった。そして革ジャンを脱ぎ去ると、着ていたTシャツにも手をかけた。だけど、彼女の様子はおかしかった。

「……すぐに収まるから、赦して……」

「赦してって、なにを?」

「これを」

 次の瞬間、タバコ臭い吐息が僕に押し当てられた。


     *


 僕らは最後まではしなかった。

 その途中で彼女が倒れたのだ。

 

 それを詳らかにすれば、とたんに僕らの関係は陳腐になってしまうから、だから詮索はしてほしくないけど。とにかく、最後まではしなかった。

 彼女はショーツ一枚で、ベッドに寝ころんでいる。僕はタオルケットをかけてやると、脱ぎ捨てられた革ジャンに手を伸ばした。彼女のだ。そしてポケットに手を突っ込むと、マルボロとライターとを取り出した。

「一本もらうよ」

「どうぞ。珍しいね、キミが吸うなんて」

「僕だってそういう気分のときがある」

 言って、僕は慣れない手付きでタバコに火をつけた。といっても、吸うというより蒸すくらいなもので。ほぼお香みたいなものだったけど。ともかく、僕には頭を冷めさせる必要があったのだ。

「……考えて見れば、君と過ごす初めての夜だ」

 僕は紫煙を吐き出しながらつぶやいた。

「そうね」と彼女はタオルケットにくるまりながら。「でも、わたしはキミの寝顔、何度も見てるわ。結構かわいいのよ。寝てると、あんまりいつもの理屈っぽさがないの。そう、子狐が寝てるみたいなの」

「おいおい、僕はキツネかよ」

 問いつつ、僕はタバコを銜えたままキッチンへ。電気ケトルのスイッチを入れてから、ドリッパーにコーヒー豆を注いだ。どこで買ったかは覚えてないけど、安いブレンド豆だった。

 彼女と僕のぶん。二人のコーヒーをハンドドリップをする。僕のは使い古した陶器のマグカップで、かすれたネコの絵が描いてある。いっぽう彼女のは安売りされていたもので、仔犬の絵が描かれていた。

「コーヒー、飲む?」

 僕はふたりぶんのマグカップをもって、ベッドサイドへ。いつもの朝のルーチンワークのごとく戻ろうとした。

 でも、彼女がそうはさせなかった。

 ベッドサイド、夜更け、甘い匂いと、タバコの香り。はじめての夜。

 そこに立ち尽くしていたのは、僕がよく知る彼女ではなかった。

 そこにいたのは、猫のような自由奔放な少女ではなくて。長い爪で毛づくろいする、一匹の青ざめた狼だった。

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