幕間 佐伯美弥子の独白 Ⅰ
私が彼女の存在を知ったのは、今から約三年前――中学二年生の頃だ。
当時、私は周囲からは絵が上手いという評価を貰っていたけど、それでも自信が無くてコンクールに応募するようなことはしていなかった。でも中学二年の秋、美術部の先生が今までで一番というくらい褒めてくれて、少しの勇気が沸いて出た私は、その年の春雪展に応募してみることにした。
別に賞を狙ってのことじゃないし、取れるとも思っていなかった。ただ、せっかく出た勇気を無駄にしたくなかった。賞を取れなくても、応募をしたという事実が少しでも自信に繋がればと思ったからだ。
結果は――予想の遥か上空を行く、入選だった。その喜びは一入で――しかし、ものの十分もしない内にそんな事は私の中から吹き飛んでいた。とある出展作品が目に映りこんだ瞬間――私は心奪われていた。所謂、一目惚れというやつだ。残念ながら対象は人ではなく、絵画だったけど。
銅賞を受賞している「桜花」と作品タイトル表記されていたそれは桜の舞う並木道を描いたもので、決して非日常的で特殊な風景をしているわけではなかった。なのにどこか幻想的で、物語の世界に引き込まれてしまいそうな――上手く言葉に出来ないけど、でも、そんな感覚だったのを今でも覚えている。
五分か十分か、もっと長い時間だったのか。或いは短かったのか。まるで時が止まったようだった私だけど、ようやく桜の世界から戻ってきて――回りから少し怪訝な視線を向けられていた気がして恥ずかしさがあったものの、作者の名前を注視した。知ったところで、どこの誰かも分からないのは分かっている。それでも、知りたかった。知っておきたかった。
名前は、朝倉佐奈――となっていた。やはり聞いたことの無い名前だ。年齢や職業、住所なんて個人情報が載せられているはずもなく、分かるのはその二つだけ。
けれど、それで十分だ。
名前さえ分かれば、その人――朝倉佐奈さんが個展だとか、そういった活動をしていれば、ネット全盛期のこの時代、そういう場所を探すのは難しいことじゃない。
惚れ込んで、この人の絵をもっと見たいと感じると同時に、憧れた。私もこんなふうに描きたい。描けるようになりたい。今にして思えば、それ以外にも当時は少なからず負けたくないという感情もあったのだと思う。
だから、それから私は今まで以上に頑張って、努力して、少しでも上手くなるよう、彼女に近付けるよう――いつか追い越せるよう、だなんて大それた目標を密かに立てつつ、絵を描き続けた。
気付けば、あっという間に一年が過ぎて、私は中学三年の秋を迎えていた。それはつまり、また春雪展の季節がやって来たということだ。
この一年、必死にやってきた。彼女に少しは追いつけただろうか。もっと距離が出来てしまっただろうか。ドキドキしながら、二度目の春雪展に応募した。
十一月末に募集を締め切り、約一ヶ月の選考期間を経て、十二月下旬頃に発表となる。毎日、毎日――陸を歩く亀のようにゆっくりと過ぎていく日々の中、考えるのは私と彼女の作品のことばかり。一年は瞬く間に過ぎていったというのに、このたった一ヶ月がもどかしいくらいに長く感じられた。
そうして、漸く訪れた発表の日――十二月二十四日、クリスマスイヴだ。
早朝から家の中を行ったり来たりして落ち着きの無かった私は怒られたけど、そんなもの頭にこれっぽっちも入ってこないくらい、本当にそわそわしていた。開館時間の三十分も前に着いた私は、今か今かと逸る気持ちを無理やりに押さえつけて待ち――ついに、会場の扉が開かれた。
入館して真っ先に向かったのは最奥の一番目立つ場所に飾られている作品。それが意味するところは、金賞を受賞した――今回の応募作品の中で最も高い評価が付けられたそれがあるということ。そこへ向かったのは自分の応募作品があることを期待しているからじゃない。むしろ自分の作品だというのに最早、眼中になかった。
それよりも彼女の作品だ。昨年、銅賞を取っている彼女ならば、今年も受賞している可能性が極めて高いと考えたのだ。
今年はどんな作品を見せてくれるのだろうと期待が膨らむのを感じながら金賞作品まで辿り着き――そこに、彼女の名前は無かった。私の作品ではないというのに、まるで自分のことであるかのように悔しい気持ちが湧き上がってきた。そこまで私は彼女の作品を楽しみにしていたのかと思い知った。
ならば銀か銅か。せめて去年と同じ銅賞を取っていてほしい――そんな思いから急いで確認するも、そちらにもありはしなかった。彼女くらい凄い絵を描ける人が受賞出来なかったとは思えない。審査員の目は節穴なんじゃないかと心の中で毒突きながら、入賞以下の作品を見て回る。
入賞から入選、佳作と評価が低い作品になっていくごとに私には焦りが生まれていた。全く見つからないのだ。
そして。
とうとう、最後の選外作品の前で、私は呆然と立ち尽くしていた。朝倉佐奈という名前は、どこにも無かったのである。
彼女が出展していない。その事実があまりにショックで、奇しくも自分の作品が昨年の彼女と同様、銅賞に輝いていたことなど一切記憶にあらず、それどころか彼女は何か事情があって出来なかったんだと意味不明な言い訳を考えて――気付けば、家まで帰ってきていた。
それから数ヶ月が過ぎ、高校生になった私はやはり美術部に入部していた。そこで顧問の先生や先輩、同級生に彼女の名前を出してみたものの、誰一人として知る人は居らず、手掛かりを得ることは叶わなかった。
高校一年の秋。また、春雪展の時期がやって来た。忘れてしまえば楽なのに、忘れてしまおうとしても脳裏に焼き付いて色褪せることの無い、あの“桜花”。今年は出展してくるかもしれない――と、勝手な期待をしてしまう。
彼女の絵が見れさえすればいいから、私自身は出さなくていいかなと考えていた。しかし、彼女を目標にやってきた私の腕は自分が思っていた以上に上達していたらしく、一年生ながら既に部内でもトップクラスだったようで、先生や先輩たちに出展を勧められた。
今ひとつ気乗りはしなかったものの、皆が出すのに私一人出さないなんてことが出来る筈も無く、結局応募することとなった。そうする以上はちゃんと描くつもりだったし、もし手を抜いて出したとして、今年は彼女が出展して結果を見に来たら――そう考えると、とてもじゃないけどおざなりに描くことなんて出来るはずも無かった。
そして発表当日。部活動の一環として、全員で会場を訪れた。作品の完成時、周囲からの評価はすこぶる良く、今年もいい線を狙えるかもしれないと少し期待感があった。でも、やっぱり、気になるのは彼女の事。出来ることなら金賞を取っていて欲しい――という気持ちも確かにあった。けれど、もうそんな贅沢なことは言わない。佳作でも選外でも構わない。ただ、もう一度彼女の作品が見たかった。
現実は残酷だ。
そんな私の小さな願いさえ、容赦無く打ち砕いてくる。
その年の春雪展でも、彼女の名前は見つからなかった。二年続けて出展されていない。暇があれば大小問わず、近辺でやっているコンクールの結果を見に行きもしたが、どれも空振りに終わった。
たった一枚の絵で私の中に住み着いて、私の心をこんな風にしておきながら、もう描くことを辞めてしまったのだろうか。見つけることは出来ないのだろうか。そんな気持ちが芽生え始めていた。
冬が過ぎ、雪の下で芽吹いた緑が春の到来を告げる。
早いもので私は、二年に進級した。この頃にはもう心の整理があらかたついていて、あの作品――“桜花”は私が絵を頑張るために神様がくれた奇跡の出会いだったのだ。だから、もう二度と彼女の作品に出会うことはないのだと、そう、思っていた。
二年生になるということは当然、新入生が入ってくるということで、部活において近しい後輩が出来るということだ。残念ながら美術部は運動部と違ってそこまで人気があるはずも無く、毎年五人程度の入部に留まる。多すぎると逆にスペースが厳しくなるから、それくらいでちょうどいいから構わないけど。
一週間の部活体験期間が瞬く間に過ぎ――本入部当日、今年は四人の新入生が我らが美術部に本入部届けを持ってきた。
その内の一人――綺麗なセミロングの黒髪をした新入生の女の子。その子は大袈裟でもなんでもなく、本当に、恐ろしいほどに、人形の如く整った顔立ちの美少女だった。あまりにも現実離れした造詣に加え、表情の変化の乏しさが組み合わさってもの凄く冷たそうで、誰しもが話しかけるのを躊躇ってしまいそうなほどだ。
それくらい美少女なものだから当然話題になって、体験期間の初日に一度来ただけの彼女を部員全員が覚えていたけれど、彼女がすぐ帰ってしまったために名前は聞けず仕舞いだった。その様子から私を含め皆、その子が入部してくることは無いだろうと考えていただけに、本入部当日にやって来たことで私たちは一人残らず度肝を抜かれていた。
そして新入生の自己紹介となり、絶世の美少女な彼女はついに、名前を口にした。
「一年三組、朝倉佐奈です。よろしくお願いします」
容姿に負けず劣らず、その可愛らしい声の持ち主は、私に雷で打たれたような――実際に体験したことは無いから分からないけど、とにかくそれくらい大変な衝撃をもたらした。
約二年半に渡り――ずっと、私が探していた名前だ。それを再認識すると手が震え、心臓の鼓動が早くなった。
聞き間違えたのかもしれない。いや、それは無い。今しがた彼女が自分で名乗った名前は、間違いなく“あさくらさな”だった。
だったら、偶然にも同姓同名なだけかもしれない。それは、大いに有り得る。何の変哲も無い――と言うと失礼かもしれない。けれど、時たま話題になるキラキラネームとは無縁の、普通の名前。だから、別人の可能性は無きにしも非ず、だ。
自己紹介の後、新入生がどれくらいの腕前かを見るために、毎年恒例の全員で静物デッサンをすることとなる。もちろん去年、私もやって注目を集めてしまったことは今でも覚えている。
それが始まるまでに――そう思っているうちに、先生の説明を聞き終えた彼女は誰と話すことも無くすぐ、画用紙がピシッと綺麗に張られたキャンバスに向かってしまい、話しかけられる雰囲気ではなくなってしまった。仕方なく、私は彼女とモチーフを挟んだ対角線上の場所を選んだ。描いている様子を少しでも見たかったのだ。
モチーフは石膏で作られた円柱。それがチェック柄の布の上に置かれている。本当にただ、それだけ。そんなシンプルなものでも描く人によって構図も、タッチの強弱も、色の濃淡も――同じ物を描いているのに、何もかもが違う。十人十色、百人百様、千差万別。それが面白いと、私は思う。
だから、彼女が――もし目の前にいる“あさくらさな”が私の追い求めた“朝倉佐奈”なのであれば、たとえこんな静物デッサンだろうと、是が非でも見たい。
そんな思いを抱いていたせいなのだろう。とにかく彼女が気になってチラチラと視線をやっていたものの――悲しいかな。絵描きの性なのか、五分もするといつの間にかしっかりとデッサンに勤しんでいた。
一時間も過ぎた頃だ。集中力の落ちてきた私は、ある異変に気付いた。美術室内で小さなざわめきが起きていたのだ。気になった私からは集中力が完全に失われ、残ったのはそれに対する興味だけだった。
発信源は前方――“あさくらさな”を中心とするように、先生と近くに居た何人かの同級生や先輩が彼女のキャンパスを見て静かに、けれど確かに色めき立っていた。
そうなってしまえば、私は、もう私を止められない。席を立つと、他の部員の邪魔にならないよう、静かに回り込んで、彼女のキャンパスが目に入った瞬間――私は言葉を失った。
圧倒。
その一言に尽きる。
布の敷かれた上にある円柱状の石膏一つだけなんて、正直言えば、つまらない。それはもう、とても。非常に。この上なく。
だというのに、そんなモチーフが彼女のキャンパスにはパッと見で白黒写真かと錯覚してしまいそうなほど超細密デッサンとして描かれていた。
その瞬間、私は“あさくらさな”が“朝倉佐奈”であることを確信して、歓喜に震える。私の心をずっと覆い続けているどんよりとした分厚い雲が一気に晴れて、青一色に染まっていく気さえした。
部活終了後、私は勇気を出して朝倉佐奈に話しかけてみた。すると、彼女はとっつきにくそうな雰囲気とは間逆に柔らかな返事をしてくれたものだから、小声で一緒に帰ろうと誘ってみると、すぐ了承をくれた。
帰り道、春雪展のことを聞こうとして――いざ本人を目の前にすると、取り留めの無い話題ばかりが出てきてしまい、肝心な内容は何一つ口に出来なかった。あの作品を描いたのは彼女に間違いないだろうけど、そんな個人的なことを出会って初日の私が聞いてもいいものかと、二の足を踏んでいたのだ。
そうして結局、翌日も、その翌日も、そのまた翌日も――三ヶ月近く経った今もなお、聞けずにいる。情けないと思うけど、でも、口に出来ないのだ。理由は、自分でもよく分からないけど。
それはそれとして、よく一緒に居るようになったこの三ヶ月弱で分かったことがある。
本人はやや大人しいものの中々にお茶目な性格をしている。しかし表情の変化が乏しすぎて周囲にそれが伝わらず、美少女過ぎることもあって他人から距離を置かれやすいということ。
それでもお近づきになりたいと思う生徒は多いようで、男女問わず多数の熱い視線が送られているのをよく目にする――が、当の本人はそれに気付いていない鈍感さんということ。
そんな彼女が私を呼ぶ可愛らしい声、隣を歩いてる時に風に乗って運ばれてくる甘い香り、無表情で笑いを取ろうとしてくる言動。かと思えばふとした拍子に見せる微妙な表情の変化。その全てに私の胸が締め付けられるようで、それが恋だと自覚したこと。
同性だから、そんな気持ちを抱いてはいけない。そうやって押さえつければ押さえつけるほど、その想いは増すばかりで――とうとう溢れてしまったあの日、私は彼女に告白した。
絶対に断られる。気持ち悪がられ、離れていってしまう。
そう思っていたのに――彼女に恋を教える。それを条件に受け入れられた。
自分の耳で聞いたことなのに信じられず、家に帰ってから何度も頬を抓った。その度に痛くて、就寝前に鏡を見たときにほっぺが両方とも赤くなってるのを見て、漸く信じたくらいだ。
あの日抱いた憧れは、いつの間にか恋慕に変わっていた。それが良い事か悪い事かは分からない。決して周囲から祝福されるような恋でもない。
でも私は自分の感情に嘘は吐けない――吐きたくないから、これからもずっと、佐奈に恋をし続けて、この気持ちを伝えていきたい。
そして、やっぱり――いつか、聞いてみたいと思う。
少しイジワルっぽく、どうして出展してくれなかったの、と。
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