002. 彼女がゲシュタルト崩壊
初夏も過ぎて日没までの時間が長くなったとはいえ、午後六時を回れば日も大分と傾いて夕闇がすぐそこまで迫っている。しかしながら六月下旬の日差しは夕暮れ時でもなかなかに強く、帰宅する程度ならば困らないくらいの明るさはあった。
学校を出て帰路に就いた私の隣には、目を赤く腫らしながらも嬉しそうにしている佐伯先輩が居て、また少し意地悪をしたくなった。
「ねえ先輩」
「何?」
「帰る方向は同じだけど、学年が違うのにどうして一緒に下校してたのか疑問だったんですが、でも今日の告白を聞いて合点がいきました。そんなにしょっちゅう一緒に帰りたくなるほど私のこと好きだったんですね」
「う……そ、そうだよ」
いつも余裕たっぷりで、今の今までルンルン気分で上機嫌だった佐伯先輩。しかし私の一言で羞恥を覚えたのか、若干涙目になりながらその顔を真っ赤に染めた。そんな表情がコロコロ変わる彼女を見るのはとても新鮮で、見ていて飽きないし――なんだか加虐心を煽られているかのようだ。
私にSっ気など無かったはずだけど、佐伯先輩が実は相手をそう目覚めさせる天才的なドMの変態さんなのかという疑惑が浮上した。勿論そんなこと彼女には口が裂けても言えないけれど。
そんなことを考えていると――落ち着いた雰囲気がデフォルトの佐伯お姉さん先輩にしては珍しく、視線の向かう先が頻繁に変わり、なんだか妙にそわそわしていることに気付いた。
「どうかしましたか、先輩?」
「え? あっ、えっと、その……」
「先輩の彼女になったんですから、何でも話してくださいね?」
「そ、そう……? それじゃ、あ、あのね――」
それにしても、自分で言っておいてアレだけど、この場合、私は彼女なのだろうか? 彼女――それは男性と交際している女性を表す言葉。じゃあ女性同士の場合はどうなのだろう。二人とも彼女になるのだろうか? 私は佐伯先輩の彼女で、佐伯先輩は私の彼女――そもそもこの場合において彼女という定義を当て嵌めていいのだろうか? あれ、彼女って何を指す言葉だっただろうか? ああ、もう、なんだか彼女のゲシュタルト崩壊が起きそうだ。
それはそれとして、やはり言い辛いことなのか、やや間があって――
「その……手を、繋ぎたいなって……」
「………………え?」
必死に声を絞り出した佐伯先輩に、私はたっぷり五秒を使ってなんとも素っ頓狂な声を出していた。
その言葉の意味を頭の中で反芻する。いや、そのままの意味でしかないのだけど、どうしてそんなことを聞いてくるのだろうと考えたところで一つの結論に至った。そういえば佐伯先輩と手を繋ぐなんてこと一度もしたことが無かったと。
女の子同士で手を繋いで歩くのは別に珍しいことではない。校内は勿論、駅前やらデパートやらでもそういった光景が日常的に見られる。でも私と佐伯先輩が手を繋いだことが無かったのは、私自身が積極的に誰かと手を繋ごうとするような性格ではなく、彼女からもそういったアクションが無かったために同様なのだと思っていたが、どうやら違ったようだ。
今にして思えば佐伯先輩は私のことが好きで、手を繋いだらそれがバレてしまうと考えていたのではないだろうか。だからこういう形であれ、付き合うことになったから切り出してきたと。
「ダメ……かな……?」
「いいですよ」
「――ほ、ほんとに!?」
「はい」
私から了承を得られた佐伯先輩は心底嬉しそうにして、互いの指同士を絡ませるように手を握ってきた。握手っぽく普通に繋ぐのだと思っていたから内心少し驚いたけれど、世間の彼氏彼女はこんなふうに手を繋ぐものだ――と、一応知識としてはある。それに私は形式上、佐伯先輩の彼女なのだし、実際に繋いでみても嫌な感じはしないから特にやめる理由も無かった。
「手を繋いだだけなのに嬉しそうですね、先輩」
「あ、当たり前だよ! 好きな人と手を繋いでるんだよ、嬉しいに決まってるじゃないの!」
佐伯先輩は足を止め、やや興奮した様子で力説してくる。
しかし、非常に残念なことに私にとって手を繋ぐという行為は、物理的に接触しているという認識でしかなかった。佐伯先輩以外の人――例えば母親や姉、それに友達と同じ事をしても今と同じようにしか思わないだろう。
だからどうして
「ほら先輩、早く帰りますよ」
「あ、ちょっと待ってよ」
そんな気持ちを誤魔化すように私は繋いだままになっている先輩の手を引いて歩き始めると、彼女の握る力が先ほどまでよりも少しばかり強くなった。
「それにしても先輩が女の子を好きになる人だとは思いませんでした。そりゃあ彼氏が出来るはずないですよね」
「えぇ、それはちょっと酷くない? 私だってその気になれば彼氏の一人や二人くらい出来るんだから!」
そう言って佐伯先輩はリスか、はたまたハムスターの如くほっぺを膨らませる。そんな可愛らしいことをするから余計にイジりたくなるのが分からないのだろうか。普段こんな顔は全くと言っていいほど見せてくれないのだけど、今日は随分とガードが柔らかいようだ。
「じゃあ彼女なんて作ってないで、さっさと彼氏を三人でも四人でも作ってくださいよ」
「それは嫌! 私は朝倉さんがいいの」
「美人の先輩にそう言ってもらえて私は幸せ者ですよ」
「でしょ? でしょ?」
「美人という部分は否定しないんですね」
「あはは……これでも一応容姿にはそこそこ自信あるつもりなんだ」
「ところで――それが素の先輩なんですか?」
その質問をした直後、佐伯先輩はまるで壊れかけの機械を彷彿とさせるように、あまりにもぎこちない動きで頭を明後日の方向へ向けた。その上、口笛を吹く真似事まで始める始末。でも佐伯先輩、口笛吹けてないぞ。
「な、な、なんのことかなぁ?」
「もう今ので大体分かりましたよ」
「うぅ……」
「だって頼れる先輩ってところ見せたかったんだもの。朝倉さんに」
「確かにそんな印象はありましたね――今はちょっと幻滅しちゃいましたけど」
「……や、やっぱり?」
ガックリとうな垂れていた佐伯先輩が、今度は仔犬のような目で不安げに見つめてくる。やっぱりこのコロコロ表情が変わるのが彼女の素で間違い無いようだ。いつも微笑を浮かべていてあまり表情が変わらないという点において親近感を感じたりもしていたけれど、どうやらそれは間違っていたらしい。
「冗談ですよ。いつも笑顔の先輩も良かったですけど、私は今のほうが良いと思います」
「ホントに!?」
「はい」
私は感情による表情の変化が乏しいようで、良いとクールビューティー、普通でポーカーフェイス、悪いと感情が無いとか何考えてるか分からないとかなんとか。そんなことをたとえ冗談でも私に面と向かって言えるのは親くらいだけども。学校では精々ポーカーフェイスくらいまでだ。
そんなだから、せっかく自己評価ではそこそこユニークな性格をしているのに――しているはずだけど、それが表に出辛くて、早々私にギャグを吹っかけてくるような人が居ないのが目下、私の悩みの一つだったりするのだ。おかげで今も佐伯先輩が本気で信じかけていた。
でも、これからは佐伯先輩がそれをしてくれそうだと少し期待している。その時は私も全力で応えたいと思う。
「ところで先輩、
「うん、そのつもりだよ」
「モチーフとか構図はもう考えてたりします?」
「それはまだかな。簡単には良いアイデア出てこないもの」
「わ、それは意外ですね。先輩はそういうのササッと出てくる人だと思ってました」
「よく言われるけどそんなことないからね? いつも苦労してるんだから。そういう朝倉さんはどうなの?」
「実はですね……何を隠そう私も全然です」
「そっか。でもまだ半年あるんだし、お互い頑張ろうね」
「はい」
春雪展――プロの画家として食べていけるかどうかの登竜門とも言われる日本屈指の絵画コンクールだ。もちろんそこで大賞を取ったからといって一生画家としてやっていけることが約束されるわけではないし、その逆もまた然り。あくまで目安に出来るという話でしかない。ただその他のコンクール含め、何度応募しても全く受賞しないのであれば画家は早々に諦めたほうがいいのも確かだけども。
そもそも私は別に画家を目指してるわけじゃないから、当然ながら賞を狙ってなどいない。ただ好きだから昔から描いているだけで、せっかく描いたから気が向いたら応募するくらいはしているというだけだ。上手くはなりたいけど賞はいらない。要は描ければいいのである。
「先輩は凄く上手だし、画家を目指してるんですか?」
「うんとね……将来のことを考えると画家なんて不安定な仕事ってやっぱり不安でしょ? だからなってみたい気持ちも少しはあるけど、そこまでなりたいとは思わないかな」
「それは、まあ――正論ですね。でも先輩くらい上手かったらなれると思いますけどね」
「私を買い被りすぎ。去年だって佳作止まりだったんだよ? 私は朝倉さんこそなれると思うけどな」
「それこそ無いですよ。私は趣味で描ければいいんです」
「えぇ、もったいないなぁ」
「そんなことより先輩――」
そこから話題を変え、取り留めの無い話題で盛り上がったりしながら暫く歩き続け――佐伯先輩と別れるT字路までやってきた。
予想は付いていたけれど――やはりというか佐伯先輩の表情には少しの陰りが見受けられた。
「はぁ、もうここまで来ちゃったね」
「家が隣とか近所だったりというわけじゃないので、こればっかりは仕方ないですね」
「むぅ……私は寂しいのに、朝倉さんはちっとも寂しく無さそう!」
口を尖らせ、頬を膨らませ、交際相手にやきもちを焼いたかのように(焼いたことないから知らないけど)そんなことを言われても困る。既に私の気持ちは学校で伝えてあるわけで、佐伯先輩がそこをどうにかするという話ではなかっただろうか。
「そんなことないですよぉさびしいですよぉ」
「本当に全然、全く、これっぽっちも寂しく無さそうなんですけどぉ!?」
「そうですね、別に寂しくはないですね」
「うぅ……酷い!」
「それより先輩、私はお腹が空いたので帰ります。また明日です」
「あっ――」
私は繋いでいた手を離すと、ペコリと軽く頭を下げて挨拶する。再び視界が佐伯先輩の顔を捉えた時、それはもう残念そうな表情をしていた。ちょっとくらいは可哀想と思わなくもないけれど、それでも私は帰宅する。だってもうお腹と背中がくっつきそうなくらいにペコペコなんだもの。帰宅を選ぶに決まっている。
でももしいつか、私が佐伯先輩を特別な意味で好きになった時が来たら、彼女を優先するようになるのだろうか。
「はぁ……また明日ね、朝倉さん」
「はい」
浮かんだそんな疑問を頭の片隅に追いやりつつ挨拶を終えると、佐伯先輩に背を向けて自宅へと歩き始めた。すでに離していたはずの右手には、まだ彼女の手の感触と熱が残っていた――気がした。
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