死に至る自由にキスして

機乃遙

1

 ふと思い返せば、それはついさっきのことのようにも思えるし、あるいは昨日のことにも、何十年も前のことにさえ思える。時間は相対的だとアインシュタインが言ったけれど。僕にしてみればひどく主観的で。僕と彼女の関係すらもすべて主観の物語だった。

 これは彼女の物語だ。

 僕とあの子の物語。

 だけど僕の物語だ。


 当時大学生だった僕は、下宿用のアパートに一人で暮らしていた。

 一階は古ぼけた喫茶店で、そこの店主が大家をしていた。『黒い仔猫シュヴァルツ・カッツェ』なんて小洒落た名前の喫茶店だったけど、でもそこには古くさい黒のドレスを着た厚化粧の老婆がいるばかり。まあ、コーヒーの味だけは確かだったけど。でも、結局一度しか飲まなかった。だってコーヒー一杯に千円とかしたから。大学生の僕には、とてもじゃないが出せる金額ではなかったから。

 そんな僕の古ぼけた下宿には、あるとき同居人がいたのだ。同棲していたと言ってもいい。

 大家の黒猫老婆がそれを知ってたかは知らないけど。とにかく、その同居人こそが彼女だった。


 僕と彼女は付き合っていたわけじゃない。恋人というわけでもないし、かといって割り切ったセックスフレンドだとか、相互依存のルームシェアというわけでもなかった。いや、共依存という点では正しいけれども。

 僕と彼女はただの同居人で。そして何よりも僕らはプラトニックであることを信条としていた。


     †


 彼女と出会ったのは、一年前の冬のことだった。

 そのとき僕は図書館にいて、一人明日の授業の予習をしていた。試験が予告されていたのだ。答案は学部のグループラインに出回っているという話だったけれど、参加していない僕には関係のない話だった。それに、自分が好きな勉強をする機会を、みすみす自ら奪おうだなんて。そんなの当時の僕は許せなかったから。

 大学図書館の地下二階。電動書庫と電動書庫の間。本が焼け、虫に食われた、あの甘い匂いに充満した谷間。そこに設けられた小さな閲覧席に腰を下ろして、僕はノートとパソコンを開いた。もちろん電波は地下まで飛んでこないから、PCはマイクロソフトオフィスを開いただけだったけれど。

 そんなときだった。僕がまさに翌日の予習に取りかからんとしたとき、彼女が僕の前に現れたのだ。電子書庫と電子書庫の谷底からぬっと顔を出して。

「ねえ、キミ。ねえ聞いてる?」

 そう呼びかける彼女を、僕ははじめ無視した。

 だって、そのとき僕は彼女のことを知らなかったからだ。なんとなく後ろ姿だけは知っていたけれど。

 良くも悪くも有名人だったのだ、彼女は。演劇や英文学の講義でよく姿を見たけれど、講義が終わるたびに彼女は男に声をかけられていた。それも、毎週違う男に。そして毎回彼女は男たちを素っ気なくあしらっては、一人そそくさと帰っていった。バカな学生のあいだでは、誰が彼女の美貌を手込めにするか、それを競い合っていたらしいが。すべてはゲームマスターである彼女によって封殺されていた。 

「キミ、椎名くんだよね。椎名カオルくん」

「そうですけど。どちら様ですか? どうして僕のことを?」

 彼女はウルフカットの黒髪を掻き撫でてから、静かに微笑んだ。キミのことなんてすべて見透かしているのよ、とそう言わんばかりの表情で。

「わたしは……うん、わたしは雨貝アズミ。キミのことは友達から聞いたの。それで、キミなら大丈夫かなって思って。頼みごとがあるの」

「頼みごとって?」

 初対面の男になにを? ノートを見せろとでも言うのか?

 そのとき僕はそう思っていた。けれど、彼女は予想だにしない頼みをしたのだった。

「あのね、しばらく居候させてほしいの。わたしを、あなたのアパートに」


     *


 そういうわけで、僕とアズミの同棲は始まった。

 しかしどうして彼女は、よく知りもしない僕の家に転がり込んだのか。親戚とか、女友達の家に転がり込めばよかったものを。

 そのことについて、彼女はこう話した。

「オトコがいたのよ。せっかちで、面倒臭いオトコがね。彼はとても嫉妬深くて、いつまでもわたしを追いかけてる。わたしはね、そんな彼から逃げたかったの。『アンタのことなんかとっくに捨てて、別のオトコに乗り換えました』って、そう宣言したかったの。だけど、わたしの両親はクソッタレでアテにならないし。こんなこと女友達になんて相談できないし……。ほら、わたしって美人でしょ? だから上っ面だけの女友達に『オトコに付きまとわれて困ってるの』なんて言った日には、嫉妬の雨霰。嫌がらせの暴風雨なのよ」

 エアクォートを交えながら、彼女はソファーの上でタバコに火をつける。赤いマルボロにジッポで火をつける彼女は、たしかにどんなオトコをも寄せ付けない。いや、どんなオトコもかなわない強さを持っているみたいだった。

「だからあなたにしたの。オトコだし、人畜無害の草食系童貞男子だって、ミサたちが言ってたから。キミのうちに転がり込んだら、安全かなって」

「人を童貞呼ばわりはどうかと思うけど。でも、それはつまり僕を信頼してくれてるってこと?」

「信頼なんてしてない。カネを払ったら、口をつぐんでくれると思ったの。都合のいい役回りを演じてくれると思ったの。人畜無害なカレシ役っていう、わたしにピッタリのパートナーを」

 そういうと、彼女は上着のポケットから財布を取り出し、万札を何枚か抜き取った。

「ほら、これ。とりあえず今月の家賃と食費、その他もろもろ。それから、わたしの恋人役代金」


 彼女はそう言って、毎月僕に家賃と食費、それから恋人役代金をくれた。でも、僕が彼女にしてあげたことなんて、大したことじゃなかった。

 手狭な僕のアパートに、僕と彼女の二人きり。僕はベッドに寝て、彼女はソファーに寝転がった。

「居候だし。ベッドはキミに譲るわ」

 どこをどうしたら『譲る』なんて発想が彼女から出てくるか分からなかったけれど。でも、実際のところアズミがソファーで寝ることは、数えるほどしかなかった。

 なにせ彼女が帰ってくるのは、決まって朝方だったから。

 だから僕には、朝食を用意して待っていることぐらいしかできなかったのだ。

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