008. あいあむあひーろー?

 電源ボタンを押すとテレビが点くように、私の意識は不意に覚醒した。人によっては夢を見ながらもうすぐ目覚める予兆らしきものを感じることがある――なんて眉唾物の話を聞いたこともあるけれど、こと私に限ってはそんな体験をしたことはない。人間、誰しも真偽の疑わしいことは実際に自分が体験でもしない限り、そう簡単に信用したりしないだろう。

 だから私はいつも目覚まし時計に安眠を妨害されるか、突然電源が入って目覚めるかのどちらかだ。

 起き方の違いというのは不思議なもので、目覚まし時計に起こされるととにかく眠い。毎回のように目を擦って欠伸をして、朝眠い人のテンプレとでも言うべき行動を取る。その後の着替えやらなにやらもダラダラやってしまうのだ。

 対して、不意に目が覚めると何故かやたらと頭がスッキリしている。着替えもすぐ出来るし、頭を使うようなことでもしっかりと働いてくれる。おかげで気分良く朝を迎えられるのである。

 そして今日もそうやって目が覚めてくれた私の頭は、早速元気に体を動かす指令をだして、勢い良くカーテンを開けさせていた。

 シャーッとフックがカーテンレールを走り、妙に気持ち良い音と共に朝日が差し込んでくると、光が目に染みて一瞬――反射的に目を細め、手を帽子の鍔代わりにして影を落とした。視界を取り戻すと、まだ朝の7時だというのに日は燦々と降り注ぎ、見慣れていて何の変哲もないはずの窓の外の景色がいつもより輝いて見えた気がした。

 しかし、まだ地平線からそう高くない位置までしか太陽が昇っていないせいか、未だ空気には冷たさが残っており、無意識の内に大きく吸い込んでいたそれは肺に心地良い刺激を与えてくれる。


「うん、良い天気」


 息を吐いた後、つい口から出たその言葉に――珍しいなと感嘆した。

 いつもは天気の良し悪しに関わらず、そんなことをわざわざ口にしたりはしない。今日は晴れてるから絵の具の乾きがよさそうだ。今日は雨が降ってるから登校の時濡れたら嫌だな――などと考えるくらいに過ぎない。

 いつもと変わらないはずの朝がなんだかいつもと違うように感じる不思議な感覚もそこそこに、みや先輩との約束を思い出して、早速準備に取り掛かることにした。待ち合わせは午前九時に駅前だ。時間はあるようで、ない。



 着替え以外の身支度を終えた私は、自室で悩んでいた。もちろん今日、着ていく服に関してだ。

 昨夜、いくつかの候補に絞り込んだのだけど、いざ当日になると本当にこれでいいのかと考えてしまう。ベッドに広げたそれらを見て、うんうん悩む姿はまるで“考える人”のようだ。いや、もしかしたら彼よりも悩んでいるかも知れない。なにしろ絵を描くときでもここまで考え、悩むことは少なかったりする。

 つい最近まで色恋沙汰とは無縁の生活をしていたとはいえ、今日のお出かけは曲がりなりにもデートなのだ。ならば、それ相応に相応しい出で立ちというのがあるだろう――色恋なんて欠片ほども理解出来ていないけども。

 こんな経験など無い私だから、誰かに聞くのが手っ取り早いのは火を見るより明らかだ。だからといって「みや先輩、私はどんな服装をすればいいですか?」なんて今日会う本人に聞くことは絶対に有り得ない。姉や母に聞くのが一番なのは理解しているつもりだけど、それはなんだか、こう――違う気がする。

 私と、みや先輩。二人の――二人だけの時間を過ごすのだ。

 そのためには私が自分で選ぶべきなのではないかと、そう、思った。

 みや先輩はどんなコーデをしてくるだろうか。少し考えを巡らせてみる――みたものの、よくよく考えてみれば、私は制服姿の彼女しか知らない。あまり気にしていなかったけれど、いざこうなると案外、相手の事って分からないものだ。


「どうしよ……」


 無意識の内に独り言がこぼれていた。けれど、現実はドラマやマンガとは違って非情だ。

 刻一刻と、みや先輩との待ち合わせ時間が迫ってくる。新しいキャンバスに焦りと不安の色をした絵の具を一滴ずつ垂らされ、混ざり合ったそれは無限に延びて塗りつぶし、私から白を奪っていく。独り言に対して作家や詩人みたいにカッコつけたモノローグを宛がってみたって、何一つ解決することは無い――ことも無かった。


「そうだ、スマホがあった」


 そう、その手があった。昔はパカパカ開いたり閉じたりするガラケーとかいうのを使っていたようだけど、それは電話やメールをするためのもので、ネットをするには随分不便なものだと聞いたことがある。初めて買ってもらった携帯電話がスマホな私からすれば、ネットにさくさく繋がるのは当たり前。ウィッフィーを介して繋げばデータ容量も消費せずに使いたい放題。その上、早い。

 そんなだから、ガラケーなんてものはまさに雲を掴むような話だった。

 それはともかく――私は直ぐにスマホを手にすると、ファッションに関する情報を漁り始めた。これはこれで人に聞いてるのと同義な気がしてくるけれど、私なりに自分で調べ、頑張っている――つもりだ。だからセーフだ。そういうことにしておこう。恋愛の神様だってきっと、許してくれるはずだ。

 いくらか画像を見ていくものの、なんだかとても奇妙奇天烈摩訶不思議だ。出てくるモデルさんは皆、珍妙な洋服を着ているのだ。中にはそれで済まない、もはや前衛芸術みたいなものもあったりする。

 お洒落には疎い私だから、パリコレのファッションショーの画像を検索してみたのだけど、私の美的センスがどうにかなってしまっているのだろうか。

 いや、そんなはずはない――ないはずだ。家族や友達に何か言われたことなんてないのだし、きっと参考にしようとしたものが悪い。そうでなければ、私はもうこの先の人生を制服とジャージだけを頼りに生きていくしかないかもしれない。



 現在――時刻は九時五十分。待ち合わせの十分前だ。海外ではプライベートの待ち合わせに五分や十分おくれるのなんて当たり前で、遅ければ一時間程度遅れて来ても平然としているような国もあるらしい。文化の違いと言ってしまえばそれまでだし、時間を守ることは良い事だから別にそれが羨ましいなんて思うわけではない。

 けれど、日本という国はどうしてこうも時間に正確なのだろうか。むしろ時間より早く来て当たり前ですらある。一体、誰がこんなことを広めたのだろうか。絵のモデルにして五時間くらい同じポーズを取り続けさせたい。

 そんな日本人に染み付いてしまって逆らえない時間厳守精神を嘆きながらも、待ち合わせ場所である駅前の広場にある噴水が目前に迫っていた。

 結局、コーデは無難そうなものにした。

 胸元に水色のリボンとウェストにベルトの装飾がある、膝上十五センチ丈の淡いピンク色をしたワンピース。その上には白いカーディガンを羽織って、それと同色でフリルの付いたレースソックスに足を通し、五センチくらいのヒールがある淡いピンクのエナメルパンプスを履いている。

 うん――無難なはずだ。おかしくないはずだ。

 別に誰か知らない人からどう思われようが全く気にしないけれど、もしも、みや先輩からダメだしを受けたら流石の私でも傷付きそうだ。

 なんて、普段気にしない他人(というかみや先輩)からの評価を気にしつつも、みや先輩を待とうとしたが、どうやら彼女のほうが先に到着していたようだ。

 みや先輩は淡い緑のカットソーに黄色いフレアスカート穿いて、足元には白いミュールサンダを合わせてバッチリ可愛らしく――それでいて大人っぽく決まっていた。それに比べると私の服装、少し子供っぽいだろうか。

 それにしてもなにやら様子がおかしく、伺っていると――


「俺らとお茶しようよ。奢るからさ」

「すみません、人を待ってるので」

「まあそう言わずにさ。君みたいな可愛い子を待たせる彼氏なんて放っておきなよ」

「俺らと一緒のほうが絶対楽しいって」


 二十歳前後くらいの男性二人組みにから俗に言う、ナンパをされていた。

 一瞬、思考が停止する。どうすればいいのだろうか。これはちょっと予想してなかった。助けなければならないけれど、何かいい方法は無いだろうか。

 少しだけ逡巡して――恋人らしく助けに入るのも面白いかと思い、私は彼らに近付いた。

 それにしても、みや先輩をナンパするのならせめてナンパ師達はもう少し、顔面偏差値を上げてから来るべきだ。


「先輩」

「あっ佐奈、今は来ちゃ――」

「この子が待ち合わせの相手?」

「二人とも美少女なんて俺ら超ツイてんじゃん」


 私は登場したばかりだというのに、何故か彼らの中ではもうナンパが成功したことになっている。申し訳ないけれど、ちょっとその辺の精密検査が出来る病院でMRIでも撮影して提出してもらい、思考回路がどうなっているのか見てみたいものだ。

 テンションの上がっている二人組みを若干白い目で見ながら、私は先ほど思いついた“みや先輩救出作戦”を実行に移すべく――彼女の首に正面から堂々と手を回して抱き付き、その首元に顔をうずめた。それだけで、彼らは大いに戸惑った様子を見せる。

 そして、意識して甘えるような声で、言う。こんな声、出すのはいつ以来だろう。去年の誕生日、姉にプレゼントをおねだりした時だろうか。


「遅れてすみません、先輩。お待たせしました」

「さささささ佐奈!?」

「え、えっと……」

「俺らと……お茶……」


 事態が飲み込めていないのか呆然とした様子の二人だけれど、目的だけは忘れていないらしく、呆気にとられながらもナンパは続く。

 せっかくのみや先輩と遊びに行く休日を邪魔されたくない私は先ほどの甘い声から一転、決定的な一言を冷たく放った。


「私達、この通り付き合ってるので邪魔しないでもらえますか?」

「女同士で?」

「んなバカな……」

「本当ですけど。キスでもしたら信じてくれます?」


 そう言うや否や、私は唇をゆっくりと――みや先輩の顔へ近付けていく。これでダメなら、諦めて大声でも出すとしよう。駅前だから周囲に結構人は居るから、誰かしら助けてくれるかもしれないし、駅員さんが来てさえくれれば大丈夫だろう。

 しかしそうするまでもなく「わ、わかったから!」「俺らが悪かったよ!」と、少し焦った様子で二人は去っていった。

 それを確認した私はみや先輩から離れ、いつもの口調に戻して頭を下げた。


「先輩、いきなり抱き付いてすみませんでした」

「ふにゃあ……」


 軽く揺すったり、目の前で手を振ってみたりするも反応を示さない。どうやら彼女の思考も停止しているようだった。先輩! と少し大きな声で呼ぶとそれで現実に引き戻されたのか、ビクッと反応した。


「はっ!?」

「先ほどはすみませんでした。驚かせてしまったみたいで」

「ううん、そんなことは――それより、助けてくれてありがとう」

「上手くいってよかったです。結構引かれてた感じなので、もし変な噂が立ったらすみません」

「つ、付き合ってるのは本当のことだし、別に私は佐奈となら……。ところで、どうしてあんな方法を? 駅員さんを呼んでくるとかでも良かったんじゃ――」

「えっと……」


 一言だけ発し、私はみや先輩から視線を逸らした。助けを呼びに行くという考えよりも先に、ああやって助けたほうが面白そうだと考えてしまったのだから仕方ない。

 みや先輩の言葉で大分と冷静さを取り戻してしまった私の思考は己が行動を振り返り、先ほどまでの彼女に変わって今度は私が恥ずかしくなった。みや先輩からの初めてのお誘いで変な方向にテンションが上がってしまって、ランナーズハイみたくなっていたのかもしれない。

 彼女の私を見る目が心なしか、残念な子を見るそれになっている気がした。


「その――恋人らしく助けたら面白かなって、思いまして……」

「もう、佐奈!」

「は、はい……」


 流石に怒られるかな、と覚悟して――


「すっごく嬉しかったよ。ありがとう」


 今まで見た中で一番というくらい、みや先輩は満面の笑みを浮かべていた。

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