007. お姉さんはいいものかもしれない

 その日の放課後、部活の時間も瞬く間に過ぎ去っていき、下校する時間となった。昨日の今日だからデッサンはあまり進んでいないけれど、こればかりは地道に少しずつ完成に近づけていくしかない。野球のように一発逆転のホームランなどありはしないのだ。

 道具を片付けていると、私の傍に位置取っている橋本さんが視界に入る。今日も今日とてぽわぽわしていて、やや垂れ目なことがよりおっとりとした印象を強めている。その辺りがなんというか――そう、可愛らしい。くまやうさぎ、いぬでもいい。そういう動物系のぬいぐるみなんかを見て可愛いと思う、そんな感覚だ。

 だからなのか、橋本さんは同級生だけでなく先輩達からも可愛がられて、一種のマスコットのようになっている気さえする。無愛想(に見えるだけ)な私とは大違いだ。

 アンタは顔で損してるわね、とは母の談。顔を洗う時に毎日鏡を見ているのだから、そんなことは言われなくても知っている。見ていてこれほどつまらない顔というのも中々珍しいと思う。

 なんてことを考えていると今更ながら、佐伯せ――みや先輩はどうして私のことが好きなのだろうと疑問が浮かんできた。とてもじゃないけれど、顔で好かれてるとは思えない。

 本人に聞いてみればいいだろうか。答えてくれるだろうか――いや、きっとみや先輩は一所懸命に考え、恥ずかしがりながらも答えてくれるはずだ。

 でも想像してみてほしい。恋人ではなく仲の良い友人や家族なんかでもいい。とにかく、そういう近しい間柄の相手から自分の良い所、好きな所を目の前でいくつも挙げられる状況を。それはもう恥ずかしいやらこそばゆいやら、平常心で居続けることは大変難しいことだろう。

 うん、そうだ。だから、聞くのはまた次の機会でいいと思うのだ。

 そうやって謎の葛藤と戦いながらも片付け終えたところへ、ちょうどみや先輩がやって来た。


「佐奈、片付けは終わった? 一緒に帰ろう?」

「ちょうど終わったところなので大丈夫です、みや先輩」


 なんだか少しだけ周りが静かになった気がするし、視線が私達に向けられているような感じもした――けれどそれはすぐに無くなって、各々片づけをしながら雑談に励んでいた。

 私はどことなく居づらいような気がして、みや先輩の後を追って足早に美術室を後にした。

 下駄箱へ向かって廊下を歩くみや先輩の左横へ並ぶと、私の指の間に彼女の指が割って入ってきて、それを絡めるように手を握られた。私よりいくらか背の高い彼女の顔を見上げれば早くも羞恥心は克服したのか――まだ少し赤みが差している気もするけれど、ただ嬉しそうなだけに見受けられた。


「昨日は恥ずかしそうにしてましたけど、今は平気なんですか?」

「えっと……慣れちゃった、かな?」

「順応早すぎです。手を繋いでも、もうからかえないじゃないですか」

「からかわれてばかりじゃ嫌だもん。それに先輩として余裕のあるところ見せなきゃ」


 やはり先輩というのは後輩に良く見られたいものなのだろうか。私自身、家では一番年下だし、中学の時だって特にこれといって仲の良い後輩は居なかったから、年下から良く思われたいという感覚はあまり分からない。

 だから――もし、私にそういう後輩が居たとしたなら。性別はともかくとして、交際したいと思えるくらいの後輩が居たとしたならば、私だって良く見られたいと背伸びしてお姉さんぶったりするのだろうか。

 お姉さん。そのワードから最初に思い浮かぶのは、真に遺憾ながら我が姉だ。確かに、こう――大事にされている感はある。あるのだけれど、向けられる愛情に物理が混じっていて、少なからず身体的な被害が発生してしまっているのが問題だ。別に嫌なわけではないけれど。

 そして次に思い浮かぶのが、みや先輩だ。優しくて品があり、面倒見も良いから非常にお姉さんっぽい。下手をすれば我が姉よりもお姉さんかもしれない。

 そういうふうに後輩から慕われるのであれば――うん、お姉さんも良いかもしれない。と思ったところで突然、右腕に圧を感じた。


「だ、だめだよ! 佐奈は私のなんだから!!」

「へっ? いきなりどうしたんですか?」

「佐奈が急に“私が後輩と付き合うくらい仲良くなれば……”なんて言い出すから……」


 どうやら思考の一部が口から漏れ出ていたらしい。それでみや先輩が私を離さないとばかりに腕を抱き締めたようだ。


「すみません、少し考え事をしてました」

「浮気はダメだからね!」

「しませんよ。後輩と接する時に、みや先輩みたいになれれば慕われるのかなって考えてただけです。私、まだ一年なので来年の話ですけどね」

「それってつまり私みたいな年上より、年下のほうが良いってこと!?」

「そういう話じゃないですってば。みや先輩って、結構やきもちやきなんですね」

「だって…………好き――なんだもん」


 その一言で少しだけ――照れた。私が。

 自分で言うのもなんだけど、私が照れるのなんて本当に珍しいと思う。姉から「佐奈ちゃん大好き!」なんて言葉を浴びせられるのが日常茶飯事な私は、それに慣れきっているせいなのか(その人には申し訳ないけれど)多少の好意を向けられる程度では特に心動かされることは無い。そんな――悲しくも姉に調教されて反応の鈍くなった私の感受性だけれど、真っ直ぐなみや先輩の言葉はしっかり受信してしまうようだ。

 照れて少し赤くなったかもしれない顔を見られたくなくて――


「ほ、ほら、早く帰りますよ」

「あれ? 佐奈、もしかして照れてる?」


 咄嗟に顔を背けてそんなことを口走ってしまったから勘付かれた。


「そんなわけ無いじゃないですか。いつも通りのつまらない顔ですよ」


 それでも誤魔化すために、今だ私の腕を抱き締めている先輩を半ば引きずる様に前を歩くようにする。多少強引かもしれないけれど、そうでもしなければ間違いなく顔を見られてしまう。


「つまらなくなんてないけど……残念、見れなかった」


 私の奮闘虚しく、結局みや先輩にヒョイっと顔を覗き込まれてしまった。しかし、その時には既にいつもの顔に戻っていた私は防衛することに成功したのである。

 そんなこんなで昇降口にて靴に履き替え、少し歩くだけでもう校門だ。みや先輩と別れるT字路へ着くまでもうあと十分と無く、今日話しておく事は他に何かあるだろうかと考える。明日から土日のため休日で二日間学校に来ないのだから、当然会う機会も無くなってしまう。我が美術部は基本的に平日しか活動しないため、部活を理由にすることも出来ないのだ。

 だからと言って別段、重大な話があるわけでもなく、世間話程度の些細な内容で構わない。それにしても後から電話で話すことだってできるけれど、どうせ会話するのであれば今、直接したほうが話し甲斐もあるというものだ。


「今週も学校終わったので、これで二日間ゆっくり休めますね」

「そうだね」

「先輩、この休みは何するんですか?」

「え、えっと――することというか、したいことがあるというか……」

「したいことがあるのなら、すればいいんじゃないですか?」

「それには……相手の都合も関係あって……」


 イマイチ煮え切らないみや先輩に私はただ首を傾げ、ボディランゲージをもって「どういうことですか?」と、また少しそわそわしだした彼女へ無言の質問を返す。すると、校門を出て少ししたあたりから私の手を握っていた彼女のそれに、少しだけ力が入った。


「頑張れ、私……」

「ん、何か言いましたか先輩?」

「ううん、何も。それより佐奈はこの休みはどうするの?」

「私ですか? 私はいつもどおり絵を描くか、本を読んだり、散歩したりしようかなって思ってるくらいですけど」

「つまり……そんなに忙しいわけじゃない?」


 今の私の予定を聞いて、忙しいと思う人は居ないだろう。そしてみや先輩の言うとおり、特にこれといった予定がないからそういうことをする。別に友達が居ないわけではない。決してそういうわけではない。高校生ともなると、例え土日であっても勉強や部活に時間を費やすことが多くなるというだけだ。だから大抵は皆、予定が合わなくて遊べないというのが正しいだろうか。

 美術部みたく土日が両方休みな、嬉しい完全週休二日制の部活というのは圧倒的に少数だ。もちろん個人的に休日活動の届けを出せばその許可は貰えるけれど、私の場合は両親から家の一室をアトリエとして使わせてもらっているからわざわざそうする必要もなく、実質的にはそこで自主的に部活に勤しんでいると言っても過言ではない。それに小学生だった頃は絵画教室に通っていたこともあってか、休日=絵を描くという式がいつの間にか成り立っていた。そういうわけで――そう、予定が合わないだけで決して友達が居ないわけではないのだ。


「はい、そうですね」

「それじゃあ、よければ明日――デート、しない? なんちゃって……」

「デート――」


 それは日時や場所を定めて会うこと。一般的に食事、ショッピング、観光や映画に始まり、展覧会や演劇、演奏会の鑑賞、遊園地のアトラクション、夜景などを楽しむなんていう、カップルの行為だ。

 ああ、そうだ。私達は付き合っているのだ。カップルなのだ。女の子同士だけども。ならば休日にそうして二人きりで遊びに行くのも何らおかしくない。みや先輩も私との交際が始まったからきっと、デートに誘う踏ん切りがついたのだろう。


「構いませんよ。行きます」

「やった! ふふっ」


 今の今まで期待と不安が入り混じった仔犬のような顔をしていたみや先輩はうってかわり、嬉しさを表現してか私の右腕を抱き込むように絡み付いてきた。こういうのは身長が低い側がするから可愛く見えるのでは? と少し思ったけれど、小さい子に大型犬がじゃれついていると考えればそれはそれで微笑ましく、今まさにそういう状況ではないだろうか。

 もちろん私は別にロリータに当て嵌まる顔や体型ではないし、相対的にそう見えるほどみや先輩より小さいわけでもない。要はイメージの話ということだ。

 デートの約束をしている間に早くもT字路に到着してしまったようだ。


「もうここまで来ちゃった。もっと家が近ければ……いっそ隣だったら毎日ずぅっと一緒に居られるのになぁ」

「そんな漫画みたいなことありませんよ」

「でも隣同士だったら、私もお姉ちゃんって呼んでもらえたのかな」

「それは……呼んでたかもしれませんね。でもそうすると、きっと付き合うことは無かったと思いますけど」

「ダメ! それはダメ! 家、離れててよかったぁ」

「もう、どっちですか」

「うぅ……」


 そんなやり取りをしたあと、みや先輩はまた家に帰ってから連絡する旨を告げて帰っていった。その嬉しそうな背中を少しの間だけ見送り、私もまた帰路に就いた。



 帰宅すると例によって例の如く姉の襲撃を受けるも、本日も華麗に受け流して手洗いやら着替えやらを済ませて食卓に着く。

 やはり父は仕事のため居ない。でも毎年、誕生日や父の日に何かしらプレゼントをあげると文字通り号泣し、そうでなくとも普段から娘二人を溺愛している親バカっぷりを遺憾なく発揮しており、ちゃんと母のことも大切にしている。そんな良い父だから、平日でもご飯くらい一緒に食べたいなと思うのだ。

 それはそれとして、やはり食欲には勝てないので母作の美味しいに決まっているご飯を食べ始め、少ししたところで明日の予定を告げておくことにする。


「お母さん、私、明日出掛けるね」

「随分珍しいじゃないの、いつも閉じ篭って絵ばかり描いてるのに」

「誰と出掛けるの!?」


 ガタッと姉が立ち上がるほどの反応を見せる。母は母でなんだかニヤニヤしているし、きっと私の言葉の意図を瞬時に理解したのだろう。おそらく私に彼氏が出来たと考えているに違いない。

 普段、私は画材だとか本だとか、何かを買いに行く時はその目的の物を買いに行くと名称を出して告げている。だけど今日はソレをしなかった。曖昧にただ“出掛ける”とだけしか言わなかった。

 私という人間を理解してくれていて嬉しくもあり、理解されすぎていて少しばかり嫌でもある。迂闊なことを言おうものならもの凄く追求されるのだ。もちろん姉に。そしてまさに今からソレが起きるのだけど、逆に言えば意図的にこの状況を作り出せるということでもある。


「先輩と。遊びに行こうって誘われたから」

「あらあら、青春ねぇ。お父さんが知ったら泣くか怒るか」

「お母さん、佐奈ちゃんに彼氏なんて要らないの! 男は皆ケダモノよ佐奈ちゃん、そいつだってきっと体が目的なのよ! すぐ断りなさい!! 私の佐奈ちゃんは誰にも渡さないわ!」


 ほら、やっぱりこうなるのだ。誰かと遊びに行くと言えば、必ず姉は誰と行くのか聞いてくる。嘘は吐きたくないからいつも正直に言っているけれど、今回は結構秘密にしておきたいプライベートを知りたがるのだから、その代金として少しくらいからかいたいと思うわけだ。それに、あえてこんな言い方をしておけば、仲の良い同性の先輩が出来たのだと思ってくれるはずだ。

 それに、みや先輩と付き合っている――なんてそこまでバカ正直に言う勇気は、流石に今の私には無かったのだ。


「私はお姉ちゃんのじゃないし、それに私が彼氏作るのは私の自由でしょ?」

「ああ……佐奈ちゃんが毒牙に……」

「それで佐奈、相手はどんな子なの?」

「待って、名前を聞いたら呪わずにいられ――」

「部活の先輩だよ。佐伯美弥子先輩」

「へぇ、部活の……えっ?」

「女の……子?」

「私は彼氏出来たなんて一言も言ってないんだけど」


 そう、一言も言ってない。彼氏なのか彼女なのか分からない存在は居るけれど。


「佐奈にもついに春が来たのかと思ったけれど、残念ねぇ」

「それならそうって最初から言ってよぅ。佐奈ちゃんに悪い虫が付いたんじゃないかって、お姉ちゃん本当に心配したんだからね!」

「お姉ちゃんは私の心配するよりもまず、自分に彼氏作るほうが先じゃない?」

「私には佐奈ちゃんが居るからいいの!」

「はいはい……」


 私にからかわれていただけだと気付くと、母はどこか少し残念そうに、姉は安心感から脱力していた。もしご飯中でなければきっと、溶けてしまったかのようにテーブルに突っ伏していたことだろう。

 それにしても姉よ、シスターコンプレックス――縮めてシスコンもここまで来ると私でももう手に負えない。この重篤患者を処置できる素晴らしい腕をお持ちのドクターは居ないだろうか。


「そういうことだから、明日はみや先輩と遊びに行って来るね」


 相変わらずの姉を残念に思い――そして、私は何等分かに切られたトマトを一切れ頬張った。それは少し酸っぱかった。

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