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その日、結局アズミは大学に来なかった。彼女と僕は同じ英詩読解の講義を取っているはずなのだけど――はず、というのは、彼女があまりにも幽霊学生だからだ――まじめに授業を受けているところを見たことがなかった。彼女が何を履修しているかも、僕にはわからない。むしろ興味本位で履修もしていない授業を受けに行くことの方が、彼女にとっては多いぐらいだった。
五限の講義が終わりに近づくころ、大学にはすっかり夕暮れが落ちてきた。巨大な文学部棟には夕日が沈みかけ、西日にしびれを切らした教授がブラインドを下げていく。
僕はそれを横目に、ノートにペンを走らせる。でも、視線はずっと彼女を捜していた。
やがてチャイムが鳴る三分前のところで、教授が授業を切り上げた。今日はワーズワースのさわりまでだった。
「椎名、ちょっといいか」
ノートを畳んで鞄にしまい込んでいたとき、教授が僕に声をかけた。禿頭で、いつもスリーピーススーツを着込んだ老紳士だ。今日の彼はスレートグレイのスーツで、メガネはフレームのない白銀のものだった。どこか英国紳士を思わせる物腰は、柔らかさと毒気を混じり合わせたようでもある。
「なんでしょうか?」
僕は講義室を出て行く人並みに逆らい、教壇の近くへ。しばらくすると、講義室にはすっかり僕と教授だけになっていた。
「レポートの返却だ。よく書けていたよ。何点か赤を入れといたから、確認するといい」
彼はそう言って紙束を寄越した。それは一ヶ月ほど前――そうだ。僕がアズミと出会う前のことだ――提出したものだった。もっとも課題というわけではなく、自主的に出したものだったが。
「ありがとうございます。……すみません、教授。一ついいですか?」
「なにかね?」
「雨貝さん、雨貝アズミさんを見ましたか? この講義を履修してる学生です。探していて」
返すモノを返して、すっかり帰宅の様子を見せる彼。僕はそんな教授に、思い切って聞いた。
だけど、返ってきたのは意外な回答だった。
「雨貝? 聞いたことないな、そんな名前の学生は。女性かい?」
僕が首を縦に振ると、教授はさらに困った表情をした。
「天川君なら知っているけどね。ほら、敷島先生のゼミにいる男の子だよ。でも、雨貝さんは知らないね。友達かい? それとも……」
「知り合いです。いえ、知らないなら大丈夫です。すみません、妙なことを聞いて」
妙な汗が額を伝った。
アズミはこの講義を取っていない? だとしても、同じ学部のはずだ。それにこんな珍しい名字を忘れるはずがない。
僕は一抹の不安を覚えながら、鞄を握りしめた。
「ああ、椎名君。待ちたまえ」
また、呼び止められた。僕は足だけを止め、首だけで振り返る。
「万が一だが。もしその子が文化や芸術や音楽を求めているなら、与えなさい。きっとそれが正しい」
「どういうことですか?」
「さてね」
教授は咳払い一つ。荷物を革鞄にしまい込むと「それじゃあ、二部生の講義があるから」と出て行ってしまった。
*
雨貝アズミ。
彼女は何者か、考えてみれば僕はよく知らなかった。僕が彼女について知っていることと言えば、人を自殺に追い込んでしまいそうなほどの美人で、誰かに追われていて、そして人畜無害な僕を買収して逃げ込んできた。そんな不良学生。大学生だというのに、勉学に励む様子もない。気分屋で、音楽と本が好きで、夜更けまで帰ってくることもない。
まるでネコのような女だ。
飼い主のことなんてまったく気にしないで、自由気ままに勝手にどこかに行って、おなかが空いたら帰ってくる。まさにネコだ。
そしてまた飼い主――いや、僕は彼女を飼ってないけれど――は、ネコのことを知らず知らずのうちに気にして、探してしまう。まったく言い得て妙だ。
気が付けば、僕は彼女の姿を探していたのだから。
彼女が夜更けどこに行くかは知らない。
ただ聞いたことがあるのは、新宿か池袋の夜の街に消えていった……という話だ。豪奢な革のコートを羽織った彼女が、壮年の男に抱かれて、そのまま雑居ビルの中に吸い込まれていったとかなんとか。もっとも、彼女にフラれた男が吹聴した根も葉もない噂だろうけど。
でも、こんな噂もあった。
ある晩、彼女は柄の悪そうなヤクザ者とホテルに入ったという。もちろんそこらのビジネスホテルなんかじゃない。風俗街のド真ん中にあるようなホテルだ。
だけどしばらくしてホテルから出てきたのは、彼女だけだったという。ヤクザ風の男も、誰も帰ってこなかった。戻ってきたのは彼女だけ……。そういう噂だ。
その噂の真実がどういうことか、僕は知らない。又聞きに又聞きを重ねたような話だから、多重に曲解されてるだろうし、脚色されてるだろうけど。
でもひとつ言えるのは、雨貝アズミとはそういう噂がされるにあたる人間ということだった。
講義が終わると、僕はまず図書館に行った。彼女が行くならそこだと、そう思ったから。彼女は本が好きで、音楽が好きで、それ以外はどうでもいいというような女性だったから。少なくとも僕の知る彼女は。
サイクリストの群れが行き交う広場を抜けて、図書館へ。地上二階、地下二階の大空間は、すべて書物のための居住空間だ。人間が生活する場所ではなく、本だけが生きながらえるようにデザインされている。
僕はその中の地下二階、電動書庫が無数に立ち並ぶエリアを目指した。何を隠そう、そここそがアズミと僕が出会った場所だった。
地下電動書庫の洋書コーナー。イギリス詩の書棚は、もう閉じられてから久しいように見えた。僕がスイッチを押して書庫を開くと、古書特有の甘ったるいにおいが鼻孔をくすぐった。
AtoZで著者順に並べられた詩集たち。僕はそのなかからディラン・トマスの全集を手に取った。トマスは僕が特に好きな詩人の一人だった。
赤茶けたページを繰り、彼の五つ目の詩集『死と入り口』を開いた。
僕は言の葉に目を落とす。
「獅子と
突然耳元に声がして、僕は振り返った。
訳もない後ろめたさに駆られて本を閉じる。パンと激しい破裂音をあげてページが衝突する。
「ディラン・トマスですよね、それ」
電動書庫の谷間。さっきまで誰もいなかったはずのそこに一人の少女が立っていた。
今風の女子大生という出で立ちをした少女だった。肩ほどまで伸びた茶髪に、ほのかにチークの入った頬。淡いクリーム色のトレンチコートを着た彼女は、僕に微笑みかけていた。
「そうだけど……。君は誰だ?」
「ワタナベです。ワタナベ・ミサ。先輩とは前田教授の講義で一緒です。そういう先輩は、椎名先輩ですよね」
「どうして僕のことを?」
そこはかとない、いやハッキリとした既視感。アズミと出会ったときもまったく同じだった。違うことと言えば、ワタナベさんの風貌がアズミとは正反対なことだろう。アズミがしたたかな女豹だとすれば、彼女は人なつっこい仔犬のようだった。背も僕より一五センチ以上小さく、明るい茶髪は赤毛の犬を思わせた。
「どうしてって、同じサークルですよ? 文芸部です。覚えてないんですか? って、先輩は最近幽霊部員だから、新入生は覚えてないですよね」
「ごめん。顔と名前を覚えるのは苦手なんだ。でも、今はもう覚えたよ。ワタナベさんだね」
「いいですよ。別に覚えてもらえなくても。だって先輩は――」
すると、彼女は一歩僕に近づいた。ずらりと並んで本に指をかけながら、ゆったりとした足取りで距離を詰めてくる。
「雨貝アズミのオトコなんですもんね?」
「え?」
――いまなんて?
そう問いかける前に、僕の唇は封じられた。
彼女の、ワタナベさんの唇によって。
問答無用でぶつけられた彼女のキス。僕はそれを拒んでもよかったのに、受け入れていた。心地よかったから? 違う。突然のことで考えが追いつかなかったのだ。
やっとのことで身を離したのは、彼女が舌を入れてこようとした時だった。
「どうして? イヤでしたか?」
舌先に糸を残しながら、彼女は言った。
「なんのつもりか分からないけど、何もかも間違ってる気がする」
「間違ってないですよ」
そう言って、彼女はもう一度僕に唇をぶつけてこようとした。今度こそ拒否したけれど、でも彼女の表情には怒りが見え隠れしていた。
「じゃあ、答えてくださいよ」
突然つっけんどんな物言いになり、ワタナベさんは言った。
「なにを?」
「雨貝さんとはどこまでしたんですか? もうシました? ねえ、彼女って獣のようでしょ? それもネコ科の獰猛な獣。女豹ですよね。違います?」
差し出された白い手。きれいにマニキュアの塗られたピンク色の爪が、僕を書棚へと追いつめる。頬を撫で、肩を撫で、胸元を撫で。落ちていく手は、やがて僕の腰あたりで止まって、それから中空を何度も周回した。肌に触れるか、触れないかという境界で。
「何を言ってるんだい、ワタナベさん? もしかして僕のことが好きだった?」
「それは違います。気持ち悪い。勘違いしないでください。私が気にしてるのは、雨貝アズミのほうです。先輩じゃない。さっきのキスは、雨貝アズミをその気にさせるためのフェイクです」
「それってつまり、えっと……」
「先輩ってほんと鈍感。さっきも言いましたよね? 私が知りたいのは――」
そうして今一度、彼女は僕に唇を重ねようとした。もはや両手も書棚に押しつけられて、僕には逃げる場所もない。
きっと世の男性が見れば、なんて贅沢なシチュエーションだと思うだろう。でも、僕の心臓は高鳴っていた。性的興奮という意味合いではなく、恐怖という意味でだ。正体不明の少女に突然追いつめられ、唇を重ねられ、あげく同棲している女性について脅迫を受けているのだから。理解不能な恐怖と、理解可能な脅威とが双方向より攻め行っている。そういう状況だった。
選択の余地はなかった。ワタナベさんが嫌いなわけではない。よくいる女子大生という格好だが、決して不細工というわけではく。むしろ美人の部類だし。それを受け入れたって――
目をつむり、ある種の覚悟をした。
唇に何かが触れる。でも、それはワタナベさんの唇ではなかった。それは布のようにザラザラしていた、牛革か何かみたいな匂いと、そしてタバコのにおいがした。葉の燻されたあのにおいが。
目を開けたとき、そこにいたのは彼女だった。
雨貝アズミ。
僕が探していた彼女。
Tシャツにジーンズ、使い古しのレザージャケット。短い黒髪の下には、青のエクステが揺れていた。
「なにしてんの」
彼女の右腕は、ワタナベ・ミサの首筋へと延びていた。声音には怒りが秘められているみたいだったけど、でもその様子からは怒り以上に殺意のようなものさえ感じられた。
「へ、へ……見つけましたよ、雨貝先輩」
「来てやったのよ。呼ばれたから」
苦しげにもがくワタナベ・ミサに、彼女はさらに力を込めていく。黒く塗られた爪は、首筋にめり込んでいく。皮膚を赤く変色させながら、黒が滲みいっていく。
「椎名君は逃げて」
「逃げてって……なあ、これはどういうことなんだ?」
「説明はあとでする。お願いだから、逃げて。あとで合流するから。だから、そうね。アパートの一階の、あの喫茶店で待ってて。それから二人分のコーヒーを用意しておいて」
「……よくわからないけど、わかったよ、。でも、そんなに長く待てないぞ」
「知ってる。でも、待たせるのがわたしの仕事だから」
僕はアズミに背を向けて、急ぎ足で電動書庫を出た。後ろからは本棚が揺れる音が聞こえた。ギシギシと書庫が音を立て、それからページがひしめき合う爆発のような音がしていた。
でも、僕は振り返らずに歩き続けた。
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