006. 髪様、佐伯様、みや先輩

 授業中、私は少しばかり頭を悩ませていた。授業内容とは全く関係の無いことで。

 というのも学校へ到着後、朝のホームルームが始まる前に植田さんに数学を教えていた時にそれは起きた。スマホのメッセージアプリがポロンと可愛らしく音を鳴らしたのだ。

 相手は佐伯先輩だった。その名前を見た瞬間――しまった! と、焦りが生まれる。昨日寝落ちしてしまって返信していないことを思い出したからだ。怒っていないだろうか。どうかお怒りでありませんように。どうか怒髪、天を衝いていませんようにと、祈るような気持ちでメッセージを開く。万が一、佐伯先輩のあの長くて綺麗な黒髪が逆立っていたのなら、それは海村定子とはまた違った意味で恐ろしい。


【登校の時、楽しそうだったね。手まで繋いでたけど……あの子、誰?】


 おお、髪よ――お怒りでいらっしゃる。天を衝いていらっしゃる。今の佐伯先輩ならば、ホラー映画ではなくワイヤー無しでも素晴らしいアクション映画が撮影出来そうだ。

 というのは冗談としても、昨日のことを早々に謝らなければと思っていたのだけど、それに関して佐伯先輩があまり気にして無さそう――なのかは分からない。もしかしたら気にしているのかもしれないけれど、しかし、どうやら植田さんとの一件をどこかで目にしていたようで、今はそっちのほうが重要ということだろう。

 恋人が自分以外の誰かと仲良くしているとやきもちをやく。それは現実だろうと創作物だろうと定番といえるものだ。佐伯先輩が今まさにそういう状態にある、というのは流石の私でも理解が及んだ。

 やきもち。

 実際にそれが生まれるとどんな気持ちになるのか、どう感じるのか。心の中はどうなってしまうのか。そんなことまでは分からないけれど、でも、少なくとも良い気分でないことだけは確かだと思う。


「どったの、さなっち?」

「部活の先輩からメッセージが来ただけ。気にしないで」

「そっか」


 スマホと睨めっこしていたのが気になったらしく植田さんが首を傾げて尋ねてくるけれど、それよりも今は課題を終えることのほうが優先だ。彼女の集中力を乱さないよう、スマホを鞄へとしまった――のだけど、その時にはもう手遅れだった。植田さんの視線は鞄へ突っ込んだ私の手元に向けられていて、こちらに興味が移っているのが丸分かりだった。


「植田さん、こっち見てないで早く問題解いて?」

「ねえさなっち――あたし、重大なことに気付いたんだけどさ、あたしら友達だけどまだメッセアプリのID交換してなかったよね?」

「植田さん、喋ってないで早く問題解いて?」

「交換しようよ! さなっちの連絡先知りたい!」

「植田さん、そんな暇があるなら早く問題解いて?」

「うわーん! さなっちが冷たいよぉ……グスン」

「植田さん、ふざけるくらいなら早く問題解いて?」

「うぅ、鉄壁の防御だ……」


 ID交換をせがまれるのは簡単に予想が付いていたから、私はあえて問題を解くように言い続けた。もちろんあまり時間が無いためだ。だって教室に担任教師がやってきて、朝のホームルームが始まるまであと十分もないのだ。ならばのんきにID交換など場合ではない。

 そこのところを理解しているのかしていないのか、植田さんは一向に問題を解こうとしない。さっきまでは確かにやる気があったのに、もう興味が完全に移りきってしまっている。普通にIDを教えては、そのままアプリの操作を始めて時間切れになりかねない。

 やる気を取り戻させつつ時間内に解き終えられる方法を、私は先ほどの会話から一つ、答えを導き出していた。


「ホームルームまでに解き終えられたら教えてあげるから、ちゃんと――」

「いいの!?」

「う、うん……」


 こんな人物が私のあの(ヘンタイ的な)姉以外に存在しようとは思いもしなかった。

 返事をするなり、すぐさま問題への取り組みを再開した。植田さんは、それはもうとても、この上ないほどに――チョロかった。

 私は気付いてしまったのだ。所謂、飴と鞭であり、鼻先にご褒美として人参ならぬ朝倉佐奈をぶら下げてやれば、容易く舵を取れてしまうということに。どうして私なんかがご褒美になるのかは全く以って理解し難いことだけども。

 そうして滞りなくホームルームまでに問題を解き終えられると思っていたのだけど――植田さん自身が言っていた自分はバカという発言に嘘偽りは一切無く、どうにも間に合いそうになかった。そしてやっぱり、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴るまでに終えられはしなかった。

 チャイムとほぼ同時に担任教師が入ってきたので、その直前――解けなかったからIDは教えてあげないとイジワルしてみたら、植田さんはこの世の終わりであるかの如く絶望していた。それはちょっと大げさじゃないだろうか。

 しかし取り組んでいた問題は一時間目が終わった後の十分休憩に続きをやれば、ちゃんと二時間目の数学が始まるまでに終えられるところまできている。流石にその時間まで放置するのはかわいそうだったから――


「次の休み時間に続きすればちゃんと間に合うから。そしたら教えてあげる」


 担任教師が出欠の点呼を取る中、小声でそう伝えると植田さんの顔はパァっと一気に明るくなっていた。これで一時間目の授業もやる気が持続して受けてくれることだろう。いや、もしかするとメッセージアプリのことばかり考えてまるで聞かない可能性もあるけれど、そうでないことを祈ろう。

 そこから少しして授業が始まった後、佐伯先輩からのメッセージを思い出して頭を悩ませているわけだ。

 どうしたものか。なんと返せばいいのだろう。

 いや、誰? と聞かれればクラスメイト、或いは友達と答えるしかないのだけど――あの文面からして佐伯先輩がやきもちをやいているであろうことは単純明快な事実。けれど私がその気持ちを理解していないこともまた現実で、その返答以外にも選べる言葉があるのでは? と考えてしまい、結局返事が出来ないのである。

 返事をしたのは授業が始まってゆうに二十分は過ぎてしまったころで――結局、同じクラスの友達ですと答えるより他に案は思い浮かばなかった。

 私が授業中ということは当然ながら佐伯先輩も同じというわけで、返事が来るのは授業終了後の休み時間――あと三十分程度は先だと勝手に予想した矢先、机の中で音も無くスマホが一度だけ震えたのが分かった。教壇で授業を行っている教師に見つからないように取り出すと、送り主はやはりというか佐伯先輩だった。

 佐伯先輩、返信が早いです。早すぎます。もっとゆっくりでもいいんですよ。と、声にならない、文字にもならない抗議を心中に秘めながらメッセージを開く。


【それにしては随分と仲良さ気に見えたけど……】

【植田さんはいつもあんな感じです】

【そうなの? そう……朝倉さん、今日のお昼ご飯、一緒に食べない?】

【はい、構いませんよ】

【やった! じゃあまた連絡するね】


 教師にばれないように何度か素早くやり取りをした結果、私は容易く髪様のご機嫌を勝ち取った。あれこれ悩んでいたのがバカみたいだ。もっとシンプルに考えてしまってもいいのかもしれない。



 午前中最後の授業の終わりを告げるチャイムが校内に鳴り響く。つまりお昼休憩だ。佐伯先輩から誘われていた私はスマホをスカートのポケットに突っ込むと、お弁当の入った包みと水筒を持って席を立った。


「さなっち! どっか行くの? よかったら一緒にお昼食べない?」

「ごめんね。今日は部活の先輩と約束してて」

「そ、そっか……じゃあ来週! 来週一緒に!」

「うん、わかった」


 せっかく誘ってくれたところ悪いけれど、いくらなんでも佐伯先輩を放り出すわけにはいかない。断りを入れると、私は足早に彼女が待っているであろう中庭へ向うことにする。

 一年生の教室は校舎の三階で二年生が二階、三年生が一階と、学年が上がるごとに下の階へ移動するようになっている。私が佐伯先輩のクラスでご飯を食べようものならきっと異物のように浮くだろう。ただ学年が一つ違うというだけなのに上級生の中に一人下級生が混じるというのは、言葉にしてみれば別に大したことではないのだけど、当人にしてみればまるで異世界にでも迷い込んだと感じるのではないだろうか。

 それは植田さんのような性格の人ならば気にも留めないことかもしれない。でも、少なくとも私はそうだ。佐伯先輩もそういうところは理解してくれているのか、場所を中庭にしてくれたのだと思う。

 廊下を端まで抜けて階段を降り、中庭へ出られる別棟との渡り廊下を目指す。その途中ですれ違う生徒達の――もちろん全員ではないけれど、いくらかが私を見てヒソヒソ話をする。何もこれは昨日今日に限ったことではなく、中学二年の途中――詳細な時期までは覚えていないけれど、ある日、一人で廊下を歩いている時に気付いた。

 それらは常に小声だから内容までは分からないけれど、決して気持ちの良いものではなかった。陰口を叩かれない人なんてそうは居ないだろうから、それ自体は別に気にしていないし、今まで何か実害があったわけでもない。ただせめて、私の居ないところ、私に聞こえないところでして欲しいな、とは思う。

 中庭に着くと、やはりというか既に佐伯先輩が待っていた。


「すみません。お待たせしました、佐伯先輩」

「待ったよ、すっごく待ったんだから!」

「そんなにですか? チャイムが鳴って直ぐ来たので、長くても一分くらいだと思いますけど」

「私はもう三時間近く待ってたの!」

「もしかして一時間目の授業中からってことですか?」

「もちろん!」

「これからはそんな時間から待つの止めてくださいね。私にはどうしようもないので」

「だって楽しみだったんだもの。その……か、彼女と……お昼ご飯食べるの……」


 そう言って人差し指同士をツンツンと合わせて照れてしまう佐伯先輩。恥ずかしいのなら言わなければいいのに。最初は隣へ座ろうかと思っていたけれど、からかえそうな気がしたのであえてハンカチを正面に敷いて、彼女と同様にぺたん座り――所謂女の子座りと言われる座り方にした。男子ややんちゃな女子なら胡坐をかいたりするのだろうけれど、流石にそんな気にはなれなかった。

 そんな私と佐伯先輩の距離は――近い。それはもう驚くほど近くに座ってみた。互いの膝の距離が五センチメートルも無いくらいに。思ったとおり、先輩は少し赤くなっていた。

 どうしたのかとわざとらしく問えば、何でもないとちょっといじけたように答える佐伯先輩。やっぱりからかい甲斐のある人だった。


「うわぁ、おいしそう」


 お弁当の蓋を開けると早速、佐伯先輩が食い付いてきた。別に大したものは入っていない。白米、卵焼き、ウインナー、切干大根と人参の煮物、ポテトサラダ、プチトマトにブロッコリーだ。

 佐伯先輩のお弁当を覗いてみると、入っている種類の構成はそう変わらないけれど、やはり人の――というか私のおかずが気になるのかキラキラした期待の眼差しで見つめてくる。


「何か交換します?」

「する!」

「どれでも好きものどうぞ」

「じゃあ卵焼きもらうね――おいしい!」


 一口でパクリと食べて卵焼きの味を噛み締める先輩は顔は幸せそうだった。


「お口に合ったようでなによりです。私の味付けも捨てたものじゃありませんね」

「こ、これ朝倉さんが作ったの?」

「はい。いつもじゃないですけど、今日は自分で作りました」

「そんな……もっと味わって食べればよかった」


 ガックリとうな垂れる佐伯先輩に、さっき十分に味わって食べてたと思います――と言いそうになったところで何とかその言葉を飲み込んだ。一応付き合っているわけだし、それっぽい振る舞いをするべきではと思い至ったから。


「それじゃ、もっと食べますか?」

「いい……の?」

「というかそんなに食べたいのなら、もういっそお弁当箱ごと交換します?」


 私の提案を即座に受け入れた彼女は心底嬉しそうに食べていた。私としても他の人のお弁当を食べれば今後のおかず作りや味付けの参考にもなるし――というちょっと計算が入ったものだったけど、特に誰かが損をするわけでもないわけだから良しとしよう。

 それから雑談を交えながら昼食を終え、食後のお茶を飲んでいたところで私から切り出した。


「先輩、昨日の夜は返信出来なくてすみませんでした。返事を考えてる内に寝てしまって」

「仕方ないよ。時間も遅かったし、気にしないで」

「そう言ってもらえるとありがたいです。それと朝の件ですけど、植田さんは本当にただの友達です。先輩が心配するようなことはありません」

「そ、そっか。でも――――じゃない」

「佐伯先輩?」

「ううん、なんでもない」


 朝の植田さんと同じで何か呟いていたけれど、やっぱり今の私では一度聞き返して話す気が無さそうなところへ踏み込んでいくのは、相手が佐伯先輩といえども難しいようだ。

 そうして何か次の話題を――と思ったところで、佐伯先輩が少し緊張した面持ちで口を開いた。


「あの、さ……」

「何ですか?」

「えっと……お、お茶のおかわりはどう、佐奈・・?」

「はい――えっ?」


 おかわりを問われ、コップを見れば残っていなかった。どうも佐伯先輩が注いでくれそうな感じだったので、コップを差し出そうとして名前を呼ばれ――思わず先輩を凝視した。


「ご、ごめん朝倉さん! 勝手に名前呼んじゃって……」


 佐伯先輩がそんなことでまた悩んで、そして緊張していたのかと思うと、少し可笑しくなった。昨日の下校時以降、告白前の何でもこなす凄い先輩というイメージがどんどん崩れていっているけれど――でもどうしてだろうか。全く、これっぽちも、失望感のようなものは無かった。


「ねえ先輩――先輩は私の先輩で、彼氏? 彼女? なんですから、そんなに気を使わなくていいんですよ。気楽に名前で呼んで下さいね、美弥子先ぱ――みや先輩!」

「うん、佐奈!」


 みや先輩が笑顔で注いでくれたお茶はさっきまでと同じ味のはずなのに、なんだかとても格別な味に感じた。

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