011. みや先輩、やきもちを焼く

 七月に入った。夏だ。夏真っ盛りだ。イメージ的にはやっぱりそうなるのだけど、でも、だからと言って六月中が涼しかったわけではなく、七月になったから突然暑くなったわけでもない。けれど七月になって、これからまだまだ暑くなるのは変えようの無い事実で、そのせいか、どうしても気分的には暑くなったと思ってしまう。

 幸いなことに私の通う藤ノ宮高等学校では全ての教室に冷暖房が完備されていて、一年を通してそこそこ快適に過ごすことが出来る。そんなわけで男子生徒の期待に応えられず申し訳ないけれど、ブラウスの下は下着だけ――なんて極端な薄着にする必要も無く、殆どの女子生徒はブラウスの下にキャミソールやシャツを着用しているし、中にはノースリーブのセーターまで着ている子だっている中、涼しさというか寒さ大歓迎な私はブラウスの下が下着だけだったりする。

 夏場、冷房をガンガンに効かせた部屋に慣れきってしまっている私にとって、温度が二十六度と高めに設定されて変えられなくされている学校のエアコンは物足りないのだ。それでも暑くはない。暑くはないのだけど、私の考える快適とは程遠い。


「おはよ、さなっち」


 他の子たちには悪いけど、もっと温度下げて欲しい――と、思っていたところへ後ろから声を掛けられた。


「おはよう、植――愛弓ちゃん」

「くぅ……」


 休みを挟んだせいかリセットされかけた、名前呼びする約束を思い出した私は苗字で言いかけたのを訂正する。愛弓ちゃんは蚊の鳴くような声を漏らし、ブルッと身を震わせ、そして頬を緩ませる。本人曰く感動で震えているらしい。私が名前呼びをするようになって一週間、毎日こんな反応をしてくる。それについては何も聞かないけれど、一体どうしてそこまで嬉しがるのだろうか。彼女は以前から自身の友達と名前で呼び合っていて、さもそれが当然と言わんばかりにしているから、謎は深まる一方だ。


「今日もちゃんと課題やってきた?」

「もっち! あ、でもいくつか分からないところがあってさ、教えてくんない?」

「いいよ、どれ?」


 この前、課題を教えて以来、彼女は科目を問わず、よく私に聞いてくるようになった。先生がいるのだから彼らに聞いたほうが良いと伝えてみたところ、私に教えて欲しいと返答があった。先生たちも形無しだなと少し可哀相に思うけれど、私だって頼られて悪い気はしないし、自分の復習にもなるからと教えることにしている。

 おかげでここしばらくの授業内容がやたら頭に入ってきて、来週末に迫っている期末テストは特別勉強をしなくても半分――は言いすぎにしても、三分の一くらいはバッチリな気がする。


「ふぅ、終わった! ありがと、さなっち。相変わらず説明が上手いよね、バカなあたしでも分かるくらいにさ」

「そうかな? 普通だと思うけど」

「そんなことないって! 絶対分かりやすい!!」

「ふふ、ありがとう」


 あんまりべた褒めしてくるものだから少し嬉しくなって笑いかけてみると、愛弓ちゃんの顔が熟したトマトのように目に見えて赤くなった。実は風邪を引いていて、無理して登校してきたのだろうか。


「顔が赤くなってるけどどうしたの? 体調悪かったり――」

「そ、そんなことない! へーきへーき!」


 やや食い気味に否定してくる彼女はそこに触れて欲しくないのか「それよりさ……」と少々強引に話題を変えてきた。

 それ以上、追求するつもりも無かった私は素直に耳を傾けた。


「この前の土曜日、駅前でさなっちを見かけたんだけど、一緒に居た女の人って誰?」


 また随分とタイムリーな話題が出てきたものだ。朝か夕方か。どちらにせよ、みや先輩とのデートの一部を見られていたことに変わりは無い。

 いくら私でも、女の子同士で付き合ってる――なんて、大手を振って言うことじゃないと、一応は理解しているつもりだ。そこは言わないにしても、その一点を除けば特に隠すことは何も無い。


「美術部の先輩だよ。誘われて遊びに行ってたんだ」

「へぇ……。そっか、先輩か……」


 愛弓ちゃんは何だか意味深そうに呟く。それがどうかしたのかと問いかけてみても、何でもないと一言あって終わり。彼女はそれ以上、この話題に関して何か言うつもりはないらしい。向こうから聞いてきたのにこれとは、結局何が知りたかったのだろう。


「ところで愛弓ちゃん。来週末は期末テストだけど、そっちの勉強はちゃんとやってる?」

「うっ……」


 ギクリとした様子の彼女は壊れかけの機械人形の如く、ぎこちない動きで顔を窓側へ向けた。ギギギ……と錆び付いた歯車の音でも聞こえてきそうだ。

 この反応は単純にしてないか、しているが分からない箇所が多いかのどちらかだろう。日々の課題には取り組んでいるようだし、やる気が無いというわけではなさそうだ。


「ふぅん。やる気、無いんだ。だったらもうさっきみたいに教える必要も無いよね」

「そ、そんなことないっ!!」


 椅子がガタッと音を立てる。彼女が勢いよく立ち上がった。これには何事だ? とクラス中の視線を集めるが、私たちはそれを気にしているどころではなかった。

 ここまで大袈裟な反応をされると思っていなかった私には珍しく焦りが生まれ、対する彼女は――


「やる気はある! あるん……だけど、今までがそんなに勉強してなかったから、やっぱ分からないところ多くて――」


 私への弁明で必死だった。

 もちろんただの冗談のつもりで――けれど愛弓ちゃんにはそれが上手く伝わらなかったようで、何故か少し泣きそうになっている彼女には少し悪いことをした気持ちになった。


「ごめん、愛弓ちゃん。今の冗談」

「でもあたしなりに――えっ?」

「愛弓ちゃんが真面目に勉強頑張ろうとしてるの、見てたら分かるから」

「そっかぁ……よかったぁ。じゃあ、これからも勉強教えてくれる?」

「うん。でも私に分かる範囲でね」

「あたしはさなっちに全部教えてもらいたいなぁ」

「私はこの歳で学校の先生より頭良くならないといけない?」


 無茶を言う。

 藤ノ宮はバリバリの進学校ということもなく、どちらかといえばスポーツや芸術――要するに部活動に力を入れている学校だから、私くらいのまずまずの学力程度でも上の下か中の上か、そのくらいの位置には居られる。

 だから難関大学を目指しているわけでもない私が先生たちより勉強できるなんて有り得ないのだ。


「じゃあさじゃあさ、二人で勉強会しようよ! あ、でも……あたしみたいなバカとしても、さなっちにメリット無いよね。ゴメン、今のナシ――」

「いいよ、やろう」

「ホ、ホントに!?」


 念押しして確認してくる彼女に頷き返す。

 メリットが無いなんて思わない。人に教えることで自分もより理解できるとのようなことだってよく言われているし、何よりせっかく出来た友達だ。力になってあげたいと思うのはおかしくない。


「じゃあ放課後、ここか図書室でやろうか」

「ありがと、さなっち! でも部活はいいの?」

「大丈夫だよ。無いから」


 それは少し正確性に欠ける。

 テスト期間前は終了まで部活が自由参加となっている。完全休止でないのはさすが部活に力を入れている学校というところか。

 数日、手を動かさないだけでデッサンの力は落ちてしまうけれど、幸いにも私は家で描ける環境が整っているものだから、やろうと思えば帰宅してからでも存分に励むことが出来る。だから部活に出なくても大して問題無い。

 それよりも、少し後悔の念が生じた。付き合うようになって、この前はデートもして、漸く実感らしきものをおぼろげながら感じ始めたという矢先にこれだ。

 先輩好き好き、大好き! 会いたい、離れたくない、ずっと一緒に居たい! なんてとち狂った、通報されても言い訳のし様も無い、危ない思考はこれっぽっちも持ち合わせていないけれど、みや先輩と過ごす時間が楽しいと思ったのは確かなのに――ジーザス! これでは、みや先輩に会う時間が無いではないか。

 どうしよう、今から前言撤回すべきかと思い悩み――私たちがテストということはみや先輩も同様なわけで、勉強するはずだから会いに行くと邪魔になるのでは……と思い至った。

 そうだ。そのはずだ。そういうことにして、今回はやはり愛弓ちゃんと勉強会をすることにしよう。

 みや先輩にそこはかとない申し訳なさを感じつつ、勉強会だというのにやけに嬉しそうにしている愛弓ちゃんを朝のホームルームが始まるまで眺めていた。



 真夏の太陽が照り付けて外気は三十度をゆうに越えているが、エアコンという最強の兵器に守られた教室に授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。堅苦しい授業から開放されたという想いがそうさせるのか、伸びをして気持ち良さ気にしている子、友達と話に花を咲かせている子、部活のためか、はたまた帰宅のためか、そそくさと荷物を纏めて席を立つ子と。かと思えばそのまま机に教科書や参考書を広げて勉強を続けている子も居る。


「じゃあ始めようか」


 私たちもその中の一組だ。私が机を百八十度回転させ、愛弓ちゃんと向かい合わせとなるようにセットする。最初は図書室に行こうと思っていたけれど、受験勉強ならともかく、期末テスト勉強くらいでその必要は無いと考え、結局こうして教室ですることにしたのだ。

 まだクラスメイトが半分くらい残っているからやや喧騒はあるものの、勉強に支障を来たすほどではない。

 お互いがそれぞれに勉強しつつ、愛弓ちゃんに分からないところが出てくれば私が教えるというスタンスで行う。私が分からないところはあとで先生か、不本意ながら姉に聞けば大丈夫だろう。

 そうして早一時間が過ぎた頃、スマホにメッセージが届いた通知が表示される。


『佐奈、部活は来ない?』


 差出人はやはりというか、みや先輩だった。こんなことを聞いてくるということは、おそらく彼女は部活に出ているのだろうし、私に来て欲しいのだと思う。

 しかしながら引き受けた以上、愛弓ちゃんを途中で放り出すのは無責任だし、寝覚めが悪い。


『友達とテスト勉強をする約束なので、終わるまでは部活に出ないつもりです』


 なんとも心苦しいが、今回はみや先輩に諦めてもらおう。そう思ってメッセージを送る。


「さなっち、どしたん?」

「先輩から部活来ないのかって連絡来たから返事してた」

「うー……。頼んでおいてアレだけど、やっぱ、さなっち部活行ったほうが良かったんじゃ……」

「愛弓ちゃんは気にしなくていいよ。それに描きたくなったら家でも描けるし、今は勉強しよう?」

「そ、そっか」


 申し訳無さそうに語る言葉とは裏腹に、彼女の表情はなんだか嬉しそうに見える。愛弓ちゃんが勉強を再開したことを見届け、私は再びスマホの画面を確認する。

 早くも次のメッセージが届いていた。


『誰としてるの!? ずるい! 私も一緒にする!』


 いや、みや先輩と私じゃ学年が違うから一緒にする意味がないのでは……。百歩譲って、まだ私は教えてもらえるだろうからいいけれど――でも、そうか。このままだとテスト終了まで私とみや先輩は会うことが無さそうだし、多分、テスト勉強を口実に二人の時間を作ろうとしている……のだと思った。

 とはいえ放課後は愛弓ちゃんとの勉強会を入れてしまったし、それが終わってからというのも中々に難しそうだ。つまり、平日は無理。なら、残るは――


『では今週末、私かみや先輩のお家で勉強会をするというのはどうですか?』

『行く! 絶対行く!!』


 休日を使うしかないのだが、早くも朝倉家で行われることが決定したのだった。

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