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ある朝、僕はいつものように朝食を用意して待っていた。こんがりと焼けたトーストとインスタントのコーンポタージュ。いずれもスーパーの安売り品だけど、貧乏学生の腹を満たすにはちょうどよかった。
それからハムエッグも用意した。テフロンの剥げたフライパンに、たっぷりの溶かしバター。そこに薄切りのハムを二枚と、卵を一つ。だけど、これは彼女のぶんだ。僕は食べない。
卵を蒸し焼きにして、ちょうど半熟ぐらいになったころ。腹を空かした彼女が帰ってくる。見計らったように、定刻どおりに。
「ただいま。朝ご飯できてる?」
彼女はお気に入りのブーツを脱いで部屋にあがる。黄色いステッチが特徴的なドクター・マーチンの10ホール。それから古着屋で買ったという黒のリーバイスに、上着は安物のレザージャケット。合皮だっていうことが丸わかりな粗悪品だったけど、彼女が着るとその粗悪ささえも作り込まれた敢えてのように思えた。まったくこの世界はつくづく美人に甘く、醜男には厳しい。
「できてるよ。ご飯炊いてなかったからトーストだけど。それからハムエッグと、コーンスープ」
「いいメニューね。コーヒーは?」
「それぐらい君が淹れてよ」
「しょうがないわね。居候だし、やるわよ」
唇をむっと尖らせてから、電気ポットを手にキッチンへ。彼女はいつもコーヒー派で、ブラックしか飲まなかった。なんでもタバコと合うらしい。
僕にとっては朝食だけど、彼女にとっては夕食みたいなものかもしれない。僕はそう何度も考えたし、でも答えは見つからなかった。僕はアズミに一番近いところにいたはずなのだけど、彼女のことを何にも知らなかったから。
僕が彼女について知っていることと言えば、そう、彼女は本が好きだった。それから音楽も好きだった。……それぐらいだろうか?
朝、僕らは律儀にも食卓につき、丁寧にも手を合わせてから食事を始める。でも、その前に一つ儀式めいたものを行う。
「ねえ、音楽かけてよ」
食事の前、スープが冷めかけたころに彼女はいつもそう言うのだ。僕の部屋の、スピーカーとギターアンプが並んだスペースを見て。
「いいけど。なにが聴きたいの?」
言って、僕は腰を上げてスピーカーを目指す。それはPCとつながっていて、PCはオンラインでストリーミングサービスとつながっている。
「なんでもいい。キミのセンスに任せるよ」
「本当に? シャッフル再生するけど」
「いいよ。なにがきても。それが音楽であるなら、わたしは何だっていいの」
再生ボタンをクリックする。ストリーミングは本日のマイ・リミックスを流し出した。でも、流れたのはよりにもよってビートルズの『ハピネス・イズ・ア・ウォームガン』だった。
「ねえ、椎名君。ついでに本も取ってよ」
「何の本を?」
「なんでも」
トーストをかじり、彼女は顎で本棚を指し示す。本棚といっても、カラーボックスを横に何列か並べただけのものだった。
「オスカー・ワイルドは読んだ?」
「読んだ。でも、あんまり好きじゃなかったな」
「そう。じゃあ、イェイツは?」
「まだ」
「じゃあ、これ」
岩波文庫ばかりが並べられたカラーボックスから一冊、薄桃色の背をした本を取り上げる。ウィリアム・バトラー・イェイツの詩集。およそこの地球上に生息するほとんどの女子大生が見向きもしない本だ。
彼女はそれを受け取ると、トーストをかじり、スープを飲みつつ、ページを繰った。器用にも片手でカップを取り上げ、もう片方の手で本を開く。そして唇は無言のうちに詩を唱えていた。
「ねえ、雨貝さんは――」
僕はコーヒーを飲みつつ、本を読みふける彼女を見やった。
眺めつつ、僕はトーストをかじり、コーヒーで喉に流し、そして気のないフリをしていた。でも、実際のところ彼女に気があることはバレバレだったと思う。だって、彼女の姿は非常にチャーミングで、クールで、美しかったから。食べ物をむさぼりつつ、求めるようにページをく繰り、そして耳は音楽を吸い込む。うんざりするほど無表情な彼女は、熱気をはらんだ文化や文明を冷たく癒すみたいで。首筋を舐めるような黒髪は、僕の心を撫でるブラシだった。
「なに?」
心此処にあらずの僕は、彼女の相槌でようやく我に返った。
「いや、べつに。ただどうしてそんなに本が好きなんだろうと思って。どうして音楽を聴きたがるわけ?」
「理由なんている? 読みたいし、聴きたいから」
「でも、徹夜明けで本を読むのってつらくないか?」
「そうね。でも、それは読まない理由にならないでしょ」
そう言いつつも、彼女はおおあくび一つ。それから眠気覚ましと言わんばかりにタバコを銜え、火をつけた。冷めたコーヒーで煙を流し込む。
「それに、わたしの勝手じゃない」
「でもそれは僕の本だし、僕のスピーカーだ」
「ごもっとも。それにこれは、キミが作ったハムエッグ」
彼女は目玉焼きの黄身を丸飲みにし、ハムもぺろりと平らげた。よほどおなかが空いてたのだろう。トーストもあっという間に消えていた。
「ごちそうさまでした」
やっと本をおろして、彼女は皿に一礼する。でも、お生憎様、後かたづけも僕の仕事だ。この居候はカネだけはキッチリ入れてくれるけど、家事だけはどうやってもしてくれなかった。
ビートルズを聴きながら、僕は汚れた食器を持って洗い場へ。使い古しのスポンジをつまみ上げて、割れた黄身のあとをぬぐい取った。
「そういえば雨貝さん、ひとつ聞いていい?」
「あ?」
詩集を手に取ったまま、銜えタバコの彼女が振り返った。首だけくるんと回して、体は本に向いたままだった。
「雨貝さんは、何か料理はできないわけ?」
「できるよ。一つぐらいなら」
「なにさ?」
「肉料理」
「肉料理って、いろいろあると思うんだけど」
「タルタルステーキ」
「それって、生肉を粗微塵にするやつ?」
「そう。粗微塵にした生肉に、塩胡椒と、ニンニク、ケッパー、オニオン、それからピクルスと、卵黄を乗せるの」
「なんだよそれ。ふつうはチャーハンとか、カレーとかって言うところだ」
「いいじゃない、べつに。昔ね、お母さんが教えてくれたの。クソッタレのファッキン・マザーがさ」
「タルタルステーキを?」
「タルタルステーキを」
断頭台のような背もたれから、ゆらりと頭を動かす。顔を逆さにして僕を見つめる彼女は、タバコをひと吸いし、そしてまた僕をにらみつける。
それから彼女はひょいっと頭を起こし、また詩集に目を移した。
「もう少し読んだら、わたし一眠りするから。起こさないでね」
「講義はどうする?」
「遅れて行くわ。どうせ一限はとってないし」
「もう二限の時間だ」
「あ、そうだっけ? でも、いいわ。ロクな講義じゃないし。それにここで本を読んでいるほうが好きだから」
「でもそれは僕の本だし、僕のアパートだ」
「そうね。そしてわたしは居候。肩身が狭いわ」
両肩をふっと浮かせて、彼女は自嘲気味に笑んだ。
「じゃあ、僕は行くから」
蛇口を締め、濡れた食器を乾拭きする。それから手を拭き、顔を拭き、すべてを拭い、僕は鞄一つ手に取った。
「行ってくるよ。鍵は開けとくから」
「知ってる。合鍵は持ってる」
イェイツから一切視線を逸らさずに、かのは上着のポケットから鍵を取り出す。先週作ったばかりの合鍵だった。
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