003. 姉、襲来
お腹よ、家に着くまで鳴るんじゃないぞ! と自らの胃と格闘しながら歩くこと約十五分。私は朝倉と表札のある一軒家に到着していた。いつもなら佐伯先輩と別れた地点からもう少し掛かるところ、今日は少し足早に帰ってきたため、気持ち早く着いていた。もちろん早くご飯が食べたいからに他ならない。
お腹が鳴ることなく無事に家まで辿り着いてホッと一息を吐いた。いくら私でも人並みに恥じらいくらいはある。それが
だがしかし、この家には非常に危険な人物が居るのだ。交通事故だとか不審者だとか、そんな目に遭うことも無く自宅の玄関前まで来たからといって安心することなかれ。むしろこの後――家の中でこそ私の真なる戦いの始まりとなるのだ。
戦いに赴くために気合を入れなければならないから――ふぅ、と先ほどとは違う息を吐いて意を決し、ついに私は玄関を開けた。気配は無い。どうやら今日、ここは安全地帯のようだ。酷いときはここで襲撃を受けることがあるからいつも気が抜けない。
私はまだ二ヶ月履いただけの、高校入学に際して買い換えた綺麗な黒いローファーを脱ぐと、静かに隅へ並べる。そして同時に
リビングを通らなくても自分の部屋には行ける。玄関に入ってすぐ右手に二階への階段があり、そこが私の部屋に繋がっている。けれど食事をするには結局リビングへ行かなければならないわけだし、そもそも私が足早に帰ってきたのだってお腹が空いているからだ。そう、私はご飯が食べたいのだ。つまりはそういうわけで、覚悟を決めなければならない。
今一度決意を新たに、止めていた手をドアノブへと伸ばし――私の手がそこに届くことはなかった。それよりも早くガチャリとノブが回るとほぼ同時にドアが開き、影が勢い良く飛び出してきた。
「おかえりなさい!!」
「わっ!?」
出迎えの言葉と共に、ここがレスリングの試合会場であるかのごとく、古田沙俣里ばりのタックルで熱烈な歓迎を受ける。実際の所はただ抱き付かれてるだけでしかないけど、ことわざにもあるように腹が減っては何とやら。今の私にそれを受け止められるだけの力は無かった。であるなら、結果も自ずと見えてくる。
どうなったか?
尻餅をついた。
二人揃って倒れこみ、私に覆いかぶさるような形で密着しているタックルをかましてきた犯人――それが父親であったなら悲しいけれど警察に通報しなければならないし、男兄弟であったなら遺憾ながら警察に通報しなければならない。身内から性犯罪者が出るのは非常に忍びないけれど、自分の身を守るには致し方ないことだ。分かってほしいし、ちゃんと更生してもらいたい。
しかし父親は大らかな人で決してこんなことをする人ではないし、男兄弟に至っては存在しない。その代わり――というわけではないが、私には姉が居る。
「会いたかったよぉ、佐奈ちゃん!」
私が帰宅すると毎日タックルを見舞い、頬擦りしてくるほど妹が好き過ぎる姉が。これ、通報すれば連れて行ってもらえるんじゃないかと常々思ってるけれど、彼女なりに私を大切にしてくれているのを知っているから、今のところ通報の予定は無い。
姉は大学二年生で、今年二十歳になる。四年という月日は外見に差を生み出すには十分過ぎるようで、姉妹でも彼女のほうが大人びていてお姉さんに見えるのは否定できない。
お姉さんといえば佐伯先輩は私より一つだけ上でしかないのに、彼女も随分と大人びて見える。これ、もしかして私の成長が遅いだけなのだろうか?
肩にかかるより少し長めくらいな私の二倍くらいは長さのある、手入れの行き届いた艶やかな黒髪を踏まないよう、気を付けながら姉を引き剥がす。私は被害者であるはずだけど、ちゃんとそういったところには気を使っている。姉よ、太古より今日に至るまで貴女の髪が無事なのは、気遣い上手な妹のおかげであることを理解してもらいたい。そして理解したのならもうタックルはしてこないで欲しい。
「もう、お姉ちゃん! 毎日毎日抱き付いてくるのやめてって言ってるでしょ」
「佐奈ちゃんに怒られちゃった――うへへ」
「はぁ……せめて頬擦りだけは止めて欲しいんだけど」
「そんなの無理よ、無理。佐奈ちゃんが超絶可愛すぎて止められるわけないじゃない」
「姉妹だし同じような顔してるんだから鏡でも相手にして悶えててよ」
「そんなこと――もうしてるに決まってるでしょ!」
ええ……。自分で言っておいてアレだけど、我が姉ながらすでにそんな領域にまで踏み込んでいるのかと思うと――想像してポーカーフェイスのままちょっとだけ引いた。でも何だかんだ姉に甘く、明確な抵抗をせず彼女のしたいままにさせているの私にも原因の一端があるのだろう。
「ああ――佐奈ちゃん、今引いたでしょ!? お姉ちゃん分かるんだからね!」
「そんなことないよ」
「絶対引いてた!!」
「うん、ちょっと引いた」
「やっぱりぃ……」
それにしてもこの姉、何が困るかって――他の人ならまず気付かない、私の微妙な表情の変化を読み取ってしまうことだ。長年一つ屋根の下で暮らしてきただけあって、さすが血の繋がった姉妹だと関心させられるし、気付いてくれて嬉しいと思う反面、気付かなくていい所まで読み取られるせいで迂闊に表情を変えられないのだ(家族以外の人からすると変わってるように見えないみたいだけれど)。
しかしそれより、もっと大事なことがある。今は六月下旬。もう夏だ。そして一日外で過ごしてきている。つまり端的に言えば、いくら姉妹とはいえ密着して匂いを嗅がれたくないのである。
「それよりお姉ちゃん――私、汗もかいてるし、ね?」
「佐奈ちゃんは汗をかいてても良い匂いだよ――スゥゥ」
「ちょ、ほんと止めてってば。恥ずかしいから!」
「恥ずかしがってるのに表情変わってない、でもお姉ちゃんには恥ずかしがってる顔だって分かるからね、大丈夫よ! ああ、恥ずかしがってる佐奈ちゃん、なんて可愛いの」
ダメだこの姉、誰か早くなんとかしてほしい。やっぱり通報するべきかもしれない。それに何が大丈夫なのか分からない。彼女は一体何処まで行ってしまうのだろうか。前から分かっていたことだけど、もう私の手には負えないと、諦めの境地に達して(私的に)ジト目で見ていると――
「
「えぇ……まだ佐奈ちゃん成分が足りないんだもの」
「駄々捏ねてると佐奈を取り上げるわよ」
「むぅ。わかったぁ」
朝倉家を支配する神の一声で解放されたはいいものの、母よ、そんな幼子の躾のように言わないでもらいたい。私は姉のおもちゃじゃないぞ。(ちょっとばかりヘンタイ的な)姉バカのせいでチョロすぎるあまり、私を餌としてぶら下げさえすれば簡単にコントロール出来てしまうのは認めるけども。
「おかえり、佐奈。毎度の事ながらあんたも大変ね」
「いつものことだけど助かったよ、お母さん。ありがと、それとただいま」
「いいのよ、早く着替えてらっしゃい」
「うん」
ようやく開放された私は洗面所で手洗いうがいを済ませると、早々に自室へと向かった。
自室へ一歩踏み入ると――そこは
部屋に入った直後から聞こえてくるエアコンの動作音。私は夏や冬の暑さ、寒さが厳しい時期になってくると毎朝、部屋を出る前に帰宅する時間を見越してタイマーを設定している。それが意味するのは既にこの部屋が冷やされているということであり、この一室だけ外界との繋がりを絶った別世界にすら思えるほどだ。
実際、誰かに別世界みたいだなんて口にすると、それは言いすぎだと思われるかもしれない。でも、だって、事実なんだもの。何故なら設定温度は二十四度。その上、部屋の広さに対してエアコンが大きくて凄く効く。だから冗談でもなんでもなく、本当に冷蔵庫のように冷えていると感じる。
正直なところ、入って暫くは涼しいと思っているけれど、ある程度時間が経つと結構寒い。でも温度を上げることはしない。その寒い状態で毛布や羽毛布団に包まって暖かくして寝る。布団に入ってから寝付くまでのこの上なく極上な――至福の時間だとさえ思う。それは一度体験すると病み付きになって止められない。冷房中毒とでも言うべきなのかもしれない。そんなものがあるのなら患者はとても多そうだ。
そんな寝る直前の楽しみに思いを馳せながら私は、姿見の前でスカート、ブラウス、ハイソックスと衣類を順番に脱いでいく。鏡に映るは淡いピンクの下着だけを身に着け、柔肌を露にしている自分。アスリートの様に筋肉質で締まっている訳じゃないし、かといって無駄にお肉が付いてブヨブヨな訳でもない。なんてことのない、(体重的な意味で)至って標準的な体系であることに今日も安堵する。
そんなことを思っている内に、エアコンによって冷やされた空気が火照った私の体を包み込み、急速に熱を奪っていく。それがまた生き返ったような気分で気持ち良い。
しかし、いくら体を冷やしたところで汗によるベタつきまでどうにかしてくれる訳じゃない。汗拭きシートを取り出して、全身をくまなく拭いていく。特に汗をかきやすい腋や胸の下側なんかは少しばかり長めに拭く。姉の嗅覚センサーに引っかかろうものならさっきの二の舞になってしまうだろうから。いくら家族とはいえ、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
拭き終わった私は、家に居るときくらい楽な格好をしていたいものだから、キャミソールとホットパンツというなんともラフな格好に着替えた。そして脱いだ服を脱衣籠へ持って行こうと手にした時――それは起こった。
きゅううう……と(自分で言うのもアレだが)可愛らしくお腹が鳴ったのだ。
反射的に入り口を見る。
「はぁ……よかった」
流石に誰か――というか姉は居なかった。他の人に聞かれたところで私は別に気にしない。しかし姉はダメだ。もし聞かれでもすれば、また何かと絡んでくることだろう。うっとうしいことこの上ない。あのやたら絡んでくるところさえなければ、優しくて本当に良い姉だと思うのだけど。
ホッと一安心した私は空腹を訴えて、つい先ほど警鐘まで鳴らしてきた胃袋様を静めるべく部屋を後にした。
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