012. 三段活用

 月曜日の放課後、ソッコーで決定した先輩との週末勉強会。平日はあっという間に過ぎ、早くも金曜日の夜を迎えていた。

 今日も今日とて母が丹精を込めて作ってくれた晩御飯を食べるため食卓に着いているのだけれど、私の箸はあまり進んでいなかった。別に体調が優れない訳でもなければ、料理が不味いわけでもない。いや、後者に至ってはそんなこと有り得ない。それは単に私が今になってもまだ明日のことを家族に話していなくて、どう話したものかと悩んでいるからだ。

 もし私が一人っ子だったならコレといってこんなことにはなっていないだろう。それもこれも何もかも、全ては姉が原因だ。黙っていて後からバレると、その追求がこの上ないほど面倒くさいから、黙っているという選択肢は無い。

 しかしながら普段、人を家に招くことがない私がそれをすれば、これはこれで追求必至だ。だから一杯のカルピヌを極限まで薄めて伝えなければならないのだ……けれど。

 ちらりと横目で姉を見れば、何が嬉しいのか分からないがニコニコしてご飯を頬張っている。

 心の中で溜息を吐く。先輩が家に来て勉強を教えてくれるという薄めようの無い事実を、一体どうやって薄めろというのだ。この姉に追求させないことなど、やはり不可能なのだろう。

 悪あがきしていた私は今日もまた、ついに諦めて素直に話すことにした。


「あのさ……明日なんだけど、先輩がテスト勉強見てくれるっていうから、家に連れてくるね」

「彼氏? 彼氏なの? 彼氏じゃないよね?」


 ガタッ! っと姉の立った勢いで椅子が音を立てる。今の今までニコニコしていた彼女の表情は一変し、まるで消え失せたように見える。流石に姉妹だけあって顔立ちはとても似ているから、あ、これって何年後かの私かもしれない――なんて頭の隅で考えつつ、いつもの如く彼氏の三段活用で問い詰めてくる姉に習い、私もそうやって返してみることにした。


「先輩。先輩なの。先輩ってだけだよ」

「本当? 本当に? 本と――」

「お姉ちゃん、しつこい」

「わあああああっ! 佐奈ちゃんに嫌われちゃったぁぁぁぁぁ!!」


 三段活用がくどいものだから、私がそっぽを向くと姉はわざとらしく床に崩れ落ち、うな垂れる。ああ、もう。食事中なのに床に手を着くとは、なんて不衛生なことをするのだ。

 でも、こうなってしまうと慰めなければ収まらない。母はいつものことと知らぬ存ぜぬを決め込みつつ、視線で早く何とかしなさいと訴えてくる。母よ、普段は私にかなり甘いのに、こういう時だけ厳しいのではないだろうか。その気持ちは痛いほど分かるけども。

 以前にも似たようなことがあって試しに一時間ほど放置してみたところ、姉は見事にずっと同じ状態だった。結局、私が慰めて納まったけれど、彼女の根の強さには敵わないやら呆れるやら。次からはすぐそうしようと誓ったくらいだ。

 内心で溜息を吐きながら私は女優へと華麗に転身し、姉の後ろから首へ腕を回して抱きつく格好となった。


「嫌ってなんかないよ。お姉ちゃんのこと、大好きだから」

「ぐすっ……。本当?」

「本当だよ」

「彼氏じゃない?」

「違うよ。ちょっと前に一緒に遊びに行った、部活の先輩」

「それはそれで……」

「だから早く手を洗ってきて、一緒にご飯食べよう?」


 努めて優しく言うと、姉の顔には一気に笑顔が戻った。さっきまでの泣き顔は一体どこへ行ったのか。姉よ、嘘泣きなのは分かっていたけれど、威厳的にそれでいいのか。地に落ちるどころか、めり込んでマントルや内殻さえ突き抜けて、最早、ブラジルまで到達してしまいそうだけれど、本当に取り戻さなくていいのだろうか。あと、現地までの旅費は自分で出して頂きたい。

 私が離れると、姉が立ち上がりかけたところで動きを止め、こっちへ振り向いた。


「あ、でも手は洗わなくていいよね。佐奈ちゃんの足は綺麗だから床だって綺麗だし、むしろ佐奈ちゃんの足裏――」

「え、何? 何言ってるの? 何言ってるか分からないんだけど?」

「手を洗いに行って来ます」


 今度は私が元から大して無い表情を消して言うと、急に敬語になった姉はそそくさとダイニングから出て行った。

 ほんの三十秒くらいのことだったのに、なんだかやたらと疲れた私は重く感じられる体で席に座りなおした。向かい側では食事の手を止めた母が肩を震わせ、必至に笑いを押し殺していた。

 しかし、それもついに限界を迎えたらしく、声が漏れ始めた。


「何がおかしいの?」

「ぷっ、ふふっ……あははははは。あんた、あれは――あの顔は流石に香苗が可哀想よ。くふふっ」

「あんなこと言うお姉ちゃんが悪いし」

「それはそうだけど、あれは怖すぎるわ」


 私は声を大にして言いたい。悪乗りして変態チックな事を口走る姉に、たまにはお灸を据えてやるのも可愛い妹の仕事である、と。



 そして迎えた土曜日。

 最初は、いつも学校の帰り道で分かれる場所まで迎えに行くつもりだったのだけれど、なんでも恋人の家へ向かう道中のドキドキ感を味わいたいだとかで結局、住所だけ教えて私は自宅にて待つこととなっていた。

 みや先輩の到着予定時刻は午前十時。相変わらず温度低目の除湿に設定されたエアコンで、室内を快適に保っている私は夏らしからぬ服装でベッドに仰向けになった格好のまま手を伸ばし、頭先に置いていたスマホを取る。

 特に通知は無い。予定通りこちらへ向かっていると考えて良いのだろうか。複雑な経路はしていないから道に迷うことは無いだろうけれど――


 ピンポーン


 聞き慣れた玄関のチャイムが耳に届いた私は反射的に起き上がった。時間的に先輩だと思われる。もしかしたら近所の人が何かの用事で来たとか、宅配便だとかなんていう可能性だって捨てきれない。自分の待ち人だと思って出たら、実際には違っていたなんてこと、往々にしてあることだ。

 これが友達であるならば母なり姉なりが出て「佐奈、お友達が来てくれたわよ」なんて下から呼ばれることだろう。けれど、今日来るのはみや先輩で、恋人(仮)だから、流石の私でも自分で迎え入れるべきなんじゃないかと思った次第だ。

 自分でも少し驚くくらい軽快な足取りで階段を下りると案の定、対応しようとした母の体がリビングのドアから半分程度出たあたりで止まり、私へ視線を向けてくる。


「私が出るよ。多分、先輩だから」

「じゃあお願いね」


 中途半端なところで止まっていたのはやはり母も私が降りてきた時点で察していたらしく、さっさとリビングへ引っ込んでいった。

 玄関まで来ると、静かにドアを開けた刹那、ムワっとした熱気が入ってくる。エアコンの恩恵を受けられない玄関といえど外気に晒されていないだけマシなようだ。その向こうに立っていたのは近所のおばさんでも、宅急便のお兄さんでもなく――デートのときの大人っぽいコーデとはまた違って、清楚な白いワンピースとレースのフリルが付いたソックス、そして同色の日傘を差した、どこぞの令嬢だった。入ってくる熱に微かに混じっているのはおそらく、彼女が元であろうフローラルな香り。

 思わず、私は口走っていた。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


 私がそんなことを言うものだから、どこぞの令嬢こと、みや先輩は黙りこくったまま何か考える仕草を見せ、数秒後、口を開き――


「か、帰ったわよ、佐奈。ところで、いつまでこのわたくしに荷物を持たせたままにしておくのかしら?」


 結構ノリ良く、そしてわりと本格的な台詞を吐いてきた。少し恥ずかしそうに見えるのは気のせいだろうか。それよりも、せっかく先輩が付き合ってくれているのだから、ここは私も続けなければならない。


「気付かず申し訳ございません。すぐにお預かり致します」


 言葉通りに私が彼女の荷物を受け取ろうと、手を伸ばす。


「も、もう佐奈、これいつまで続けるの!? 恥ずかしいんだからね!」


 やはり気のせいではなかったみたいだ。流石にこれ以上は可哀想になったので、この辺で終わりにしておこう。それに、暑い。


「すみません、先輩。では改めて――暑い中ありがとうございます、みや先輩。どうぞ上がってください」

「ありがと、佐奈。お邪魔します」


 玄関へ上がってすぐ、みや先輩がワンピースに負けず劣らずの白さを誇る紙袋を差し出してきた。


「これ、お家の方に渡してもらえる? 大したものじゃないけど」

「そこまで気を使ってもらわなくても良かったんですよ。むしろ勉強を見てもらう私が渡すべきでは……」

「いいからいいから。挨拶も兼ねて、私が直接渡したほうがいいかな?」

「いえ、私が渡してきます」


 ただ一瞬の逡巡も無く、即答する。リビングに居るのが両親だけならまだしも、今は姉も居る。そんなところへ先輩を連れて行ったりすればどうなるか――想像するのは容易い。間違いなく、面倒なことになる。

 みや先輩が少し残念そうにしているけれど、回避可能な地雷を自ら踏みに行くなんて馬鹿な真似はしたくないのだ。

 彼女の手土産を素早くリビングへ置いて、代わりに飲み物といくらかお菓子の乗った盆を持って二階へ向かう。


「みや先輩、今日は随分とシンプルなコーデですね」

「一応勉強がメインだし、着飾らずに可愛いのにしてみたの。佐奈は随分とこう……夏っぽくない感じだね、タイツが。暑くないの?」

「これには理由がありまして……」


 袖の短いシャツと膝上十五センチメートルくらいのミニスカート。そこまでなら至って普通の服装だろう。私はそこに黒いタイツを穿いているのだ。理由は言わずもがな、体を冷やしすぎないためである。

 思ったとおり、みや先輩は意味が分からないようで首を傾げているけれど、部屋に着けば、きっとすぐ分かるだろう。

 足早に自室の前まで来ると、暑さから逃れたい私はそこで一切溜めることも無く、早々に招き入れた。

 部屋の中央にあらかじめ用意した今日の勉強で使う折り畳み机に盆を置き、ベッドに腰掛けて一息吐く。冷やされた空気が心地良い。うん、やっぱり私の部屋は現代のオアシスだ。ユートピアだ。ヘヴンだ。

 暫し、くつろいでいた私は入ってすぐの場所で立ち尽くしている先輩に声を掛ける。


「どうかしました?」

「え? う、ううん、なんでもないよ。じゃあ座らせてもらうね」


 ようやく我に返った彼女はどこかぎこちなさを感じさせる動きで、折り畳み机まで移動すると、ようやく腰を下ろした。私もベッドから離れ、彼女に向かい合うように座り直す。

 ここでようやく気付いた先輩が言う。


「凄く冷房が効いてる……だからタイツ穿いてるのね」

「はい。私、しっかり冷房効かせて、ちょっと暖かい格好するのが好きなんです。先輩、寒くないですか?」

「さっきまで暑いところに居たから平気かな」

「寒くなってきたら言って下さいね、温度上げますから」

「うん」


 先輩が頷いて、ニッコリと笑みを浮かべる。少なくとも今の時点では本当に大丈夫そうだ。

 一先ず気にしないことにして、持って来たジュースやお菓子をつまみつつ、私たちは予定通り勉強を始めた。



 開始から一時間くらいが経過しただろうか。何度か先輩に教えてもらいながら数学の問題を解き進めていた私が新たに質問をしようと、前を向いたときだった。シャーペンのお尻の方を口元に当て、問題を熟考している彼女が空いている左手で右の二の腕を擦っているのが目に留まった。それが無意識かどうかはともかく、体が冷えてきているのは明らかだった。


「先輩」

「……んー?」


 少し小さめの声で呼ぶと、問題を解くのに頭を使っている先輩は反応がやや鈍い。今なら本音で返事が来るかもしれない。


「寒くないですか? 温度上げましょうか?」

「うん……」


 変わらずのんびりとした返事だ。しかしこれで一応、言質は取れたわけだし、少しばかり設定温度を上げようとして――


「あ、ごめん! 聞いてなかった、何かな?」


 リモコンへ伸ばしかけた手が止まった。

 いつもの調子に戻ったみや先輩がそう言うが、もう遅い。私はもう一度同じ事を、今度は疑問ではなく肯定で言う。


「先輩が寒そうなので、温度上げますね」

「そ、そんなことないよ! 平気、平気!!」

「でもさっき、腕を擦ってましたよ」

「大丈夫だから、ね?」


 見るからに寒そうなのに、一体どうしてそんな我慢しようとするのか分からないけれど、みや先輩は何が何でも温度を上げさせないつもりらしい。

 よろしい、ならば私にも考えがある。


「どうしてそんな頑なに拒否するのか分かりませんが……それならせめて、もう少し温かい格好くらいはしてください。上着か何かお貸ししますので」

「うーん……じゃあ、借りようかな?」


 ほら、やっぱり寒いんじゃないか。温度を上げれば解決すると思うのだけど、それはダメらしい。今日はみや先輩のことが良く分からない。

 とりあえずカーディガンを着てもらい少し様子を見ていたものの、まだ少しだけ寒そうにしている。けれど、やっぱり温度を上げるのは反対される。


「先輩、もし気分を害されたらすみませんが……」

「急にどうしたの?」

「まだ寒そうにされてるので、よければ……その、タイツ、穿きますか? 新品は無いので私が使ったものになりますけど」


 どこまで貸し借り出来るか。そのラインは人それぞれだ。上着すら受け付けない人も居れば、平気で他人の下着を着けてしまう人だって居る。私は(洗濯済みに限るが)靴下くらいまでは平気だ。そしてタイツは下着ではなく靴下のカテゴリに入っているから、一応、私的にはセーフだ。

 しかし、いくら私が平気でも、みや先輩がどう思うかが重要なわけで。怒らせてしまわないかと、この時ばかりは私も恐々としながら聞いていた。


「い、いいの?」

「はい、私はそういうの気にしないですが、先輩は――」

「私も気にしないよ」


 様子の変わらない彼女に、内心、胸を撫で下ろした。


「……佐奈のだしね」

「え? 何ですか?」


 みや先輩がボソッと呟いたように思ったけれど、何でもないと躱されてしまった。

 それよりも、今は先輩を冷えから守らなければならない。箪笥を開け、なるべく新しいものを探し出して渡す。

 付き合っているとはいえ同性なせいか気にする素振りも見せず、先輩は堂々と私の前でタイツを穿いたのだが――最後、タイツを腹部まで引き上げる時にチラリと白いショーツが見えた。自分だって似たようなものを穿くわけだから見えたところで気にしないし、逆もまた然り。

 ただ、一つだけ思ったことがある。先輩、布地の面積、ちょっと少なくないですか。

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